魔法
机の上に広がる茶色の物体たちは、容赦なく飛びはね、立花ソラノのただでさえだらしない制服を茶色に染めた。
「うわっくっっせ。ウンコ混じってるんじゃない?」
取り巻きの一人が鼻を指でつまみつつ、「うげー」と言った。
「さすがにそれはない。うどんが腐ったんじゃない? 賞味期限切れのやつだったし」
「にしても虫はないなー。春香、よく入れたよな」
「だって魔法の儀式に生き物って必須じゃない? たぶん」
どうやら金髪の女子の名前は春香というらしい。
春香は臭さに圧倒される取り巻き二人とは違い、勝ち誇った笑みを浮かべた。
そんな春香につられて、取り巻き二人もようやく笑いはじめた。
さらに、ククッと大輝も小さく笑う。
「春香ってあの三人組のリーダーなんだけど、ホントえげつないことやるんだよな。なあ、すごいだろ?」
僕は答えなかった。「えげつないね」とか「すごい」とは思ったが、そう答えたくはなかった。
それよりまず先に、「イカれてる」という言葉が出そうになっていた。
僕はその言葉を我慢する。余計な波風は立てたくはない。
「ほら、早く魔法唱えろよ。なんでもいいよ。マジで。魔法唱えたら、許すから」
春香が手拍子にあわせて「魔法! 魔法!」とコールをはじめた。
それでも立花ソラノは机の上にぶちまけられた茶色の汚物をジッと見つめ、動かなかった。
そして、そんな汚物から目を離すことなく言った。
「これでは唱えられない。心臓も血もなく、我々はどうやって魔法を唱えればいいんだ。教えてくれないか?」
「出、出た! 我々! キモッ! 誰だよ、我々って」
春香が手を叩いて笑う。
「我々は我々だ。この体は一個の生命体ではない。ただそれだけの話だ。それより質問に答えてくれないか。魔法を唱えるにしても、これでは不十分だ。やり直してくれ」
「はあ、意味わかんねえし。てか調子にのって命令すんなよ、魔女が!」
春香は立花ソラノの後頭部をつかみ、茶色の汚物のなかへと押しこんだ。
ベシャリという音がして、泥のようなものが周囲に飛び散る。立花ソラノの席の近くにいたクラスメイトは「うわ」と悲鳴をあげ、すぐさま立ち去った。
「お前キモいんだよ、いつもいつも、妙なことばかり口走って見下しやがって! 先輩を呪い殺したのもお前だって、私たち分かってんだよ!」
春香は後頭部を押さえつけるのをやめる。立花ソラノはゆっくりと顔をあげ、頬についた蛾の羽根をつまんで床に捨て、目の泥を指で払った。
「呪い殺したのは何度も言うようだけど誤解だよ。我々は呪い殺さない。君の先輩は自分の意思で死んだ。ただそれだけ」
「フザけんな! 先輩があんな死に方、するはずないだろ!」
「どうしてそう言える? 人間はみな、簡単に死ぬものだよ」
立花ソラノが先輩を呪い殺した?
どういう話か分からない。そもそもこの会話はどこへ向かっているのか分からない。
だが声を荒げ、息も荒くなっていく春香に対し、顔が泥とかで汚れた立花ソラノは、僕が会話したときと同じ口調で、淡々としゃべり続けていた。
「……ところで魔法を見たいと言っていたね? 見せてあげようか?」
不毛な言い争いが、立花ソラノの言葉でピタリと止まった。
教室中の空気も凍ったように、動きが止まった。
「なに?」
「魔法だよ。見たかったのだろう。じゃあ見せてあげるよ。我々の代償による魔法をね――」
立花ソラノは珍しく笑みを浮かべ、そして机のなかからカッターを取り出した。
「やっば」
大輝の顔が急に青ざめる。無論、僕も血の気が引いた。
春香たちは立花ソラノの席からはそそくさと立ち去った。カッターナイフが自分を刺すと思ったのだろう。無論、僕も刺されるのは春香たちだと思った。
だが、ちがった。
立花ソラノは自分の左手の袖をめくり上げ、肘にカッターナイフを突き立てた。
ぶすり、なんていう擬音は聞こえなかった。
しかし刃先は皮膚へと押しこまれる。
そのままカッターナイフは静かに、立花ソラノの皮膚の上をすべっていく。肘から手首まで、その動きにためらいや躊躇はなく、まるでペンを動かすようだった。
すぐカッターナイフの軌跡を追うように、腕から赤い線が見えた。血だった。
多くの血が机の上の汚物に落ち、茶色と黒々とした血が混ざりあった。
それを目撃してしまった女子数人が悲鳴をあげた。
しかし立花ソラノはそれをジッと、何も痛みを訴えることなく、他人事のように見ていた。
「これで準備は整った。あとは魔法を唱えるだけ――」
「あ、あの、立花さんは何をやっているんでしょうか?」
どこからともなく、弱々しい声が聞こえてきた。若槻先生の声だった。
若槻先生は朝礼のために、担任としてこの教室に入ってきたのだ。
「魔法ですよ、若槻先生」
立花ソラノが腕から血を流しながら言う。
「そ、そうですか。今回は顔も腕も汚して……えっと、とりあえず色々と洗ってください。いえ、それより保健室です。ばい菌が入ると、危ないですからね。えー。でもなんでしょう。この教室、くさいですね」
最後はかすかに聞こえるほど小声だった。若槻先生なりに我慢しきれないものがあったのだろう。顔もいつもとは違い、険しかった。
立花ソラノは立ち上がり、教室の奥にあるバケツをもって自分の席に戻る。そして机の上の汚物をそのバケツに入れ、軽く雑巾で机を拭いた。
立花ソラノはそんな汚物の入ったバケツをもって、教室を出た。
「とりあえず窓は全開にしてください。じゃあ出席取りますかね」
朝礼は何事もないかのように進行していった。
朝礼中、明らかなイジメに関して、誰も一切触れようとしなかった。
若槻先生は『今回は』と、立花ソラノの惨状を見て、そう言った。日常茶飯事なのだろう。
血と泥の臭いが発せられた立花ソラノの席は朝礼の直後、春香の手によって窓から捨てられた。にぶい木と金属の破砕音が聞こえた。授業中、それでも臭いは充満したままだった。
立花ソラノはそれから一週間、教室に顔を出さなくなった。




