第八章 訪問者
さっきまで淡い青だった空の色が、いつの間にかほのかに黄色みを帯びていた。夕暮れが近づいて来ているのだろう。
そろそろ部屋に戻らなければ、誰かが探しに来るかもしれないとアリーシャが思っていると、待っていた相手の気配がした。
「――どういうことです?」
王宮内の庭の隅、アリーシャがいつも鍛錬をしているその場所で、静かな低音が響いた。
端整でありながらも精悍な容姿に相応しいその声は、常と変わらず落ち着いたものだ。
(なのに、何でかな……)
そんな声が、どうしてこうも恐ろしいのだろうかと、アリーシャは姿勢を正したまま考えた。
忙しい合間を縫って、こうして自分と話をする時間を設けてくれた彼には感謝以外ないのだが、それはそれ、これはこれだ。
この、淡々としながらも底に静かな怒りを秘めた話し方は、息子であるエリオットと実にそっくりだと思う。
しばしの間を置いた後に、ギスカールは息を吐いてこちらを見遣った。
「エリオットから聞きましたが、随分無茶をされたようですね。一体何人の襲撃者を無力化したんですか」
「……急いでたので、覚えてません。襲い掛かってくる相手を適当に打ちのめしてただけですし」
ちなみにそれは剣だけでなく、手も足も使った何でもありの戦法だ。正道とは言い難いそれは、人目があるところで使える手段ではない。とはいえ、それをアリーシャに教えてくれたのは目の前のこのひとなのだが。
「……今更ですが、お怪我はなかったのですね?」
「ありません」
それについては力を込めて肯定しておいた。不本意ではあるが、王族である自分のこの身はアリーシャのものであってアリーシャのものではないのだ。
安易に傷をつけようものなら、冗談でなく周囲の人間の首が飛ぶことになりかねない。
それゆえに、そこらについてはこれでも細心の注意を払っているのである。
(本当に、よくもこんな、七面倒な人間の指導を引き受けてくれたもんだわ……)
つくづくこの師匠の存在が有難く、同時に厄介事を頼んだことが申し訳ない。
でも、どう考えても、こうして最低限の護身術を身につけておいたことはやはり正解だったと思うのだ。
「やっぱり、貴方も怒ってらっしゃいますか」
「安全な場所で守られていることが、貴女の義務です。それを蔑ろにした貴女の行動は断じて認められるものではありません」
ギスカールの口調は穏やかだが、言っていることは手厳しかった。仕方がないと、アリーシャは目を伏せる。
しかしその後に続いた言葉に、アリーシャは瞬いた。
「……ですが、今回に限っては、貴女が動かなければ甚大な被害が出ていたことは事実です」
「え」
「貴女が警護の者たちを呼び戻し、そして非常事態を知らせる鐘を鳴らしてくれたおかげで、外部からの救援が間に合いました。でなかったら、間違いなく多くの生徒たちが連れ去られていたでしょう」
「………………………………」
これは、一応は褒め言葉なのだろうか……とアリーシャが疑問を抱いていると、ギスカールは非常に意に沿わない様子で告げた。
「結果が全て、とは私は思ってはおりません。ですが結果として最小の被害となった以上、その行動を一概に非難するのもまた違うでしょう」
(って、そんな苦り切った顔で言われても……)
危うくそう言い返しそうになり、アリーシャは慌てて口を噤んだ。沈黙は金、雄弁は銀という。
こんなときくらいは、精神年齢相応の分別を発揮するべきだろう。
「……では、怒る気がないのでしたら、教えていただきたいことがあるのですが」
ようやくここで本題に入れると、アリーシャは口を開いた。
「学園を襲撃してきたあの侵入者たちは、半年前、モラヴィアで動きを見せていたのと同じ所属の者だと思いますか?」
この目で見た、覆面の男たちの服装と装備を思い返しながらアリーシャがそう尋ねると、ギスカールの面から表情がすっと掻き消えた。
感情を窺わせないその顔に、アリーシャは己の予測があっていたことを確信する。
「……陛下には、姫君には何も答えないようにとお言葉を頂いております」
「ええ」
アリーシャは頷いた。
「分かっているわ、無理を言ってごめんなさい」
当然のことだ。ギスカールの主君は国王であって自分ではないのだから。
それでも、ここまで知れればある程度の推測はたてられる。
それからアリーシャはギスカールと簡単な会話を交わし、辞去するその背を見送った。
ふと気付くと、随分と陽射しが傾いていた。
足下に伸びる長い影と、頬を撫でる風の冷たさに日没が近いことを実感する。
本当に、秋の日が暮れるのは早いものだ。
「もう、冬が来るのね」
そんな呟きをぽつりと零し、アリーシャは自室に向かって歩き出した。
「……はい?」
ぽかんと開きそうになった口元をどうにか堪え、アリーシャは辛うじてその言葉を押し出した。
何か今、有り得ない話を耳にしたような気がするのだが。
(え……、空耳、よね……?)
