第30話 四百十三通目
「では、綿貫参考人。陳述をどうぞ」
「はい」
綿貫は立たなかった。座ったまま、鞄からA3の紙を出して委員部の職員に渡した。
「一枚だけです。配布をお願いします」
委員席に十七枚、記者席に一枚。表が一つ、印刷してあるだけである。
◇
「協会の事故分類コードは、十七年前に策定されたものです。私が作ったものではありません。定義は様式集にあり、公開されています」
彼は表の左端を指した。
「四十一件を、その定義どおりに分類し直しました。新しい基準は使っていません」
彼は右端を指した。
「結果、二十九件がE-2に該当します。装備の設計または規格に起因する事象、という区分です」
会議室が静かになった。
「現行の分類では、E-2は一件もありません」
◇
「なぜ、これまでこの分類が使われなかったのですか」
綿貫は言い方を選んだ。
「分類は、事故の状況を書いた人間ではなく、認定をした人間が付けるからです」
紙をめくる音がした。
「私は十九年、何が起きたかだけを書いてきました。分類を付ける権限はありません。付けるのは安全管理本部です」
議員が右端の参考人席を見た。久我は動かなかった。
◇
綿貫は二つ目の資料を出した。
「協会の文書目録に『未受理』として記載されている文書です。提出者は泊玲司」
会議室の空気が変わった。その名前は、この国では通りがいい。
「六枚あります。末尾の一文を読み上げます」
「『本手順は有効である。ただし、それは私の装備を前提としている』」
一行あけて、次を読んだ。
「『私は、それを言わずに広めました』」
記者席で、シャッターが一斉に鳴った。
「続きがあります。検証のため規格Cの装備を用いて当該条件を再現する、結果は追記する、と」
彼は紙を置いた。
「追記は、ありません」
議長がマイクを寄せた。
「どういう意味でしょうか」
「作成日は三年前の五月二十六日。泊玲司氏は、その十六日後に亡くなっています。所持していた装備は規格Cの確保器一点と、携行記録器二台。単独で第七区画十九層に入りました」
会議室が静まり返った。
「協会の認定は、後進を庇った殉職です」
彼はそこで、一度だけ言葉を切った。
「庇う後進は、その場にいません」
◇
「委員長。四十一件の氏名を、読み上げさせていただけますか」
議長が委員に諮った。異議は出なかった。
綿貫は机の一番下の一冊に手を置き、表紙を開かずに読み上げた。覚えている。
「一件目」
冷房の音がする。
「新藤克巳さん、二十四歳。十九年前十月十四日。第三区画九層。ハーネス破断による墜落。認定は、確保操作の誤り」
彼は次の一冊に手を移した。
「二件目。日野原智さん、三十一歳。十八年前六月——」
読み上げは十七分かかった。誰も遮らなかった。名前、年齢、日付、区画、認定文。それだけを四十一回繰り返す。
三十八件目。
「泊玲司さん、三十八歳。三年前六月十一日。第七区画十九層。認定は、後進を庇った殉職」
四十一件目。
彼は一番上の一冊に手を置いた。
三月に自分で書いた、まだ受理されていない報告書である。
「三嶋悠さん、二十二歳。本年三月三日。第七区画十二層。認定は、無理な単独潜行による墜落」
彼はそこで手を下ろした。
◇
「私はこの四十一件について、一度も『事故』と書いていません。原因が確定していなかったからです。確定していないものを事故と呼ぶと、原因を探す理由がなくなります」
彼は積み上がった背表紙を見た。
「今日、確定しました」
冷房の送風で、A3の紙の端がめくれた。誰かが押さえた。
「これは、事故ではありません」
◇
久我が挙手した。指名されて、立ち上がらないまま鞄から資料を出した。
「配布をお願いできますか」
職員が受け取って、配りはじめた。
「昨日、綿貫くんの分類表を事前配布で読みました。私の様式で、私のデータを、私より正確に分類されています」
久我は手元の紙を見ずに続けた。
「反論はありません」
議員が資料を開いた。等級別・装備規格別の死亡率を、潜行回数で割ったものである。
「私が十九年、個人で取っていた統計です。協会の公式なものではありません」
「なぜ公表されなかったのですか」
「総数を管理していれば足りると考えていたからです」
久我は、そこで初めて言葉を選んだ。
