第10話 「見えない矢」
一
二月の朝。
森は、まだ雪に埋もれていた。
シルフィ・アローは、その森の入口に立っていた。
十六歳。
背は低い。
痩せている。
そして、目を閉じている。
彼女は、いつも目を閉じていた。
弓を引くときも。
歩くときも。
食事をするときも。
完全に閉じているわけではない。
半分ほど、開いている時もある。
しかし、何かに集中する瞬間になると、必ず、閉じる。
「シルフィ」
背後から、声がした。
レオン・グランツだった。
「おはよう」
「……おはようございます」
シルフィは、答えた。
しかし、振り返らなかった。
いや、正確には、振り返った。
ただ、目は、閉じたままだった。
「今日から、俺たちの訓練だってさ」
レオンは言った。
「先生が、森に集合って」
「……はい」
シルフィは、頷いた。
二人は、並んで、森の中へ入っていった。
雪を踏む音が、二人分。
レオンの足音は、大きい。
不規則だ。
時々、つまずきそうになる。
シルフィの足音は、小さい。
規則的だ。
一度も、つまずかない。
目を閉じているのに。
レオンは、そのことに、以前から気づいていた。
「なあ、シルフィ」
レオンが、聞いた。
「……はい」
「なんで、転ばないんだ」
「……え?」
「目、閉じてるだろ。なのに、木にもぶつからないし、転びもしない」
シルフィは、少し考えてから、答えた。
「……音です」
「音?」
「……雪を踏む音が、跳ね返ってきます。……木に当たると、跳ね返り方が変わります。……だから、木がどこにあるか、わかります」
レオンは、驚いた。
「それ、俺には全然聞こえないんだけど」
「……聞こうとしていないからです」
シルフィは答えた。
「……人は、目が見えていると、耳を使いません」
レオンは、その言葉に、考え込んだ。
確かに、そうかもしれない。
自分は、いつも、目に頼っている。
そして、転ぶ。
もし、目に頼らなかったら――
「……レオンさん」
シルフィが、言った。
「ん?」
「……着きました」
レオンは、顔を上げた。
森の中の、開けた場所。
そこに、大賢者が、立っていた。
二
「よく来た」
大賢者は言った。
「今日から、君たちのペア訓練を始める」
二人は、頷いた。
「まず、質問をする」
大賢者は、レオンを見た。
「レオン。君は、転ぶ瞬間、何が見えている」
レオンは、少し考えた。
「……何も、見えません」
「なぜ」
「……視界が、回るので。……上下も、左右も、わからなくなります」
「では、その間、君はどうやって敵の位置を把握している」
レオンは、答えられなかった。
考えたことが、なかったからだ。
「……わかりません」
「そうだろう」
大賢者は言った。
「君は、無意識にやっている。しかし、無意識でできることは、限界がある。意識できるようになれば、その先へ進める」
大賢者は、次に、シルフィを見た。
「シルフィ。君は、なぜ、目を閉じる」
シルフィの肩が、微かに、動いた。
大賢者は、それを見逃さなかった。
しかし、追及はしなかった。
「……その質問には」
シルフィは、答えた。
「……まだ、答えられません」
「よろしい」
大賢者は言った。
「では、答えられるようになったら、答えなさい」
シルフィは、頷いた。
レオンは、その様子を、横目で見ていた。
何かある。
そう思った。
しかし、聞かなかった。
三
「では、訓練を始める」
大賢者は言った。
「レオン。君は、この森の中を、走りなさい」
「走る…ですか」
「そうだ。ただし、目を閉じて」
「え!?」
レオンは、驚いた。
「無理です。転びます」
「君は、どうせ転ぶだろう」
大賢者は、あっさりと言った。
レオンは、言葉に詰まった。
