第4話 水無月の夜 葵の灯
土の匂いを感じて目を開けたくなくなった。
自覚がある。目を開ければ夢の中だ。
目を開ければ、その夢の世界は、前世で過ごしたあの山の中になる。
――嫌だ。嫌だぁ。
気持ちが折れる。
心が拒絶する。
二度とみたくないと心底願って逝った世界。
前世の記憶を追体験する夢を見るのは、何もはじめてではない。
この現世での生活の中で、いいことがあった時、心底幸せを感じた時、俺はあの世界の夢をなぜかみてしまう。
それは忘れてはならないという心の警鐘なのかもしれないが、本当に無くなって欲しい反応だった。
俺は本当に恐ろしいのだ。
高町の家の一人息子になった幸運が、三神の家の双子姉妹と想いを通じ合う日々が、全部夢だったらどうしようと。
俺はまだ魔王と勇者が争う剣と魔法の世界にいて、死んだと思ったら夢だけ見てた、そんなオチだったらどうしよう。
母さん、父さんと呼べる人がいなくなってしまったらどうしよう。
愛と葵がそばにいないなんて、心が砕けてしまう。
リアリーが死んだ時のように。
だから目を開けたくない。
絶対に開けたくない。
夢なら今すぐ醒めろ。
現実ならもうみたくない。
魔石掘りには馴染みの、土と咽せかえる魔力の漂う空気が混じったこんな空気、もう吸いたくない。
ぎゅうっと。
俺は瞼に力を込めて見ない見ないみたくないと伝え続ける。
だが、いつも目を開けてしまう。
目を開けたくなる声が聞こえてくるのだ。
「寝坊です」
「起床してください」
聞こえてくるのだ。リアリーの声が。
もう二度と聞けないはずの、光の声が。
「あなた以外に私の首を絞めさせるのですか?」
それを問われれば起きるしかない。
リアリーの首を絞めるのは俺でなければならないのだ。
目を開けて、光を見つめてしまう。
ほんの一瞬だけ、まだ一緒に山の中にいたあの頃のリアリーを見た気がした。
そう――。
――いつもの夢で、よかった。
「……葵。灯、つけなくていいのか?」
「ハジメちゃん、目覚めてすぐそんなこと言う? ……ほら、まだそんなに遅くないよ? 夜はこれから」
目を開くと、少し盛り上がった胸元と、こちらを見下ろす葵の顔があった。
葵が指差した先には障子張りの引き戸。
その下部はガラス窓になっていて、廊下を挟んで外の光が差し込んでいた。
ここは和室で、下は布団か。
暑い時はここで寝ると涼しいから、俺が寝泊まりする時はここだ。
月の光が差し込んでいるだけだから、遅くないと言われても全くわからない。
葵らしいと、愛おしくなった。
「そう、か。……明日、明後日は、確か……」
「そう。おやすみ。明々後日もお休みの三連休だもん。……こんな時間にねちゃもったないよ? 夜更かししようよ」
土日と月曜の三連休。
降って湧いた月曜の休みに学校で皆歓喜していたのを言われて思い出した。
記憶が芋づる式に連なって、なんでこうなってるのかを思い出させる。
――唇に当たった柔らかさと、額がぶつかった硬さを。
「なるほどなぁ。そりゃあんな夢みるわ」
愛にキスしてもらえたのだ。
特別いいことだ。幸せすぎる。
だからって咎めるように前世の夢など見せないで欲しいのだが。
「あんな夢? ……愛ちゃんとキスした夢?」
葵がじーっと見下ろしている。
膝枕されているのにようやく気がついた。
起きようという気持ちがまだ湧かないのは、あんな夢を見たせいで気力を失っているのもあるだろうが、単純に頭が呆けている。
思い出した。クラクラ頭に血がのぼってそのまま倒れたのだ。
愛があわてて受け止めてくれた記憶と、ちょうどやってきた葵が驚きの声を上げたのが最後の記憶だった。
「いいや。……大好きな人に、自分だけ幸せになってずるいって怒られる夢」
「なぁに? ……私、怒るって思われてるの?」
「ずるいって言われそう。とは、思ってるよ」
「ずるいよ。愛ちゃんは」
穏やかで愛らしい空気に、一筋の罅が入っていた。
「でも……隠さなかっただろ? 愛は」
「うん。……でも、ハジメちゃんにどっちが先にキスしてもらえるか、勝負してたから。負けちゃったもん」
「勝ち負け、大事か?」
「大事だよ。……私は、ハジメちゃんの一番になりたいから。愛ちゃんとは違う。……だから、余裕ないの」
葵の顔は、女の顔をしていた。
双子らしく愛とよく似てるのに、空気が違う。
俺の手放したくない大好きなもう一人の人。
その顔が覚悟を決めて近寄ってくるのを手のひらで遮って、膝から起き上がる。
「……愛ちゃんの方が、いいの?」
拒まれたことに明らかにショックを受けている葵の反応は、遅れて予想していた。
わかってはいたが、理解が追いつかない。頭が回りきっていない。
「それとも……別の人がいい?」
「……何?」
「いるでしょ? 他に好きな人」
勘違いさせないように言葉を続けようとして、予想外の言葉が飛んできた。
何をどう見聞きすれば――俺の中にしかいないリアリーに気づけるのだ?
