第9話 「無言の力」
一
一月の朝。
雪が、フェアウッド村を白く覆っていた。
塾の窓は、内側から曇っていた。
ノア・ベルは、その曇った窓を、指でこすっていた。
小さな穴が開く。
その穴から、外の景色が見えた。
雪。
白い雪。
音のない世界。
彼女は、その景色が好きだった。
音がないから。
誰も、彼女に話しかけないから。
十六歳。
ノア・ベル。
商家の三女として生まれた。
商人の家。
つまり、「話すこと」が仕事の家だ。
しかし、彼女は、話せなかった。
正確に言えば、話すことはできる。
ただ、人の目を見ると、喉が閉まる。
言葉が、出てこなくなる。
「お前は商人に向いていない」
父は、そう言った。
「せめて、目を見ろ」
母は、そう言った。
姉たちは、何も言わなかった。
ただ、憐れむような目で、彼女を見た。
その目が、一番、辛かった。
「……」
ノアは、窓から手を離した。
穴は、すぐにまた曇っていった。
「そこにいたのか」
背後から、声がした。
ノアは、振り返らなかった。
振り返らなくても、誰かはわかる。
シオン・ダンマリ。
十七歳。
塾で、最も言葉を発しない少年。
「……」
シオンは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、ノアの隣に立った。
そして、同じように、窓の外を見た。
二人は、何も話さなかった。
十分。
二十分。
三十分。
ただ、並んで、雪を見ていた。
そして、ノアは、気づいた。
この沈黙が、苦しくないということに。
これまで、沈黙は、いつも苦しかった。
何か話さなければならない。
そう思うたびに、喉が閉まった。
しかし、シオンとの沈黙は、違った。
何も話さなくていい。
そういう沈黙だった。
「……ここ」
ノアは、小さく呟いた。
「……いい」
シオンは、微かに頷いた。
それだけの会話だった。
しかし、その二言で、二人は、互いを理解していた。
二
その日の午後。
大賢者は、二人を、塾の応接室に呼んだ。
応接室には、テーブルが一つ。
椅子が三つ。
それだけの、簡素な部屋だった。
「座りなさい」
大賢者は言った。
ノアとシオンは、向かい合って座った。
大賢者は、その間に立った。
「君たちのペア訓練を、今日から始める」
「……」
「……はい」
二人の返事は、ほとんど聞こえなかった。
大賢者は、笑った。
「よろしい。では、まず、質問をする」
大賢者は、ノアを見た。
「ノア。君は、なぜ、人の目を見られない」
ノアは、俯いた。
答えられない。
そう思った。
しかし、大賢者は、待った。
十秒。
三十秒。
一分。
二分。
急かさなかった。
ただ、待った。
そして、三分後。
ノアは、小さく答えた。
「……見えすぎるから」
「見えすぎる」
大賢者は、繰り返した。
「何が」
「……全部」
ノアは、続けた。
「……相手が、何を考えているか。私を、どう思っているか。……つまらないと思っていることも。早く終わってほしいと思っていることも。……全部、見えてしまう」
「なるほど」
大賢者は言った。
「では、君は、目を見ることが怖いのではない。目を見ると、相手の本心が見えすぎて、耐えられないのだ」
ノアは、その言葉に、驚いた。
そこまで、理解されたことは、なかった。
父も。母も。姉たちも。
誰も、そこまでは、見なかった。
「……はい」
彼女は、小さく答えた。
大賢者は、次に、シオンを見た。
「シオン。君は、なぜ、話さない」
シオンは、しばらく黙っていた。
十秒。
三十秒。
一分。
そして、答えた。
「……言葉は、減る」
「減る」
大賢者は、繰り返した。
「……使うたびに、意味が減る」
シオンは、続けた。
「……だから、使いたくない」
大賢者は、深く頷いた。
「言葉のインフレーションだな」
「……」