確かに、その通りだった。
「……わかりました」
レオンは、目を閉じた。
そして、走り出した。
三歩。
木にぶつかった。
「痛っ」
「もう一度」
レオンは、立ち上がった。
そして、また走った。
五歩。
木にぶつかった。
「もう一度」
七歩。
十歩。
三歩。
一歩。
何度も、何度も、木にぶつかった。
一時間。
レオンの体は、傷だらけになっていた。
「先生」
レオンは、息を切らしながら言った。
「これ、意味ありますか」
「ある」
大賢者は答えた。
「君は、転倒によって敵の攻撃を躱す。しかし、転倒中、君は敵を見失う。つまり、君の技術は、常に『一回きり』だ」
レオンは、その指摘に、はっとした。
確かに、そうだった。
一度転んで、躱す。
そして、立ち上がる。
その立ち上がりの瞬間が、最も危険だった。
敵がどこにいるか、わからないからだ。
「もし」
大賢者は続けた。
「君が、転倒中も敵の位置を把握できたら、どうなる」
「……転びながら、次の攻撃ができます」
「そうだ」
大賢者は答えた。
「君の回避剣術は、連続技になる。転んで、躱して、そのまま転んで、また躱して、攻撃する。永久に止まらない、流れる剣術だ」
レオンの目が、輝いた。
「やります」
彼は言った。
「もう一度、やらせてください」
四
シルフィは、その様子を、離れた場所で見ていた。
目は、閉じている。
しかし、彼女には、すべてが「見えて」いた。
レオンが走る音。
木にぶつかる音。
倒れる音。
呻く音。
立ち上がる音。
そして、また走り出す音。
何度も。
何度も。
何度も。
「……」
シルフィは、その音を聞きながら、思った。
この人は、諦めない。
塾に来てから、ずっとそうだった。
朝四時から、一人で訓練していた。
誰にも言われず。
誰にも見られず。
ただ、自分のために。
「……レオンさん」
彼女は、小さく呟いた。
「……どうして、そんなに」
その問いは、レオンには届かなかった。
しかし、シルフィ自身の中で、答えを求め始めていた。
自分は、どうか。
自分は、諦めていないか。
自分は――
目を、閉じ続けていないか。
五
昼。
三人は、森の中で、簡単な食事をとった。
ココが作った、独創的な弁当。
見た目は、不思議だ。
しかし、味は、悪くない。
「……不思議な味です」
シルフィが、言った。
「な」
レオンが、笑った。
「でも、うまいんだよな」
「……はい」
シルフィも、微かに笑った。
その笑顔を、レオンは、初めて見た。
そして、気づいた。
シルフィが、笑うとき、少しだけ、目を開けるのだと。
「シルフィ」
レオンが、言った。
「……はい」
「今、目、開いてた」
シルフィの体が、こわばった。
そして、すぐに、目を閉じた。
「……すみません」
「なんで謝るんだよ」
レオンは、慌てて言った。
「別に、悪いことじゃないだろ」
「……」
シルフィは、答えなかった。
大賢者は、その様子を、黙って見ていた。
そして、何も言わなかった。
六
午後。
大賢者は、シルフィに、新しい訓練を課した。
「シルフィ。君は、この森の中で、標的を撃ちなさい」
大賢者は、森の奥を指した。
「標的は、五十個。すべて、木の陰に隠してある」
「……五十個」
「そうだ。ただし――」
大賢者は、続けた。
「レオンが、君の前を走る」
「え?」
シルフィは、驚いた。
「……レオンさんが、前を?」
「そうだ。君は、レオンに当てずに、標的だけを撃つ」
シルフィの顔から、血の気が引いた。
「……無理です」
彼女は、初めて、強い口調で言った。
「……絶対に、無理です」
「なぜ」
「……当たったら、どうするんですか」
「当てなければいい」
「……でも」
シルフィの声が、震えていた。
