訪問
立花ソラノが泥まみれになり、自傷行為に及んでから一週間が経った。
あれから立花ソラノは教室に姿を見せていなかった。
彼女の机は、最初から誰もいなかったかのように綺麗で、教室も明るく平和な世界が広がっていた。
「よっ、恵一!」
「ああ、大輝。おはよう」
僕も何事もなかったかのように振るまった。
完全な体育会系キャラかと思えた大輝と僕はこの一週間で仲良くなった。
大輝はあらゆるジャンルの映画を見ているし、意外にも本も色々と読んでいる。オタクではないものの、オタク的なところが大輝にはある。そのおかげで仲良くなれた。
そして担任の若槻先生や、他のクラスメイトとも打ち解けるようになった。
このクラスは僕のことを信頼してくれていた。
それはとてもありがたいことだった。
たが、僕はそうじゃなかった。
いまだに心の底から大輝を含むクラスメイト、そして若槻先生を信頼できそうにない。
立花ソラノが血を流そうが、汚物にまみれようが、それを看過しエンタメの一つとして消化する同調圧力に対して、何の疑問を抱かない人々を信頼する。会話をしている瞬間は楽しいが、あの空気を思い出すと、そういった信頼は難しいように感じる。
この一週間はそんな気持ちに何度も襲われた。
「ところで『塔と重力』読んだか?」
いつも通り、大輝は僕に声をかけてきた。これは先日貸してくれた純文学小説のことだ。
信頼できない側面があると思いつつも、大輝の快活な声は、僕の心を明るくさせてくれた。
友情は確かにある。
「まだ全然読めてないよ」
「どのあたりだ?」
「どの……『小窓』っていう能力が出てきたあたり」
「あれは能力とかそういうのじゃないんだけどな。……ってか、半分にも達してねーじゃん。恵一、ラノベとか読むんだから、小説読み慣れてるだろ?」
「純文学は難しいよ」
「確かに意味不明なやつもあるけど、あれは読みやすい方だよ。ぶっちゃけ一緒に収録されてる他の2つの作品とか完全にSFだしな。あらゆる身体が一つの『肉の海』になってるとか、レムとかタルコフスキーの『惑星ソラリス』っぽいし。それに読みにくいところは『燃えよ、ドラゴン』のブルース・リーの精神を貫けばいいさ」
「どんな精神?」
「考えるな感じろ、だよ。そもそも小説は必ず理解できるっていう代物じゃないんだぜ?」
なるほど、と思いつつも、理解できない小説を楽しむ行為が僕にできるとは思えない。
その気持ちを理解してくれないのか、大輝はさらに語る。
「ちなみにだが、その『塔と重力』の作者はデビュー作の『太陽』からずっと同じモチーフが出てくるんだ。『肉の海』とかがそうだな。それが本当に壮大な話になってて面白いんだ。その面白さが分かってくれる人を俺は探してる。恵一、お前はそんな理解者第一号になると信じてる。期待してるぞ」
「わかった。期待に応えるよう、頑張って読んでみるよ」
僕が言い終えるよりも早く大輝は別のクラスメイトのもとへと立ち去っていった。
頑張って読むという自分の言葉に、どこか引っかかるものを感じつつも、僕は鞄のなかに入っている『塔と重力』の表紙をさすった。
放課後。
僕は若槻先生によって職員室に呼び出されていた。
「あのー転校早々でゴメンなんだけど、立花さんの家にこれ、届けにいってもらっていいかな?」
若槻先生はそう言ってプリントの束を指で示した。一週間のあいだに出た授業のプリントや宿題の束だ。
「別にいいですけど……」
なんで僕なんですか?
転校生である僕より、他のクラスメイトの方が適任でしょう?
誰もいなければ、先生が行くべきでは?
……という言葉は、意外にも出てこなかった。
若槻先生は本人を含め、クラス全体が立花ソラノを嫌っていると知っている。
そして、さすがに転校して一週間で嫌うことはないだろうと、期待を込めている。
僕もまた、あの血と泥の現場を目撃したというのに。
「そっかー助かる。これね、今日届けなきゃいけないんだけど、私も含めてみんな忙しくてね。いやー助かったよ。城山君、ありがとうね。とりあえず立花さんの住所、ここだから」
そう言って若槻先生はネットの地図を印刷した紙と、アパートの外観写真の印刷を渡してきた。
意外にも立花ソラノの住所は、僕の家からかなり近そうだった。
紙袋に入れた一週間分のプリントの束をもって、僕は立花ソラノの住むアパートへと向かった。
僕の家から近いといっても、引っ越したばかりなので見たことのない景色がずっと続く。それも若槻先生から渡された印刷された地図からは少し想像できなかった景色ばかり続いていた。
僕の家の周りには、一戸建てや、マンションや、アパートが隙間を埋めるようにして並んでいる。しかし立花ソラノの住むアパートの近くは『売物件』の看板が並んでいて、隙間だらけだった。そんな空き地の一つ一つは整備されていないのか、とにかく草が高々と生えていた。
どうしてこれほどまでに何もないのかは分からない。
ただ、駐車場が一か所だけあり、かろうじて赤い車が一台だけ止まっていた。駐車場の一台は手入れがしっかりされており、夕陽を綺麗に反射させていた。ただ、サイドミラーだけはなぜかなかった。
駐車場をすぎると視界にはようやくアパートの姿が入ってきた。二階建てのこじんまりとしたアパートだった。
平坦な道に、空き地の数々に、広々とした平地。そこに唯一存在する建物が立花ソラノの住むアパート。その景色に少しばかり異様さを感じつつも、足を止めることなく進んだ。立花ソラノはこのアパートの206号室に住んでいるらしい。アパートの一番端の場所になる。
僕はアパートの階段をのぼった。カンカンという鉄の甲高い音とともに、階段の塗装がはがれ錆びが現れる。アパートの壁全体が黒く煤けていることもあり、とてもじゃないが新しいアパートとは思えなかった。それにどの蛍光灯にも蜘蛛の巣があり、蛾やハエがその巣にひっつている様を見ていると、廃アパートなのではないかと疑ってしまう。かろうじて蛍光灯の光がついているから、生きた住居として認識できたが、人の気配はまったくといっていいほどなかった。そもそも、どこの部屋にも表札がない。
本当に立花ソラノはこんなところに住んでいるのだろうか?
これすら『売物件』じゃないだろうか?
だが206号室にたどり着くとそこが『売物件』ではなく、まだ機能しているアパートだと頭で理解できた。
206号室だけ、表札があった。そこには『立花』と書かれていた。
僕はその表札をみて、「やっと着いた」と一呼吸置きたい所だった。だが、そんなことはできなかった。
立花ソラノの玄関前は普通ではなかった。
『塔と重力』(作:上田岳弘 新潮社・2017年刊)