「言葉を大量に使う者の言葉は、軽くなる。しかし、言葉をほとんど使わない者の言葉は、極めて重くなる。君は、それを直感的に理解している」
シオンは、微かに、目を開いた。
その目には、驚きがあった。
自分の沈黙が、初めて、理解された。
「……はい」
彼は、答えた。
三
大賢者は、テーブルの上に、一枚の紙を置いた。
「では、君たちに、課題を出す」
二人は、その紙を見た。
そこには、こう書かれていた。
『三日後、隣村ミルドンの商人組合と、交渉を行う』
『目的:この村の小麦を、適正価格で買い取らせる』
『交渉者:ノア・ベル、シオン・ダンマリ』
『大賢者は、同行しない』
ノアの顔から、血の気が引いた。
「……無理です」
彼女は、初めて、はっきりと言葉を発した。
「……私、話せません。……交渉なんて、絶対に無理です」
「そうか」
大賢者は言った。
「では、君は、話す必要がある、と思っているのだな」
「……え?」
「交渉とは、話すことだと」
ノアは、混乱した。
交渉とは、話すことではないのか。
言葉で、相手を説得する。
言葉で、条件を引き出す。
それが、交渉ではないのか。
「違う」
大賢者は、静かに言った。
「交渉とは、相手に『こちらの条件を受け入れたい』と思わせることだ。言葉は、その手段の一つに過ぎない。しかも、最も弱い手段の一つだ」
「……最も、弱い」
「そうだ」
大賢者は続けた。
「言葉は、相手に警戒を与える。売り込めば売り込むほど、相手は疑う。値下げを頼めば頼むほど、相手は強気になる。言葉とは、そういうものだ」
ノアは、その言葉を、噛みしめた。
確かに、そうだ。
父の商談を、何度も見てきた。
父は、饒舌だった。
しかし、うまくいかない商談も、多かった。
相手が、警戒するのだ。
「では」
ノアは、聞いた。
「……言葉以外に、何が」
「観察と、沈黙だ」
大賢者は答えた。
「ノア。君は、相手の本心が見えすぎる。それは、交渉において、最強の武器だ。シオン。君の沈黙は、相手に語らせる。それも、交渉において、最強の武器だ」
大賢者は、二人を見た。
「君たちは、二人とも、『交渉に向いていない』と言われて育った。しかし、私に言わせれば、君たちは、この国で最も交渉に向いた二人だ」
四
翌日から、訓練が始まった。
大賢者が、最初にノアに教えたのは、「観察の言語化」だった。
「君は、相手の本心が見える。しかし、それを、言葉にしたことがあるか」
「……ありません」
「では、今日から、それをする」
大賢者は、村人を一人、応接室に呼んだ。
村の鍛冶屋。
四十代の男。
「では、この男と、五分間、同じ部屋にいなさい。話さなくていい。ただ、観察しなさい」
ノアは、俯いたまま、五分間を過ごした。
しかし、俯いていても、彼女には見えていた。
視界の端に映る、男の靴。
その靴の、揺れ方。
膝の動き。
呼吸の音。
服の擦れる音。
すべてが、情報だった。
五分後。
大賢者は、鍛冶屋を退室させた。
「では、ノア。何が見えた」
ノアは、少し考えてから、答えた。
「……あの人、疲れています」
「なぜ、そう思う」
「……呼吸が、浅い。……あと、座ったとき、右足に体重をかけなかった。……右の膝が、痛いんだと思います」
「他には」
「……早く、帰りたがっていた。……でも、それを隠していた。……たぶん、大賢者に、失礼だと思ったから」
「なぜ、帰りたがっていたとわかる」
「……足が、三回、扉の方を向きました」
大賢者は、静かに笑った。
「素晴らしい」
大賢者は言った。
「ノア。私は、あの男の膝が痛いことも、彼が急いでいたことも、知らなかった」
ノアは、顔を上げた。
「……え」
「私は、君ほど見えていない」
大賢者は、続けた。
「私は、魔術も、剣術も、君より遥かに上だ。しかし、人の観察においては、君に劣る。これは、事実だ」