「……もし、当たったら」
「当たったら?」
大賢者は、静かに聞いた。
シルフィは、答えなかった。
しかし、その沈黙の中に、何かが、隠されていた。
レオンは、その様子を見て、口を開いた。
「先生。俺は、いいですよ」
「レオン」
「シルフィの矢なら、当たらない」
レオンは、言った。
「あいつ、目、閉じてるけど、俺より正確だ。俺、知ってます」
シルフィは、その言葉に、顔を上げた。
「……なぜ」
「なぜって?」
「……なぜ、そんなに、信じられるんですか」
レオンは、少し考えてから、答えた。
「一緒に訓練したから」
「……え」
「前に、俺とシルフィで、戦っただろ」
レオンは、続けた。
「あのとき、シルフィの矢は、全部、俺の急所を狙ってた。でも、俺が躱せる速度で来た。……あれ、わざとだろ」
シルフィは、驚いた。
気づかれていた。
彼女は、あのとき、レオンが躱せるギリギリの速度に、調整していたのだ。
「……はい」
彼女は、答えた。
「だからだよ」
レオンは、笑った。
「シルフィは、当てたくないときは、当てない。そういう射手だ」
その言葉が。
シルフィの中の、何かに、触れた。
七
訓練が、始まった。
レオンが、森の中を走る。
目を閉じて。
木にぶつかりながら。
その後ろから、シルフィが、矢を放つ。
最初の一本。
シルフィの手が、震えた。
矢は、大きく逸れた。
標的にも、レオンにも、当たらなかった。
「もう一度」
大賢者は言った。
二本目。
また、逸れた。
三本目。
四本目。
五本目。
すべて、外れた。
シルフィは、その場に、座り込んだ。
「……できません」
彼女は、呟いた。
「……手が、震えます」
大賢者は、彼女の隣に、しゃがんだ。
「シルフィ」
「……はい」
「君は、何を怖れている」
シルフィは、答えなかった。
「言わなくてもいい」
大賢者は、続けた。
「しかし、君が怖れているものと、向き合わない限り、君の弓は、完成しない」
「……」
「君の腕は、この国で最高だ。それは、私が保証する。しかし、君の心は、まだ、目を閉じている」
大賢者は、立ち上がった。
「今日は、ここまでにしよう」
八
その夜。
塾の屋上。
シルフィは、一人で、座っていた。
星が、出ていた。
しかし、彼女は、目を閉じていた。
星を見ていない。
ただ、風の音を、聞いていた。
「……」
足音が、聞こえた。
レオンだ。
歩き方で、わかる。
不規則で、時々つまずきそうになる、あの足音。
「隣、いい?」
「……どうぞ」
レオンは、シルフィの隣に座った。
しばらく、二人とも、何も話さなかった。
そして、レオンが、口を開いた。
「今日、悪かったな」
「……え?」
「俺が、勝手に『いいですよ』とか言ったから。シルフィ、追い詰められたよな」
シルフィは、首を振った。
「……違います」
「違う?」
「……嬉しかったです」
シルフィは、答えた。
「……信じてくれて」
「……そっか」
レオンは、頭を掻いた。
また、沈黙。
そして、シルフィが、言った。
「……レオンさん」
「ん?」
「……聞いてくれますか」
「何を」
「……私が、目を閉じる、理由を」
レオンは、姿勢を正した。
「聞く」
シルフィは、深く息を吸った。
そして、話し始めた。
九
「……私の村は、山の中にありました」
シルフィは、話した。
「……小さな村です。……三十人くらいしか、いませんでした」
「うん」
「……父は、猟師でした。……とても、上手な猟師で。……村で、一番でした」
「へえ」
「……私は、五歳のときから、父に、弓を教わりました」
シルフィの声は、静かだった。
「……才能があると、言われました。……八歳のときには、もう、父より上手でした」
「すげえな」