びっくりした俺の態度は失敗だった。
葵は確信を得たようで、背中を向けた。
「私、不思議だったの。なんでハジメちゃんは嫌がるのかな、って」
背を向ける葵の向こうから差し込む月光が空気を清らかにしているような気がした。
ふと、障子の先は前世の世界で、この月光は月神様のものではないかと思った。
月神様が、隠し事は許されない夜だと、教えてくれてる気がしたのだ。
「私は、愛ちゃんとは違う。私は……お父さんやお母さんたちが、許嫁みたいに扱ってくれるのが嬉しかったの。知ってる? 私は幼稚園の頃から、ハジメちゃんが好きだよ。……愛ちゃんより絶対先に好きになった。私が先だったもん。……だから、負けたくない」
何か一つでも心を偽れば、目の前でかすかに震える愛しい人に取り返しのつかない傷をつけると、はっきり理解した。
「愛ちゃんに負けるなら、悔しいけど理解はできるの。わかるの。……でも、ハジメちゃんは、時々……誰かを愛してる。わからないけど、私たちじゃない誰かを想って、愛してる時がある。……そうでしょう?」
返事を葵は待ってない。
問いかけじゃない。確信があるから返事を待たない。
俺が口を挟む前に葵は振り返った。
綺麗に整えた睫毛が暗がりで目立つほど、目尻に涙を抱えている。
「嫌なのかなぁ嫌なのかなぁ。私じゃ勝てないのかなぁって。ずっと思ってるの。愛ちゃんみたいに割り切れないの。……愛ちゃんはね。そばにいないやつなんて気にしないで無視したらいいのよ、なんて言うの。ハジメちゃんが外の人を好きだったとしても、離さなきゃいいんだって」
この辺りは都会とは縁遠い田舎だ。
海と山に挟まれた美しい街だ。
俺は比較的に外に出る機会があった。
何せ前世では見たことないものばかりだ。
ねだってせがんで、新幹線や飛行機に乗る機会をもらっていた。
それは旅行だったから、愛や葵も一緒だったが、その時に、誰かと出会ったのかと思っていたのか。
「愛ちゃんが良くて、私は、その人に勝てない? なんでぇ? 私はダメ? わかんない。……私、わかんないの」
キスを拒まれたのが、愛を選んだと思われている。
それは遅れてだが、予想できた。
だが葵がうけてるショックは、それだけじゃない。
葵は、顔も名前も知らない恋敵と戦っていて、愛はそれに勝てたが、自分はそれに負けたと思っている。
だから、ショックなのだ。
愛に負けるより、よっぽどショックなのだ。
「葵。……いるよ。俺。大好きな人が」
涙を抱えて身を震わしてるのに、でも目を逸らさない。
そんな女の子と向き合う強さは、前世の俺にはなかった。
高町の長男、ハジメだから、持てるのだ。
「今、目の前にいる。……俺は葵と、愛が、何より好きだ。……いるよ? 他にも大事な人はいるよ。でも」
この言葉は、前世の俺では口が裂けても、死んでも言わなかった言葉だ。
「他のどんな大事な、大切な、愛した人でも。お前たち二人に敵わない。……葵、俺はお前が好きだ」
愛か葵かを選べと言われれば、俺は選べない。だから、内縁の妻なんか嫌だと親たちに反発してしまう。
だが、愛と葵と、その他なら、俺は選べる。
愛おしい両親や前世でえた唯一の光。
俺を支える大事なものたち。
「葵と愛を俺のそばに残せるなら、他のものなんて何もいらない。なんでも捨てれるぞ。なんでもだ」
そんな大事なものでも対抗馬にならない。
比べる必要もない。
比べられない。
「俺は、二人と結婚したい。二人とも妻にしたい。二人とも愛してる。……葵と愛、どっちか選べて言われたら、困るけどな?」
「……じゃあ、なんで、ダメ、したの?」
「葵が言ったんだろう? ……勝ち負けが大事だって」
完璧に思考が追いついて、言動に一致する。
ようやく想いを活動に間に合わせられる。
悲しみではなく、いつもの抜けたような疑問を浮かべた葵に膝を寄せて近づいて――その腰を抱き寄せる。
驚きが感触で伝わってきた。
緊張が熱と音で互いに共有された。
触れあう全ての場所に心臓があるかのように鼓動を感じた。
言葉が互いに出ない。
見つめあって離れない。
視線がゆっくり結ばれていく。
――熱い、熱い、熱い。
もうほんの少しの距離なのに、遠い。
顔を近寄せればいいのに、遅々として進まない。
抱いた腰を、その細いのに柔らかいのに、熱い腰を、ぐっと抱き寄せる。
招き寄せる。俺の元に。
「あ……」
葵が瞳を閉じた。
結ばれた視線を閉じても大丈夫だと、確信を得たように、期待と希望を浮かべて待っている。
愛の勇気をすごいと思った。
愛はすごい勇気を持っていた。
だから、俺は、愛に勝る勇気で、葵に応えなければならないのだ。
目を閉じて額を当てて、二人の距離を無にする。
唇が触れあったら、抱きしめる力からようやく緊張が抜けた。
葵が理解したのがわかった。
そうだろう? 葵。お前が言ったんだ。
唇を互いに塞いでいるから、声に出さないし、そんな余裕はないけれど。
――どっちが俺にキスされるか、なんだろ?
葵からしちゃ、勝てないだろ?
俺のそんな気持ちが伝わったのが、わかった。
わかるほど俺たちは一つだった。