ノアは、その言葉を、信じられなかった。
大賢者。
すべてにおいて超一流の人物。
その人が、自分に劣ると言った。
「……嘘です」
彼女は、小さく言った。
「嘘ではない」
大賢者は答えた。
「私が君を褒めるとき、それは慰めではない。私には、本当に、君の才能が見えている。だから、褒めているのだ」
その言葉が、ノアの中で、何かを壊した。
これまで積み上げてきた、「自分は駄目だ」という壁。
その壁に、初めて、亀裂が入った。
五
同じ日の午後。
大賢者は、シオンに、別の訓練を課した。
「シオン。君の沈黙は、強い。しかし、君は、その沈黙を『制御』していない」
「……」
「君は、話せないから話さない。しかし、真の交渉者は、『話さないことを選ぶ』のだ」
大賢者は、砂時計をテーブルに置いた。
「では、訓練だ。私が、君に質問をする。君は、この砂時計が落ちきるまで、答えてはならない」
砂時計は、三分だった。
「では、始める」
大賢者は、質問した。
「シオン。君は、この塾を、どう思う」
シオンは、黙っていた。
砂が、落ちていく。
一分。
普段の彼なら、これで十分だった。
しかし、大賢者は、待っている。
二分。
沈黙が、重くなってきた。
シオンは、初めて、沈黙の重さを感じた。
自分の沈黙が、相手に何を与えているのか。
その重さを、初めて、内側から体験した。
二分半。
大賢者は、微動だにしない。
三分。
砂が、落ちきった。
「……いい塾だと、思います」
シオンは、答えた。
「なるほど」
大賢者は言った。
「では、今の三分間で、私は何を考えていたと思う」
シオンは、少し考えた。
「……わかりません」
「そうだろう」
大賢者は答えた。
「私も、君が何を考えているか、わからなかった。これが、沈黙の力だ。沈黙は、相手に『わからない』を与える。人は、わからないものを、怖れる。そして、怖れるものに、譲歩する」
シオンは、その言葉を、深く理解した。
自分の沈黙は、逃避ではなかった。
武器だったのだ。
「では、次の段階だ」
大賢者は言った。
「今度は、君が沈黙し、相手が耐えられなくなるまで、待つ訓練をする」
六
二日目。
大賢者は、村人を次々と応接室に呼んだ。
そして、シオンと二人きりにした。
「五分間、沈黙しなさい。ただし、相手が話し始めたら、聞きなさい」
最初の村人は、農夫だった。
シオンは、何も話さなかった。
農夫は、最初、困惑した。
一分。
農夫は、天気の話を始めた。
「今年は、雪が多いですなあ」
シオンは、何も答えなかった。
二分。
農夫は、自分の畑の話を始めた。
「実は、うちの畑、去年から調子が悪くて」
シオンは、何も答えなかった。
三分。
農夫は、もっと深い話を始めた。
「息子が、村を出たいと言っていて。……止めるべきか、迷っているんです」
シオンは、静かに、頷いた。
四分。
農夫は、話し続けた。
自分の悩み。
自分の不安。
誰にも言えなかったこと。
五分。
農夫は、深く息を吐いた。
「……なんだか、すっきりしました。ありがとうございます」
そして、退室していった。
シオンは、一言も話していない。
しかし、農夫は、感謝して帰っていった。
大賢者は、部屋に戻ってきた。
「わかったか」
大賢者は言った。
「人は、沈黙を、自分で埋めようとする。そして、埋めるうちに、本音を出す。君は、何も聞かずに、すべてを聞いたのだ」
シオンは、その事実に、驚いていた。
自分は、何もしていない。
ただ、黙っていただけだ。
しかし、その沈黙が、相手のすべてを引き出した。
「……これが」
シオンは、呟いた。
「……交渉」
「そうだ」
大賢者は答えた。
「これが、交渉だ」
七
三日目の朝。
出発の日。
雪は、まだ降っていた。
ノアとシオンは、馬車に乗った。
隣村ミルドンまで、二時間の道のり。