「私は十七年、総数だけを見て、内訳を見ていませんでした。E級の死亡率は、B級以上の九倍です」
会議室が、また静かになった。
「先ほど、四十一人を犠牲にして百五十人を生かしてきたと申し上げました。訂正します」
久我はマイクを少し引いた。
「私は、E級とD級を犠牲にして、B級以上を生かしていました」
◇
「それは、いつから分かっていましたか」
久我は答えるまでに、少し時間をかけた。
「三年前です。泊さんの報告書を読んだときに。あの文書を保留にしたのは、私です」
「理由は」
「記録に残していません。合理的な理由がなかったからです」
彼は正面を向いたまま続けた。
「十九年で、合理で説明できない判断は、その一件だけです」
久我は座り直した。
隣の綿貫を、見なかった。
二人とも、前を向いたままだった。
◇
閉会は十六時二十分である。
議員が出て、記者が出て、委員部の職員が椅子を戻しはじめた。
綿貫は段ボールに報告書を詰め直した。積むより、詰めるほうが時間がかかる。番号順に戻さないと、次に出すときに探せない。
手伝う人間はいなかった。
台車を借りに廊下へ出たとき、後ろから足音がした。
三嶋果穂が、何も言わずに段ボールを一つ持った。
「重いですよ」
「はい」
二人でエレベーターまで歩いた。三十メートルほどのあいだ、どちらも喋らなかった。
エレベーターの前で、果穂が段ボールを置いた。
「ロープが上で切れてたって、最初に聞いたとき。誰を、とは聞けなかったんです」
綿貫は待った。
「怖くて」
彼女は自分の手を見た。
「砂子さんだったんですね」
「はい」
「あの人、子どもがいるって」
「はい」
果穂は、それ以上何も言わなかった。責めもしなかった。
エレベーターが来て、扉が開いて、閉まった。彼女は乗らなかった。
◇
「綿貫さん」
「はい」
果穂が顔を上げた。
「悠は、最後まで手を離さなかったんですね」
五か月で、初めてだった。
彼女がその名前を呼んだのは。
綿貫は、何も言えなかった。
十九年、遺族の前で言葉が出ない。この日も同じだった。
彼は段ボールを床に置いて、頭を下げた。
下げたまま、しばらく上げなかった。
しばらくして、果穂が段ボールを持ち直した。
「重いですね、これ」
それ以上、誰も泣かなかった。
◇
九月。
四十一件は全件が再審査にかかった。撤回された認定は、今のところ三件である。行政は一夜では変わらない。
規格B・Cの動荷重試験基準は策定作業に入り、黒石ゆかりが外部委員に招かれた。アンカーIII型系列は回収。砂子悌の登録は残っている。
災害調査室は、廃止のままだった。
代わりに事故調査部門が新設され、陣内律が最初の配属になった。辞表は差し戻されている。
綿貫は協会を辞めた。懲戒は訓告で決着し、それを待たずに自分から出した。新設部門の非常勤の調査補助として契約で入っている。肩書きは下がった。
やることは、何も変わらない。
◇
首都圏第十一区域。
九月の入口は、まだ暑い。ゲートの外の空き地に雑草が伸びていた。
一報が入ったのは、二時間前である。
綿貫は入口で立った。一分。何もしない。ただ見る。天井の稜線。床。奥へ二十メートル。手前へ戻して、右の壁。
「何してるんですか」
後ろで、陣内が言った。
新設部門の職員として、今日が初めての現場である。制服が新しい。番号札の束を、握り方が分からない持ち方で持っていた。
「先に全部見ておかないと、拾ったものがどこにあったか分からなくなります」
陣内が笑った。
「僕、それ、五か月前にも聞きました。一言一句同じでしたよ」
綿貫は上着の内ポケットから巻尺を出した。塗装の剥げた金属の巻尺で、六十センチ付近の目盛りが擦れて読めない。
「それ、新しいの買わないんですか」
「読めますから」
三十センチ引き出して、また戻した。金属が鳴った。
十九年前、新藤克巳と使っていたものである。あの日、腰のベルトが裂けて荷重が抜けた。手の中でロープが走った。持っていたのは四秒だけで、そのあとに残ったのが、これである。
◇
彼はスケッチブックを開いた。新しい一冊で、表紙の角がまだ擦り切れていない。
鉛筆を短く持って、日付を書く。場所を書く。それから、深度を書いた。
四百十三通目を、書き始める。
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