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魔女  作者:
6/9

なにもない

 立花ソラノが服を着るまで僕は玄関の外で待った。そして扉が開いたとき、そこには見慣れた立花ソラノの姿があった。色の長袖のブラウスに、赤色のチェックのスカート。学校で見かけた立花ソラノの姿そのものだった。


「約束通り服を着たぞ、恵一君。さて、我々の家にあがりたまえ」

「じゃあお邪魔するよ、立花さん」


 僕が玄関に入ろうとする。

 すると立花ソラノは立ち止まり、首を横に振った。


「我々は君のことを『恵一君』と呼んでいる。君もそれに合わせてくれたまえ」

「……ソラノさん、でいいってこと?」

「それでいい。平等にいこう」


 これからどんな言葉を交わすつもりなのだろうか。

 分からないまま僕はソラノの家に入った。

 まず見えたのがキッチン、冷蔵庫、そしてシンクだった。

 シンクは新品のようにピカピカになっていて水滴一つすら飛んでいない。洗われた皿やコップといったものも一つとして見えず、そもそも食器というものがどこにも見当たらない。その代わりキッチンには、なぜか筆記用具、ノート、教科書といった勉強道具が置かれていた。


「我々はそこで勉強するんだ。スペースはあるし十分だろう?」


 疑問を口にするより先にソラノが言う。

 確かに十分なスペースは確保されているが、勉強の場所として適切とは思えない。


「ここが我々の部屋だ。ゆっくりしてくれ」


 扉が開く。

 ドキドキはしなかったが、一応、生まれてはじめて女子の部屋をこの目で見るのだから、少しばかりは期待していた。例え変わっているソラノであっても女子だ。女子らしい部屋なのだろうと。

 だが、そんなことはまったくなかった。

 その部屋は女子らしい、男子らしいといった次元ではなく、人間らしいという感覚からも離れていた。


 部屋にはほとんど何もなかった。

 あるのは夕日すら完全に遮ってしまっている遮光カーテンと、何かが入りそうな押入れぐらいだ。

 机もテレビも本棚もパソコンもイスもオモチャも服もベッドもゴミ箱もティッシュもない。生活している気配そのものが疑わしい。押入れにすべて詰め込んでいたとしても、何もない、なんていうことはないはずだ。


「恵一君、なにをボーっと突っ立っているんだい? 座りなよ。掃除はしてあるよ」


 どうやって生活しているのか、とは聞けず、僕はとりあえずその場に座り込んだ。床は少しだけひんやりとしていて少し冷たかった。敷き物がないのでゴム製のタイルがむき出しになっている。


「水を入れてくるよ。ちょっと待っていてくれ」

「あ、ありがとう……」


 僕は部屋に圧倒されていることはできるだけ隠しつつ答えた。

 ジャーという蛇口から出る水の音が聞こえる。


「はい、これ」


 手渡された紙コップには水が入っていた。ぬるい水だった。さっき見かけた冷蔵庫に飲み物は入っていないのだろうか。


「照明は買ってないんだ。せめてカーテンを開けよう。じきに暗くなってしまうが、そこはすまないと先に謝っておくよ」


 そういえばこの部屋には照明もない。本来、照明があるべき場所には差し込み口だけがある。


「我々にとって部屋の照明は不要なんだ。エジソン以前の照明……つまり自然光だけで十分だった。とはいえその時代の照明として活躍するロウソクもないが、この部屋は南側に窓があるし、空き地しかないから、採光の邪魔になるものはない。快適だよ」


 聞いてもいないのにソラノは疑問に答えてくれる。だが、腑に落ちるわけではなかった。暗いことは不便じゃないだろうか。


「まあ、冬はキッチンの備えつけの電気がある。曇りの日も、そちらで用事を済ませればいい。勉強はそれで何とかなる」


 僕はキッチンにあった勉強道具一式のことを思い出した。




 日は傾いていく。部屋は赤みを増し、燃えるような色合いを帯びていく。そんな太陽を背にソラノは無言で紙コップの水を飲んだ。僕も続けて無言で飲んだ。

 僕はふとそばに立てかけていた紙袋の存在を思い出した。

 何もない部屋に圧倒される上に、ソラノの正体がミステリアスすぎて、この部屋に来た意味を忘れかけていた。

 僕は今日、授業のプリントを届けにきたのだった。


「あの、これ……このプリント、どこに置こう」

「そんなものは適当に置いてくれて構わないよ。ありがとう」


 僕は押入れの近くに立てかけた。そういえばこの押入れには何が入っているのだろう。謎だ。

 だけどそれより、僕は本来の目的を思い出すことで、あの出来事のことを思い出した。


 ソラノは魔法を春香たちに見せるため彼女は左の肘から手首をカッターナイフで切っている。ためらいもなくスッと切ってみせ、血と泥のような汚物を自分の机のうえで混ぜ合わせて見せた。自傷行為とはいえ、普通のケガではなかった。


「あの……ところでケガは大丈夫?」

「ケガ?」


 ケガとは何だ、と言いたげな目線をソラノは僕に送りつけてきた。


「左腕の……」

「左腕? ああ、カッターで切った箇所かね? 見るかい?」

「いや、別に僕は見たいわけじゃ……えっ?」


 断るより先にソラノは左腕の袖をめくった。

 僕は痛々しい切り傷の登場を想像し、少し目を覆いたくなった。

 だがその必要はなかった。

 左腕にあるべき一筋の長い切り傷。

 それはもう綺麗になくなっていた。


「一週間も前の傷なんか、残るわけがないだろう?」

「そ、そうだよね……いや、深い傷だと思ってたから、痕が残っているかと思ったんだ。浅い傷でよかった」

「浅い傷? それはちがうな、恵一君。傷は深かった。だから血がたくさん出た。でもあれぐらい、我々ならすぐに治る」

「我々なら? それはどういう……」

「それは我々の噂を聞いていれば分かるだろう」

「噂?」


 僕はとぼけてみせるが、答えは明白だった。


「我々は本物の魔女だからさ」

「魔女は春香たちが勝手に言ってることじゃないの?」

「確かに彼女たちは勝手に言っている。しかし我々は彼らの言説を否定しない。便宜的には分かりやすい。事実、我々は魔法が使えるからね。はははっ!」


 ソラノの笑うところを僕は初めて見た。口角がただ上がっただけの奇妙な笑い方だ。目は笑っていない。

 僕はどう返せばいいか分からず黙った。ソラノの言う魔法のことが、少しバカらしく感じる。

 そしてもう帰っていいんじゃないかとすら思った。

 しかし少しすると、ソラノが口を開いた。


「ところで恵一君」

「なに?」

「君はイジメをその目で見たわけだけど、どうだい? 良い文化だと思えたかい?」


 イジメは良い文化。

 初めて会ったソラノは僕にそう言った。掃除を押し付けられるというイジメを受けながら。そして泥に染まった机のうえに腕を切って彼女は血を垂らした。

 あれから一週間と一日だけ経った今でも、僕はまったく理解できない。

 僕は素直に首を横に振る。


「そうか、なるほど。でも物事をもっと巨視的に見れば君でも分かるとは思うよ? 例えば人類史と比較するなんてどうかね?」

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