馬車の中で、二人は、何も話さなかった。
いつも通りの、沈黙。
しかし、その沈黙の質が、以前とは違っていた。
以前は、逃げの沈黙だった。
今は、準備の沈黙だった。
一時間が過ぎた頃。
ノアが、小さく口を開いた。
「……シオン」
「……」
「……怖くない?」
シオンは、少し考えた。
そして、答えた。
「……怖い」
ノアは、その答えに、少し安心した。
「……私も」
「……でも」
シオンは、続けた。
「……二人だ」
その二言に、ノアは、顔を上げた。
二人だ。
一人ではない。
それだけの言葉が、これほど支えになるとは、思わなかった。
「……うん」
ノアは、頷いた。
馬車は、雪の中を進んだ。
八
ミルドン村。
フェアウッドより、大きな村だ。
商人組合の建物は、村の中心にあった。
石造りの、立派な建物。
二人は、その建物に入った。
案内された部屋には、三人の男が座っていた。
商人組合の代表。
副代表。
そして、書記。
代表は、五十代の男だった。
でっぷりとした体格。
高価な服。
そして、傲慢な目。
「ほう」
代表は、二人を見て、鼻で笑った。
「大賢者殿の使いというから、どんな者が来るかと思えば。子供が二人か」
ノアの喉が、閉まった。
いつもの感覚。
言葉が、出てこない。
しかし、その瞬間。
彼女は、気づいた。
見えたのだ。
代表の、本心が。
彼は、笑っている。
しかし、その笑いは、余裕からではない。
不安からだ。
なぜか。
ノアは、観察した。
代表の右手。
親指が、机の下で、他の指を擦っている。
無意識の癖。
不安のサイン。
代表の視線。
ノアたちの後ろの扉を、二回、確認した。
誰かが来ることを、待っている。
あるいは、恐れている。
副代表の様子。
代表の言葉に、微かに眉を動かした。
同意していない。
書記の様子。
書類を、必要以上に整えている。
緊張している。
すべてが、見えた。
一秒で。
そして、ノアは、理解した。
この商人組合は、追い詰められている。
小麦が、必要なのだ。
それも、急いで。
なぜなら――
ノアは、部屋を見渡した。
壁の棚。
そこに置かれた、契約書の束。
その一番上の書類の端に、印が見えた。
王都の紋章。
つまり、この組合は、王都と大きな契約を結んでいる。
そして、その納期が、迫っている。
小麦が、足りていないのだ。
彼らは、買わなければならない。
こちらが、売る側ではない。
彼らが、買う側なのだ。
ノアは、シオンを見た。
視線が、合った。
シオンは、微かに頷いた。
言葉は、なかった。
しかし、ノアは、確信した。
シオンにも、伝わった、と。
九
「で」
代表は、続けた。
「小麦の価格だが。今年は不作でな。一袋、二十シルバーが限界だ」
二十シルバー。
適正価格は、三十五シルバー。
半額近い、買い叩きだった。
普通の交渉者なら、ここで反論する。
「それは安すぎます」
「適正価格は三十五です」
そう言うだろう。
しかし、ノアもシオンも、何も言わなかった。
沈黙。
代表は、二人を見た。
「……聞こえたか? 二十シルバーだ」
沈黙。
シオンは、ただ、代表を見ていた。
まっすぐに。
まばたきもせずに。
ノアは、俯いていた。
しかし、その俯いた姿勢が、なぜか、拒絶に見えた。
二十秒。
三十秒。
一分。
沈黙が、部屋を満たした。
代表の親指が、動き始めた。
擦っている。
不安が、増している。
「……おい。何か言え」
代表は、苛立った。
しかし、二人は、答えない。
一分半。
副代表が、口を開いた。
「代表。少し、譲歩を」
「黙っていろ」
代表は、副代表を制した。
しかし、その一言で、ノアは確信した。
内部が、割れている。
副代表は、この価格が無理筋だと知っている。
二分。
沈黙は、続いた。
そして、二分半。
代表が、耐えられなくなった。
「……わかった。二十五シルバーだ」