「……はい。……村中が、私を褒めました。……天才だと」
シルフィは、そこで、言葉を止めた。
長い沈黙。
レオンは、待った。
急かさなかった。
そして、シルフィは、続けた。
「……九歳の、秋でした」
「……」
「……村の男の子たちと、森で遊んでいました。……かくれんぼです」
シルフィの声が、震え始めた。
「……私は、鬼でした。……みんなを、探していました」
「……」
「……そのとき、藪が、動きました」
レオンは、息を呑んだ。
嫌な予感がした。
「……熊だと、思いました」
シルフィは、続けた。
「……その年、村の近くに、熊が出ていたんです。……人が、二人、死にました」
「……」
「……だから、私は」
シルフィの声が、詰まった。
「……矢を、放ちました」
「……」
「……見ないで」
「……」
「……ただ、音だけで」
長い沈黙。
シルフィの頬を、涙が、伝った。
「……熊じゃ、ありませんでした」
「……」
「……村長さんの、息子でした」
「……」
「……八歳の、男の子でした」
レオンは、何も言えなかった。
言葉が、出てこなかった。
「……矢は、肩に当たりました」
シルフィは、続けた。
「……死には、しませんでした。……でも、右腕が、動かなくなりました」
「……」
「……あの子は、大工になりたいと言っていました」
「……」
「……なれなくなりました」
シルフィは、両手で、顔を覆った。
「……村の人たちは、私を、責めませんでした」
彼女は、続けた。
「……事故だと。……仕方なかったと」
「……」
「……でも、みんな、私を見なくなりました」
「……」
「……父も。……母も。……誰も、私の目を、見なくなりました」
シルフィは、震えていた。
「……だから、私も、閉じました」
「……」
「……見ないように。……見られないように」
「……」
「……目を、閉じました」
十
長い、長い沈黙。
星が、瞬いていた。
レオンは、何を言えばいいのか、わからなかった。
慰めの言葉は、違う気がした。
同情の言葉も、違う気がした。
だから、彼は、別のことを言った。
「……なあ、シルフィ」
「……はい」
「俺、親父に、勘当されたんだ」
シルフィは、顔を上げた。
「……え?」
「言ってなかったっけ」
レオンは、続けた。
「うちの親父、剣術道場やっててさ。すげえ強いんだ。国で三本の指に入るって言われてた」
「……はい」
「で、俺は、その息子だから、当然、強くなるはずだった」
レオンは、苦笑した。
「でも、俺、転ぶんだよ。剣を振ると、転ぶ」
「……」
「十年、やった。毎日、毎日。でも、転ぶ」
レオンは、空を見上げた。
「十七のとき、親父に言われた。『お前は、俺の子じゃない』って」
シルフィは、息を呑んだ。
「……ひどい」
「まあな」
レオンは、笑った。
「でも、俺、そのとき思ったんだ。『そうかもな』って」
「……え」
「本当に、そう思ったんだよ」
レオンは、続けた。
「俺は、道場の恥だった。弟弟子にも負ける。門下生に笑われる。親父の顔に、泥を塗ってた」
「……」
「だから、家を出た。それで、いいと思ってた」
レオンは、シルフィを見た。
「でも、先生に会って、変わった」
「……」
「俺の転倒は、才能だって。先生は、そう言った」
レオンは、続けた。
「最初は、信じられなかった。慰めだと思った」
「……はい」
「でも、違った。先生には、本当に、見えてたんだ」
レオンは、自分の手を見つめた。
「俺が、十年間、恥だと思ってたものが。実は、俺の一番の武器だった」
シルフィは、レオンの言葉を、聞いていた。
「なあ、シルフィ」
レオンは、言った。
「お前が閉じてる目も、たぶん、そうだと思う」
「……え」
