第3話 水無月の夜 愛の空気
六月は水無月ともいうのを知ったのは『リアリーの英雄』の書籍化にあたって担当になった編集さんから、ファンタジー世界にしては現実的な言葉が多いといわれ、表現を変えてはどうかと一例を示された時だ。
――日本ってすごい。
俺は転生して以来何度目かわからない感想を抱いた。
一年は十二か月。
それだけでいいと思うところ、水無月なんて美しい表現がある。
神無月と神在月という使い分けもあるのだ。美しすぎる。
正直惹かれたが、『リアリーの英雄』に関してはそういった変更は一切しなかった。編集さんにはwebの読者を大事にしたい、などなど嘘をついたが実際はそんな綺麗ごとではない。
俺はただ、リアリーで嘘をつきたくなかっただけなのだ。
「あっちー……」
六月、そろそろ日中はクーラーに頼りたい季節だが、流石に日が落ちれば頼るに早い。
顔なしの扇風機、と呼んでいる羽のない面をみせるやつをそばに置いて、俺は風呂上がりの湯だった身体を冷ましていた。
「お前には風情がない。風情……いい言葉だ。お前は機能的すぎる」
顔無しに指を突きつけるが風情のない輩なので、何一つ文句を言わないで風を送るだけだ。
三神の家と高町の家はどちらも広い家に広い敷地を構えているが、三神の家の方が和室が多い。
縁側から望む景色の先には、田舎らしいというより風情をあえて残した自然と人の調和のとれた景色が広がっている。
月神様……いや、お月様の照らす光が一番の光源であることは、どっちの世界でも一番良いことだ。
「この景色を眺めながら死にたいなぁ」
「そんなこと言ってるから、じゃあ婿にくる? なんて言われるのよ」
「愛。なんだ? 嫁にきたいのか?」
「どっちでも? ハジメにそんな決心つけられる勇気があるならね」
先に入ったのは愛と葵の方だが、女の方が風呂上がりに時間がかかる。
あとから入った俺が涼んでいるうちに支度を終えてそばにやってきた。
うん。美人だ。
「うわ。わかりやすいわね。ちょっと和服にしたら鼻が伸びるの、自覚ある?」
「ある。そっちこそ、美人だという自覚あるか? というか持てよ。持ったら二度と茶髪に染めるなんて暴挙なんてしないだろ」
「……私たち、そんなに美人? そんなことないと思うけどなぁ。茶髪もあんた以外は褒めてくれてたし、お洒落よお洒落」
浴衣風の寝巻きでやってきた愛の大和撫子らしい美しさを手放しで褒める。
本当に二度と茶髪に染めて欲しくないと、みっともなくお願いしておく。
思いは伝えなければ伝わらないのである。
愛が差し出してきた瓶ラムネを受け取る。
風呂上がりにはこれを一本飲むのはこの季節の約束事だ。
夏を感じはじめたら許されるこれは、六月なのにこの暑さなのかと文句をつける中で得られる贅沢である。
「葵は?」
「あの子はまだ。あの子の方が匂いにやられてるからね。今夜はだいぶ本気できそうよ? よかったわね。可愛くなってくれて」
「いつでも葵は可愛いのにな」
「それはそうだけど。女としてはべーつ。……ほら、あけてよ。私の」
「おう。俺も喉乾いたわ」
「はい? あんたまさか、またこれ飲むまで何も飲んでないわけ? 去年それでぶっ倒れたでしょうが」
「いやー、愛が持ってきてくれるこれをここで飲むのが、こっちで夜を過ごす楽しみでなぁ。ほっ! ほら。愛の」
瓶ラムネは幼い女の子ではなかなか開けるのが難しい。
無論今の愛ならあけれるだろうが、昔から三神父や俺の出番だ。
こういう男がやることを自然と任されるのが、家の男の勤めである。
自分のラムネもあけて、二人で並んで座った。
「はい。じゃー乾杯しましょ」
「乾杯? なんの?」