五シルバー、上がった。
しかし、二人は、まだ、何も言わない。
沈黙。
「……二十八」
沈黙。
「……三十」
沈黙。
代表の額に、汗が浮かんでいた。
「……三十二だ。これ以上は、無理だ」
その瞬間。
ノアは、初めて、顔を上げた。
そして、代表の目を、見た。
一秒だけ。
しかし、その一秒で、彼女は見た。
代表の目の奥にある、焦り。
まだ、余裕がある。
まだ、上がる。
ノアは、再び、俯いた。
そして、何も言わずに、椅子から立ち上がった。
帰る。
そういう仕草。
「待て!」
代表が、叫んだ。
「……三十五だ! 三十五シルバーでいい!」
ノアは、動きを止めた。
そして、シオンを見た。
シオンは、ゆっくりと、頷いた。
そして、初めて、口を開いた。
「……はい」
それが、シオンの、この交渉における、唯一の言葉だった。
十
契約書が、作成された。
一袋、三十五シルバー。
適正価格。
いや、この状況では、破格の勝利だった。
書記が、契約書を差し出した。
ノアは、その契約書を、読んだ。
丁寧に。
一行ずつ。
そして、ある一行で、指を止めた。
「……」
彼女は、その行を、指差した。
シオンが、覗き込んだ。
そこには、こう書かれていた。
『納品が遅延した場合、違約金として、契約総額の五割を支払う』
五割。
異常な違約金だった。
代表の顔が、微かに強張った。
ノアは、何も言わずに、その行を、指で押さえ続けた。
十秒。
二十秒。
「……ああ、それはな」
代表は、慌てて言った。
「形式的なものだ。実際には――」
沈黙。
ノアは、指を離さない。
「……わかった。三割にしよう」
沈黙。
「……一割だ。一割でいい」
ノアは、ようやく、指を離した。
そして、シオンを見た。
シオンは、頷いた。
「……はい」
二言目。
契約書が、修正された。
そして、二人は、署名した。
十一
帰りの馬車。
雪は、やんでいた。
夕日が、雪原を、赤く染めていた。
二人は、しばらく、何も話さなかった。
いつも通りの、沈黙。
しかし、その沈黙は、以前とは、まったく違う質を持っていた。
達成の沈黙。
「……ノア」
シオンが、口を開いた。
「……」
「……あの、違約金」
「……うん」
「……よく、気づいた」
ノアは、俯いたまま、少し笑った。
「……シオンこそ」
「……」
「……三十五で、止めた」
「……」
「……あれ以上、粘ったら、あの人、怒って、契約自体を破棄したと思う」
シオンは、少し驚いた。
自分の判断を、ノアは、正確に読んでいた。
「……見えた?」
「……うん」
ノアは答えた。
「……シオンが、頷いたとき。……ここが限界だって、思ってるのが、見えた」
「……」
シオンは、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「……初めてだ」
「……何が」
「……わかってもらえたのは」
その言葉を聞いて、ノアは、涙が出そうになった。
わかってもらえた。
それは、彼女がずっと欲しかったものだった。
言葉にしなくても、伝わる。
見つめなくても、届く。
そういう関係が、この世に存在するとは、思っていなかった。
「……私も」
ノアは、小さく答えた。
「……初めて」
馬車は、夕日の中を、進んでいった。
二人は、それ以上、何も話さなかった。
しかし、その沈黙は、もう、孤独ではなかった。
十二
塾に戻ると、大賢者が待っていた。
食堂には、十四人の弟子たちも、集まっていた。
「どうだった」
レオンが、聞いた。
ノアは、何も言わずに、契約書を差し出した。
大賢者が、それを受け取り、読んだ。
そして、静かに笑った。
「三十五シルバー」
大賢者は言った。
「しかも、違約金条項を、五割から一割に減らしている」
食堂が、ざわめいた。
「三十五!?」
リナが、叫んだ。