「お前は、罰として、目を閉じてる。自分を許さないために」
シルフィの肩が、震えた。
「でも、その閉じた目が、お前を、この国で一番の射手にした」
「……そんなの」
「そんなの、じゃない」
レオンは、強く言った。
「お前の耳は、俺には聞こえない音を聞く。お前の肌は、俺には感じない風を感じる。それは、九年間、目を閉じてきたからだ」
「……」
「あの日のことは、消えない」
レオンは、続けた。
「消えないし、消しちゃいけないと思う。あの子の腕は、戻らないんだから」
シルフィは、頷いた。
「でも」
レオンは、言った。
「お前が、これから撃つ矢は、まだ、誰も傷つけてない」
「……」
「その矢を、どう使うかは、お前が決められる」
シルフィは、レオンを見た。
目は、閉じたままだった。
しかし、その顔には、これまでとは違う表情が、浮かんでいた。
「……レオンさん」
「ん?」
「……明日」
「……」
「……訓練、続けさせてください」
「おう」
レオンは、笑った。
「俺も、走る」
十一
翌朝。
森。
大賢者は、二人を待っていた。
「来たか」
「はい」
レオンが、答えた。
「先生」
シルフィが、言った。
「なんだ」
「……昨日の質問に、答えます」
大賢者は、静かに、彼女を見た。
「……私が目を閉じるのは、罰です」
シルフィは、続けた。
「……九歳のとき、人を撃ちました。……間違えて。……その罰として、目を閉じています」
大賢者は、頷いた。
「知っていた」
「……え?」
「君の村のことは、調べてある」
大賢者は答えた。
「私は、弟子を取るとき、その者の過去を、必ず調べる」
シルフィは、驚いた。
「……では、なぜ」
「なぜ、私を弟子にしたのか?」
「……はい」
大賢者は、答えた。
「君が、その日以来、一度も、狩りをしていないからだ」
「……」
「君の村では、九歳から狩りに出る。しかし、君は、あの日以来、一度も獲物を殺していない。それでも、毎日、弓を引き続けた」
大賢者は、続けた。
「なぜだ、シルフィ。なぜ、弓を捨てなかった」
シルフィは、答えられなかった。
考えたことが、なかったからだ。
いや。
考えないように、していた。
「……わかりません」
「では、私が言おう」
大賢者は言った。
「君は、いつか、その矢で、誰かを守りたいのだ」
シルフィの体が、震えた。
「傷つけた矢を、守る矢に変えたい。だから、君は、弓を捨てられなかった」
大賢者は、続けた。
「これは、罰ではない。願いだ」
「……願い」
「そうだ」
大賢者は答えた。
「君は、九年間、罰だと思いながら、実は、願い続けていたのだ」
シルフィの目から、涙が、こぼれた。
閉じた目の、その隙間から。
十二
訓練が、再開された。
レオンが、森を走る。
目を閉じて。
シルフィが、その後ろから、矢を放つ。
一本目。
矢は、レオンの右を通り過ぎ、標的に当たった。
「当たった!」
レオンが、叫んだ。
「もう一度」
大賢者が言った。
二本目。
当たった。
三本目。
当たった。
四本目。
五本目。
十本目。
すべて、当たった。
そして、一本も、レオンには当たらなかった。
「シルフィ」
大賢者が、聞いた。
「なぜ、当たるようになった」
シルフィは、答えた。
「……レオンさんの音が、聞こえるからです」
「音」
「……足音。……呼吸。……服の擦れる音」
シルフィは、続けた。
「……それが、全部、聞こえます。……だから、どこにいるか、わかります」
「では、標的の位置は」
「……レオンさんが、教えてくれます」
「教えている?」
大賢者は、聞き返した。
「レオンは、何も言っていないが」
「……言葉じゃありません」
シルフィは、答えた。
