生まれ変わった男の話
私はこの島に来て一番最初にお世話になった老人の元に来ていた。彼の友人が森に消えたことと、私が森で見た風景になにか関連があるのではないかと思ったのだ。
家に近付くと彼の飼っている犬が尻尾を振りながら寄ってきた。遊びに来たことを歓迎してくれているようで、私の横でくるりと方向を変えて同じ方向、家の方に向かって一緒に歩いてくれた。フワフワした毛が足に触れ温かい。彼の命を感じる。あの日以来どこか浮ついた私の心が地に引き寄せられるような感じがあった。
家の中では老人がロッキングチェアに座っており、私を見るとニコリと笑って近くの椅子を勧めてくれた。椅子に座ると、犬は老人の足元に寝そべった。彼は目を閉じ、バルコニーから入ってくる心地よい秋風に身を任せている。私もしばらく彼を真似て椅子に身を任せた。彼の椅子が動いたのを感じて目を開けると、彼がビールを持ってくるようにジェスチャーをしたので、私は冷蔵庫から二人分の瓶ビールを出して栓を抜いて一つを彼に手渡した。彼が瓶を持ち上げたので、私の瓶を軽く当て互いに一口飲んだ。心地よい。爽やかな風と喉を伝うビールが頭に漂う余計なものを流してしまう。私が椅子に座り直すと、何かあったのか、と聞いてきた。私は自分の身に起きたことを全て話した。彼はそれを聞いて、やはり森には何かあるのだな、と言ってもう一口瓶の中身を飲んだ。しばらく黙っていたが、かつて森に入ったが戻ってきた彼の仲間の話をしてくれた。その彼はかつて島に仕事でやってきた仲間で、今は故郷に戻って暮らしているそうだ。
知らない人たちと、でも旧知の友人のように、一緒に動物園を回っていた。園内にはどこかで見たことがある、北の国のトップであった男性がボディガードを連れて歩いていており、そのことに彼も気付いていたが誰も彼に話しかけようともせず、自分も彼らの言葉を知らなかったので話しかけなかった。
園内には売店があったので入り、店先に合ったお土産をみてガールフレンドに買っていこうと考えた。置いてある土産物は故郷の各地の名産品ばかりで動物園であることが分かるものは売っていなかった。
土産を買い終わり、電車に乗って帰ることにした。一緒に観て回っていた人々と電車に乗ったはずだが、気が付くと一人で慌てて降りると聞いたこともない駅だった。ホームの向こうは海が広がっており、反対には竹林が広がっている。静寂と不気味な雰囲気ではあったが遮るもののない水平線にしばらく心を奪われた。それから、とりあえず駅舎を出て道沿いに歩き始めると、向かいから知人が近づいてきて駅に向かって歩いてきた。彼と一緒に駅に引き返そうとしたら、一人の女性が現れ声を掛けてきた。彼女は腕を引っ張り、再び駅と反対側に連れていかれた。しばらく歩くと寂れた町が現れた。
いつの間にか木の棒と二つのボルトが手の中にあった。なんとなく、ボルトを棒の両端に嵌めてみると、ここまで連れて来た彼女が背伸びし、首筋に口づけをしてくれた。そのとき彼女の顔が見え、昔に大学の事務でアルバイトしたときの事務員の女性であることに気付いた。彼女は背が低く、生真面目で、同僚の女性からは軽視されていた。自分はその意見は聞いていたものの本気にはしていなかったが、どこかその意見に引っ張られている自分もいた。そんな彼女からの口づけは、軽蔑してしまっていたかもしれない、と思う自分自身への許しのように思えた。あれから長いこと社会の中で揉まれ、様々な偏見で物事を見るようになっていることに気付き、彼女の口づけは、偏見などなかった時の自分への祝福のようだった。頬を涙が伝うのを感じた。
目が覚めると森の中だった。涙を流していること以外は全く風景が違ったが、心が軽くなり、素直に世界が見られるようになっていた。自分が新しく生まれ変わったかのようだった。
彼はその後、島を離れ、故郷でもう一度やり直そうと出ていったらしい。戻ってくる者もいれば、戻ってこない者もいる。どのような違いがあったのだろうか。
老人は再びバルコニーに目を移し、遠くの風に揺れる森を見ていた。森に対して、親愛も畏怖も、どちらも含めたような複雑な眼差しだった。