「あそこの組合、めちゃくちゃ買い叩くって有名なのに!?」
「しかも、違約金まで…」
ミアが、呟いた。
ガルドが、笑った。
「なあ、ノア。どうやったんだ」
ノアは、俯いた。
答えられない。
そう思った。
しかし、シオンが、代わりに答えた。
「……黙ってた」
「……は?」
ガルドが、聞き返した。
「……ずっと、黙ってた」
シオンは、続けた。
「……向こうが、勝手に、値を上げた」
食堂が、静まり返った。
そして、レオンが、呟いた。
「……すげえ」
「本当に…すごい…」
ミアが、続けた。
「僕らが、剣とか魔法で戦ってる間に…」
トムが言った。
「二人は、黙ってるだけで、勝ったのか」
ノアは、その言葉を聞いて、初めて、顔を上げた。
そして、皆の顔を見た。
一秒だけ。
しかし、その一秒で、彼女は見た。
そこにいる十四人の、本心を。
誰も、彼女を憐れんでいなかった。
誰も、彼女を見下していなかった。
そこにあったのは、驚きと、尊敬と、喜びだった。
ノアの目から、涙が、こぼれた。
「……あれ」
彼女は、慌てて、袖で拭った。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
ガルドが言った。
「勝ったんだから、泣いていい」
食堂に、笑い声が広がった。
十三
その夜。
大賢者は、二人を、応接室に呼んだ。
「よくやった」
大賢者は言った。
「……ありがとうございます」
ノアは、答えた。
「だが」
大賢者は、続けた。
「一つ、聞かせてほしい。ノア。君は、なぜ、あの違約金条項に気づいた」
ノアは、少し考えてから、答えた。
「……代表の、目です」
「目」
「……契約書を差し出したとき。……あの人の目が、一瞬だけ、その行を見ました」
ノアは、続けた。
「……人は、隠したいものを、無意識に確認します。……だから、あの人が見た場所に、何かがある、と思いました」
大賢者は、深く頷いた。
「見事だ」
そして、シオンを見た。
「シオン。君は、なぜ、三十五で止めた」
シオンは、答えた。
「……代表の、呼吸」
「呼吸」
「……三十五と言ったとき。……息が、変わった」
シオンは、続けた。
「……それまでは、こらえる息だった。……三十五のときは、諦める息だった。……あれ以上は、たぶん、崩れる」
大賢者は、静かに笑った。
「君たちは、互いに違うものを見ている」
大賢者は言った。
「ノアは、視覚で見る。シオンは、聴覚で聴く。そして、二人合わせて、相手のすべてを把握する」
大賢者は、続けた。
「これが、君たちのペアの本質だ。一人では、半分しか見えない。二人で、すべてが見える」
二人は、その言葉を、深く受け止めた。
「では、次の課題だ」
大賢者は言った。
「今度は、もっと難しい相手と、交渉してもらう」
「……もっと、難しい相手」
ノアが、聞いた。
「そうだ」
大賢者は答えた。
「王都の、大商会だ」
十四
その夜。
ノアは、自分の部屋で、窓の外を見ていた。
雪は、やんでいた。
星が、見えた。
彼女は、実家のことを、思い出していた。
父の言葉。
「お前は商人に向いていない」
母の言葉。
「せめて、目を見ろ」
姉たちの、憐れむような目。
かつて、それらは、彼女を潰していた。
しかし、今は、違った。
私は、商人に向いていた。
ただ、父が知っていた商人と、私が成る商人が、違うだけだった。
目を見なくていい。
話さなくていい。
見て、聴いて、待つ。
それが、私の交渉だ。
「……お父さん」
ノアは、小さく呟いた。
「……私、売れました」
「……三十五シルバーで」
その言葉は、誰にも届かなかった。
しかし、彼女自身には、届いた。
十五
同じ夜。
シオンは、塾の廊下に立っていた。
窓の外を、見ていた。
彼もまた、自分の過去を、思い出していた。
シオンは、孤児だった。