「……レオンさんが走る道が、標的を避けています。……無意識に。……だから、レオンさんが避けた場所に、標的があります」
大賢者は、驚いた。
そして、笑った。
「素晴らしい」
大賢者は言った。
「レオン。君は、目を閉じて走っているとき、標的を避けていることに、気づいていたか」
レオンは、首を振った。
「全然」
「そうだろう」
大賢者は答えた。
「君は、無意識に、周囲の障害物を感知している。転倒の技術が、そのまま、感知の技術になっているのだ」
大賢者は、二人を見た。
「レオンは、感じている。しかし、それを認識できない」
大賢者は、続けた。
「シルフィは、認識できる。しかし、動けない」
「つまり」
大賢者は、言った。
「レオンが、目となり。シルフィが、頭となる。二人で、一人の完璧な射手になるのだ」
十三
その後の、一か月。
二人の訓練は、加速していった。
最初は、レオンが走り、シルフィが撃つ。
次は、レオンが戦い、シルフィが援護する。
そして、最終的には――
二人が、完全に同期した。
レオンが転ぶ。
その瞬間、レオンの体が、シルフィの視界を、開く。
シルフィが、その隙間に、矢を放つ。
レオンが立ち上がる。
その動きが、次の敵の位置を、シルフィに伝える。
シルフィが、次の矢を放つ。
一つの流れ。
途切れない流れ。
転倒と、射撃。
回避と、攻撃。
その連携は、見る者に、こう思わせた。
「二人は、同じ体を、共有している」
十四
三月の初め。
大賢者は、二人に、実戦を課した。
「この森に、魔獣が出た」
大賢者は言った。
「グレイウルフの群れだ。十五頭」
「十五頭…」
レオンが、呟いた。
「危険な数だ」
大賢者は続けた。
「一頭でも、訓練された兵士と互角。十五頭となれば、小隊が全滅する」
「……先生は」
シルフィが、聞いた。
「私は、見ているだけだ」
大賢者は答えた。
「ただし、君たちが死にそうになったら、助ける」
レオンとシルフィは、顔を見合わせた。
いや。
レオンだけが、シルフィを見た。
シルフィは、目を閉じている。
しかし、レオンの視線を、感じていた。
「……行きましょう」
シルフィは、言った。
「おう」
レオンは、頷いた。
十五
森の奥。
グレイウルフの群れが、いた。
灰色の毛皮。
鋭い牙。
赤い目。
十五頭。
その全てが、二人を、見ていた。
「シルフィ」
レオンが、小さく言った。
「……はい」
「聞こえるか」
「……はい」
シルフィは、答えた。
「……右に、六頭。……左に、五頭。……正面に、四頭」
「正確だな」
「……はい」
「じゃあ、いくぞ」
レオンは、剣を抜いた。
そして、走り出した。
正面へ。
四頭の狼が、飛びかかってきた。
レオンは、転んだ。
意図的に。
パターンC。
背中から。
狼の牙が、レオンの頭上を、通り過ぎた。
その瞬間。
シルフィの矢が、三本、同時に放たれた。
三頭の狼が、倒れた。
「一頭、残ってる」
レオンが、叫んだ。
「……わかっています」
シルフィが、答えた。
四本目の矢。
最後の一頭が、倒れた。
「右!」
レオンが、叫んだ。
六頭の狼が、飛びかかってきた。
レオンは、転んだ。
パターンA。
左肩から。
狼の攻撃を、躱す。
そして、その転倒中に、レオンは剣を振った。
一頭の狼の脚を、斬った。
残り、五頭。
シルフィの矢が、五本、連続で放たれた。
四頭が、倒れた。
一頭が、残った。
その一頭が、シルフィに向かって、走った。
「シルフィ!」
レオンが、叫んだ。
しかし、シルフィは、動かなかった。
目を、閉じたまま。
狼が、近づいてくる。
十メートル。
五メートル。
三メートル。
そして、その瞬間。
シルフィは、目を、開いた。
九年ぶりに。
戦いの最中に。
完全に。
その目は、灰色だった。