「リアリーの二巻が無事に発売されたこと。どうせ葵がくるのを待てないんだから、葵には内緒の話で乾杯よ」
「あー、それは都合がいいな。ありがとう。じゃあ増版を願って、乾杯」
「はじめが思い直して、リアリーちゃんをハッピーエンドで締めてくれることを願って、乾杯」
瓶の触れ合う振動が手に伝わる。
口をつければラムネの清涼感と甘みが喉を潜って、気分を夏にする。
涼しい。愛しい時間だ。
「くぅー……いつまで経っても美味いだろうな」
「ふぅ……そうね。もっと暑くなればもっと美味しいでしょうね」
「夏本場になったら、ここでかき氷やスイカも食べよう」
「花火はそっちの庭ね。こっちだと火事怖いから」
「その時はとうもろこし焼かないとなぁ。あれがうまいんだよ」
「食べ物ばっかりねぇ。……で? その食い意地で、今夜はどっちかに手を出したりするのかしら? 葵、その気になってると思うわよ」
「なんでそう思う?」
「時間かけすぎだから」
愛の方がはやく支度を整えるのはいつものことだが、確かにずいぶん遅い。
「女の支度は時間がかかる、か」
「そういうのはちゃんとわかってるのよね。ハジメって」
リアリーと知り合ってから、年下の彼女には怒られっぱなしだったからな。
世話をしよう、役に立とうとしてお節介に終わったり。タイミングが悪かったりは何度もしたもんだ。
とは、愛に言えることではない。
「二人とも嫁にしろなんて言われてる身だからな。……何が内縁の妻だよ。二人とも嫁にしていいならしたいわ」
愛は自分のことを美人ではないと思うのかもしれない。
俺が褒めすぎなのも確かにあるだろう。
だが俺にとっての美人は、愛や葵のようなタイプなのだ。
「こんなにさ。スラーってしてて、でも柔らかくて……うん、やっぱり黒がいい。黒い髪に黒い瞳。映える。肌もくちびるも何もかもが映えてくる。うん。こんなに美人なんだぞ。愛」
「……ほ、褒めすぎじゃない?」
真っ赤になっている。
前世の俺ならわからないところだが、流石にわかるので、中途半端にはしないで言い切っておく。
「褒め足りないくらい。俺は愛が好きだ。……ほんと」
ほんとが余計すぎるのは自覚はある。
それがわかってるのを愛も理解してくれていて、赤くなっていた顔に余裕が出ていた。
目的は達した、結果的には。
「……最後のほんと、本当にいらないんだけど……でも、ハジメらしいのよね」
「いや、ほんとな。ほんと。……どっちか選べって言われてる気分で、俺は自分が嫌になる」
「別に、急ぐ必要ないけど、あ、でもー……実は焦ってるんでしょ?」
愛は本当に俺をよくわかっている。
俺が本当は焦ってるのを見抜くとは。
流石は葵から勧められてた『リアリーの英雄』をちょっと読んだだけで俺が書いたとわかった人だ。
一度振り返り、聞き耳をたて、葵が来ないのを確認してから愛に向き合う。
「……ほんとはな。焦ってる。こんなに、両家公認でさ。別に俺たちの中にそれを拒む気持ちはないわけでさ。なのに俺は、まだ先の話だなんていうわけだ。……葵や愛に幻滅されたり、見限られたらと思ったら……焦る」
「これも古風な話だけど、結婚は先でも、婚約者とかにはなれるもんね? なのに踏みとどまってるハジメに、私たちが冷めちゃったら怖いんだ」
頷く。二度三度と連続で。
特別美味い料理を出された時にようにコクコクと。
俺はリアリーとは恋仲ではなかった。
だが、恋仲になれなかったとは思わない。
なれただろう。
互いに想いあっていた。
だが、想いだけで結ばれるには、俺には甲斐性がなかった。
そしてそれを後悔していない。
リアリーは英雄と出会って、間違いなく俺が与えられる幸せより大きな幸せを掴んだ。