三歳のとき、親を失った。
孤児院で育った。
そこでは、話す子が、可愛がられた。
明るく、元気に、たくさん話す子が。
シオンは、話さなかった。
だから、誰にも、選ばれなかった。
養子に出る子を、何人も見送った。
そのたびに、思った。
自分が話せないから、選ばれないのだ、と。
しかし、今日。
自分の沈黙が、勝利をもたらした。
話さなかったから、勝ったのだ。
「……」
シオンは、窓に、額をつけた。
冷たい。
しかし、その冷たさが、心地よかった。
「……シオン」
背後から、声がした。
ノアだった。
「……」
シオンは、振り返らなかった。
ノアも、それを気にせず、隣に立った。
そして、同じように、窓の外を見た。
二人は、何も話さなかった。
十分。
二十分。
三十分。
ただ、並んで、星を見ていた。
そして、その沈黙は――
塾の中で、最も雄弁な会話だった。
十六
翌朝。
大賢者は、十六人全員を、訓練場に集めた。
「昨日、ノアとシオンが、隣村との交渉に成功した」
大賢者は言った。
「これは、この塾にとって、初めての『実戦での勝利』だ」
十四人の弟子たちが、二人を見た。
ノアは、俯いた。
シオンは、無表情だった。
しかし、二人とも、微かに、耳が赤かった。
「そして」
大賢者は続けた。
「この勝利には、剣も、魔法も、使われていない」
大賢者は、全員を見渡した。
「君たちは、これから、様々な戦いに挑む。しかし、覚えておきなさい。戦いとは、力のぶつけ合いだけではない。見ること。聴くこと。待つこと。それもまた、戦いだ」
レオンが、口を開いた。
「先生。質問があります」
「なんだ」
「僕たちのペアは、どうやって決まったんですか」
大賢者は、少し笑った。
「良い質問だ」
大賢者は、答えた。
「私は、君たちの『欠けているもの』を見た。そして、その欠けを、埋められる者を、隣に置いた」
「欠けているもの…」
「そうだ」
大賢者は続けた。
「レオン。君は、動きは読めないが、遠くの敵を倒せない。だから、シルフィを隣に置いた。ミア。君は、精密だが、火力が足りない。だから、リナを隣に置いた」
大賢者は、ノアとシオンを見た。
「ノアは、見えるが、押せない。シオンは、押せるが、見えない。だから、二人を組ませた」
十六人は、その説明を聞いて、初めて、自分たちのペアの意味を理解した。
偶然ではなかった。
すべて、計算されていた。
「では」
大賢者は言った。
「今日から、全ペアの本格訓練を開始する」
十七
その日から、八つのペアが、それぞれの訓練を始めた。
レオンとシルフィは、森で。
ミアとリナは、実験場で。
ガルドとエマは、訓練場で。
ノアとシオンは、村の市場で。
ニナとトムは、山道で。
ドグとレンは、鍛冶場で。
ポチとモモは、畑で。
ココとバルドは、厨房で。
それぞれが、それぞれの場所で。
それぞれの組み合わせを、磨いていた。
そして、大賢者は、その全てを、見守っていた。
一日に、八つの訓練場所を、回った。
朝から、晩まで。
休むことなく。
しかし、その顔には、疲れはなかった。
むしろ、喜びがあった。
十六人が、変わっていく。
その様子を見ることが、大賢者にとっての、最大の喜びだったのだ。
十八
一月の終わり。
雪が、溶け始めていた。
大賢者は、塾の屋上に立っていた。
下では、弟子たちの訓練の音が、聞こえていた。
剣を振る音。
魔法の音。
爆発の音。
犬の鳴き声。
金属を打つ音。
そして、ノアとシオンのいる場所からは――
何の音も、しなかった。
大賢者は、その静けさに、微かに笑った。
「静かなペアだ」
大賢者は呟いた。
「しかし、あの二人は――」
大賢者は、空を見上げた。
「いずれ、この国で最も恐ろしい交渉者になる」
その言葉は、誰にも聞かれなかった。
しかし、それは、確信だった。
第9話終了。