美しい、灰色。
そして、その目が、狼を、捉えた。
矢が、放たれた。
狼の眉間を、貫いた。
狼は、シルフィの足元に、倒れた。
「……」
シルフィは、その狼を、見下ろしていた。
目を、開けたまま。
「シルフィ!」
レオンが、走ってきた。
「大丈夫か!」
「……はい」
シルフィは、答えた。
そして、レオンを、見た。
目を、開けて。
まっすぐに。
レオンは、その視線に、驚いた。
「……お前」
「……はい」
「目、開けてる」
「……はい」
シルフィは、答えた。
そして、微かに、笑った。
「……見えました」
「何が」
「……レオンさんが、危なくなったとき」
シルフィは、続けた。
「……見なきゃ、と思いました」
「……」
「……守るためには」
シルフィの目から、涙が、こぼれた。
「……見なきゃ、いけないんです」
十六
残り五頭の狼は、逃げていった。
群れの半分以上を失い、戦意を喪失したのだ。
大賢者が、二人の元へ、歩いてきた。
「見事だ」
大賢者は言った。
「十頭。二人だけで」
「先生」
レオンが、言った。
「シルフィが、目を開けました」
「見ていた」
大賢者は答えた。
そして、シルフィを見た。
「シルフィ。どうだった」
シルフィは、少し考えてから、答えた。
「……怖かったです」
「そうだろう」
「……でも」
シルフィは、続けた。
「……九年前と、違いました」
「何が違う」
「……九年前は、見ないで、撃ちました」
シルフィは、答えた。
「……今日は、見て、撃ちました」
大賢者は、深く頷いた。
「それが、答えだ」
大賢者は言った。
「シルフィ。君は、目を閉じることで、聴覚と触覚を極限まで磨いた。それは、君の武器だ」
「……はい」
「しかし、閉じ続ける必要は、もう、ない」
大賢者は、続けた。
「君は、閉じることも、開くことも、選べる。それが、真の射手だ」
シルフィは、頷いた。
そして、目を、閉じた。
しかし、それは、逃避の閉じ方ではなかった。
集中の、閉じ方だった。
「……はい」
彼女は、答えた。
「……選びます」
十七
その夜。
塾の食堂。
十六人が、揃っていた。
「聞いたぞ、レオン!」
ガルドが、叫んだ。
「グレイウルフ十頭だって!?」
「まあな」
レオンは、照れくさそうに、頭を掻いた。
「すごいです…」
ミアが、言った。
「二人だけで…」
「シルフィがいたからだよ」
レオンは、言った。
「俺一人だったら、三頭で死んでた」
シルフィは、俯いた。
しかし、その顔は、赤かった。
「シルフィさん」
エマが、話しかけた。
「……はい」
「……目、開いてます」
食堂が、静まり返った。
全員の視線が、シルフィに集まった。
シルフィは、驚いて、目を閉じようとした。
しかし――
閉じなかった。
彼女は、顔を上げた。
そして、皆を、見た。
一人ずつ。
レオン。ミア。ガルド。リナ。ノア。ココ。エマ。ドグ。ポチ。トム。ニナ。シオン。バルド。レン。モモ。
十五人の顔を、見た。
そこには、驚きがあった。
しかし、それ以上に、喜びがあった。
「……すごい」
リナが、呟いた。
「シルフィの目…綺麗…」
「……ありがとうございます」
シルフィは、答えた。
そして、微笑んだ。
初めて、目を開けたまま。
食堂に、拍手が、起きた。
誰が始めたのか、わからない。
しかし、十五人全員が、拍手していた。
シルフィは、その拍手の中で、涙を流した。
九年間、閉じ続けた目から。
十八
その夜遅く。
大賢者は、塾の屋上に立っていた。
星が、出ていた。
三月の星。
春が、近づいていた。
「先生」
背後から、声がした。
レオンだった。
「起きていたのか」
「はい」
レオンは、大賢者の隣に立った。
「先生に、聞きたいことがあって」