俺であっても、英雄であっても、その後のリアリーの死は避けられなかった。
ということまで振り返れば、俺はチキン野郎でも後悔はない。
幸せになって欲しい人が間違いなく幸せな時間を過ごした。
男にはそれで後悔は残らない。
そんな成功体験……いや、満足を知っているから、想いだけで結ばれることへの躊躇いがあった。
「俺は高校生で作家をやってるよ? 確かに稼ぎは他のやつよりあるんだろう。だが、俺には『リアリーの英雄』しかないんだよ。愛もわかるだろ? 俺に文才はない。このまま作家として食っていけるかなんて……二人を養っていけるかなんて、自信がない」
「……確かにあんたが書いた私のリリカちゃんは酷い有様だったわね。本当にプロなのか疑うもの」
「胸が痛い。……仮面ライダーしか知らないのにバイクに乗せたんだもん……何も知らないんだもん」
「仮面ライダーって言うほどバイク乗らないらしいから、しょうがないわよ」
勢いでバイクに乗せたリリカちゃんは動かないバイクに悪戦苦闘していたが、それは俺の実力でしかない。
その程度の作家なのだ。
「結婚して誰かを養っていく。守っていくのは難しいよ。なのに、片方は内縁の妻だって? 馬鹿にしてんのかよ。そんなの無責任だろ。……二人を守れない時に、責任すら背負っていけないのは、後悔してしまいそうで……」
内縁の妻は書類の上では赤の他人だろう。
結婚していなければ社会的に認められることもあるのかもしれないが、片方とは結婚するのだ、認められることはない。
うまくいかない時、何か大きな不幸が襲ってきた時、守れないかもしれない。
そんな時に必ず俺は思ってしまう。
俺が囲わなければ、愛や葵には、きっと英雄がいたと。
それぞれを第一に考えて守ってくれるそんな人が、俺より幸せな時間を二人に与えられたのだと。かつての満足が、必ず、そう思わせる。
後悔、させるのだろう。
二人との道先に、俺の前世の話が元で後悔が待っているなんて、絶対に許さない。
それだけは、愛にも葵にも、リアリーにも、申し訳がたたないのだ。
俯きそうになったので、お月様を見上げた。
情けないことを言ってる時に顔まで下を向けば本当に格好悪い。愛の前でそこまで無様になりたくなかった。
好きな人の前なのだから。
そんな男の強がりを見透かしたように愛が肩をつついてきた。
無理するなということだと、なんでもお見通しな相手に振り返る――。
――唇が触れた。
額が振れて、こつんと音がした。
互いの前髪が交錯して、ちくりとした。
互いに目を閉じてはいなかった。
視線が結ばれて、愛がすっと細めたのが見えた。
時間にして何秒だったのだろう。
わからない。時が止まったような一瞬だった。
「あら、真っ赤ね。お互い」
真っ赤な顔でそういう愛は湯上がりなんて目じゃないほど真っ赤で、俺も同じだろうと自覚があった。
くらり、くらり、と血が頭にのぼるのがわかる。
声が出ないほど、驚いて――嬉しかった。
「あのね。ハジメ。古風な話を進めてる私たちの家だけど、私たちが古風になる必要ないんだから。……私はね、あんたも葵も……その、子供だってね? 私が養ってやる、くらいの気持ち、あるから」
顔無しの風力を全開にして風を向けてくれる愛は、想いに背中を押されているが、想いだけじゃなかった。
無音の顔無しに、はじめて風情を感じた。
「私、ハジメが好きよ。……葵に負けないくらい。葵も私に負けないくらいハジメが好き。互いに競ってあげるから、安心なさい。私、葵より稼げる自信あるから」
お月様なんかより見つめるべきは愛だった。
言葉をなくして見惚れるほど、可愛い。
クラクラしてそのまま意識を失う時まで、俺は愛を見つめて、小さく頷いてばかりだった。