「なんだ」
「シルフィのこと、知ってたんですよね」
「ああ」
「じゃあ、なんで、あの訓練をさせたんですか」
レオンは、聞いた。
「シルフィの前を、俺が走る訓練。あれ、シルフィにとって、一番きつい訓練でしょう」
大賢者は、しばらく黙っていた。
そして、答えた。
「その通りだ」
「なんで」
「乗り越えるためには、向き合うしかないからだ」
大賢者は、続けた。
「シルフィは、九年間、逃げていた。目を閉じることで、あの日から逃げていた」
「……」
「しかし、逃げ続ける限り、彼女は、あの日に囚われたままだ」
大賢者は、星を見上げた。
「彼女に必要だったのは、慰めではない。もう一度、人に向かって矢を放ち、そして、その人を守るという経験だ」
レオンは、その言葉を、噛みしめた。
「……俺は、そのために」
「そうだ」
大賢者は、答えた。
「君は、シルフィが撃つべき『人』だった」
「……」
「すまない」
大賢者は、言った。
「君を、道具として使った」
レオンは、首を振った。
「いえ」
彼は、答えた。
「俺、嬉しいです」
「嬉しい?」
「はい」
レオンは、笑った。
「シルフィが、目を開けた。俺のおかげで」
レオンは、続けた。
「俺、ずっと、誰かの役に立てない人間だと思ってました。転ぶだけの、駄目な奴だって」
「……」
「でも、俺、シルフィの役に立てた」
レオンの目に、涙が浮かんだ。
「それが、一番、嬉しいです」
大賢者は、レオンの肩に、手を置いた。
「レオン」
「はい」
「君は、良い剣士になる」
大賢者は、言った。
「いや。良い剣士に、もうなっている」
十九
翌朝。
シルフィは、森にいた。
一人で。
弓を、握っていた。
そして、目を、開いていた。
彼女は、標的を、見た。
九年ぶりに、目で見て、狙った。
そして、矢を放った。
命中した。
中心に。
「……」
シルフィは、その矢を、見つめた。
そして、思った。
これから、この矢で、何をしよう。
守ろう。
誰かを。
あの日、傷つけた分だけ。
いや、それ以上に。
「……レオンさん」
彼女は、呟いた。
「……ありがとうございます」
その言葉は、森の中に、消えていった。
しかし、彼女の中には、確かに、残っていた。
二十
三月の中旬。
大賢者は、塾の全員を、訓練場に集めた。
「報告がある」
大賢者は言った。
十六人は、緊張して、大賢者を見つめた。
「王都から、依頼が来た」
「王都から!?」
リナが、叫んだ。
「そうだ」
大賢者は、続けた。
「内容は、こうだ。『東の街道に、盗賊団が出没している。討伐せよ』」
「盗賊団…」
レオンが、呟いた。
「規模は」
「約三十人」
大賢者は、答えた。
「元傭兵が、多く含まれている。訓練された者たちだ」
十六人は、息を呑んだ。
三十人。
しかも、訓練された者たち。
これまでの魔獣とは、次元が違う。
「これは」
大賢者は、続けた。
「君たちの、初めての『対人戦』になる」
「……対人」
シオンが、呟いた。
「そうだ」
大賢者は答えた。
「相手は、獣ではない。人だ。考え、策を練り、そして、殺しに来る」
大賢者は、十六人を見渡した。
「行くか、行かぬか。君たちが決めなさい」
沈黙。
長い沈黙。
そして、レオンが、一歩、前に出た。
「行きます」
続いて、シルフィが、前に出た。
「……行きます」
ミアが。
リナが。
ガルドが。
エマが。
ノアが。
シオンが。
ココが。
ドグが。
ポチが。
トムが。
ニナが。
バルドが。
レンが。
モモが。
十六人、全員が、前に出た。
大賢者は、その光景を、見つめた。
そして、微かに、笑った。
「よろしい」
大賢者は、言った。
「では、三日後、出発する」
第10話終了。