あえて己にそう言い聞かせているアリーシャに、黒髪の侍女はきっぱりと告げる。
「お疑いになられるのは無理もないことと存じますが、間違いございません。姫様に面会の申し入れをしてきたのは、トリスレード伯爵家のカーライル様です」
「いや、だから、嘘でしょう? ほら、よく似た家名の別人だとか……」
現実を直視しまいとごねるアリーシャに、レイチェルはにっこりと微笑んだ。
「往生際が悪いですよ、姫様。いい加減ご決断下さい。お会いになるかならないか、どうなさいますか」
顔には笑みを湛えているのに、水色の瞳が全く笑っていないように思うのはアリーシャの気のせいではないだろう。
「ちなみに、姫様に来客がおいでになられたということは、すぐに王宮中の者が知ることになると思いますが」
「…………………………………」
アリーシャは深く項垂れた。つまるところ、この面会を断ろうと断るまいと、彼がアリーシャに会いに来た事実はすでに隠しようもないということだ。
王宮仕えの使用人たちの情報網の凄まじさはアリーシャも知るところであるが、こんな些事にまで及ばなくともいいだろうに。
「分かったわ、急いで着替えるからレイチェルも手伝ってちょうだい。そしてお客様は応接室にご案内しておいて」
しかし、そう言った直後にアリーシャはその場で固まった。
(あ、あれ?)
遅まきながら気付いた事実に、アリーシャの背に冷や汗がつたう。
これから服を着替えるということ自体には、何の問題もない。
なんせアリーシャが今着ているのは、寝間着とまではいかないが、あくまで自室用の気軽な室内着だ。到底人前に出られるような格好ではないのだから、それを改めるのは当然である。
ただ、ここで問題となるのは。
(え? どうしよう? どんな格好で出て行けばいいの!?)
これでも王家の一員であるので、改まった席に相応しい正装も、祝いの場に見合った盛装もそれなりに揃えられてはいる。けれども――。
(か、完全に失念してた……。私、いわゆる普通の服って持ってない!)
他にある手持ちの衣装といえば、学園の制服とあとは鍛練用の男物の衣服くらいか。
悲しいことにアリーシャは、これまでいわゆる貴族の女性たちが開く茶会というものに参加したことがない。
何しろ自分の微妙過ぎる立ち位置は、下手に誰かと親しく付き合おうものならその相手にとっての厄介事となる可能性が大きいのだ。
当然、それらを理解している賢明な方々がアリーシャに誘いをかけるようなことをする筈がないのである。
その一方、そうでない面々については、逆に万が一にでも道連れにしようものならむしろこちらの後味が悪すぎるということで――、そうして距離を置いた結果がお茶会一つ出たことのないこの侘しい身の上だった。
そんなこんなの事情ゆえに、アリーシャは同年代の少女たちがそういった席で着るような衣類を用意する必要もその機会もなかったのである。
(公ではない面会で、しかもその相手は同級生だけど、ここは王宮内って……。この場合、何を着たら正解なわけ!?)
訪問だけでも寝耳に水だというのに、こんなところで思いがけない難題までも出て来るとは。
昨日のごたごたに引き続き、今日もこんな厄介事が起こるなんて、とアリーシャの肩が落ちる。
だが、アリーシャがどれだけ落ち込もうと、時間は待ってはくれないのだ。
アリーシャは手持ちの衣装の中で、比較的シンプルなローズピンクのワンピースドレスを選び出し、すぐにそれを身に付けた。
長い髪もおろしたままでは礼を欠くので、横髪の一部を持ち上げ後頭部でまとめる。
この間、わずか三分。
銀細工の髪飾りを留め、髪形が仕上がった直後に、アリーシャは即立ち上がった。お化粧も、と慌てる侍女たちには必要ないと言い置いて歩き出す。
(いや、私、十五歳の学生だから。本音を言えば制服でもいいと思ってるくらいだから!)
というよりも、これから会いに行く相手の方は、そもそもアリーシャの服装がどんなものであろうとも頓着しないだろう。
(あー、もーっ! ほんっとに色々面倒くさい!)
そんな八つ当たりめいた感情を抱きつつ、アリーシャは奥庭に面した一室へと向かった。
それでも、心中でいくらふてくされていようとも、生まれてかれこれ十五年以上被り続けた猫は伊達ではない。
アリーシャが応接室に足を踏み入れると、窓際に佇む礼服姿の少年の背中が見えた。こちらを振り向いた藍色の瞳が自分を見たのを確かめ、アリーシャは優雅に一礼する。
「お待たせして申し訳ありません。此度の御来訪を歓迎いたします。お茶をご用意しますので、席にお着きいただいてもよろしいでしょうか」
「あ、ああ……」
先手必勝とばかりにアリーシャがにこやかな笑顔を向けると、カーライルは少したじろいだ様子で頷いた。
アリーシャの指示に従った侍女が、テーブルの上に淹れたての茶と菓子が置いていく。彼女は無言で礼をして、部屋を退出した。
「え?」
出て行く侍女に、カーライルがとまどった声をあげた。
貴人の側近くに仕えるのが侍女の務めだ。にもかかわらず、主人を残して場から下がったということに驚いたのだろう。
なんせ、アリーシャは王太子の娘である。そんな深窓の姫を異性と二人きりにするなど、確かに普通なら考えられないことだ。
だからこの反応は無理もないと思いつつ、アリーシャは軽く肩をすくめた。
「先に彼女に言っておいたのよ。部外者がいたら話しにくいんじゃないかと思って」
いつものお嬢様風のそれとは違う話し方に、カーライルは少し目を見開いた。
「どういう意味だ」
「言葉どおりよ。ちなみに、この部屋の壁にも床にも天井にも誰もいないわ。信じるか信じないかは貴方次第だけど」
「……それはあまりにも不用心じゃないのか」
「氏素性がはっきりしている上、正式に面会を申し込んで来た相手に礼を失するような真似はしないわよ。勿論敵なら話は別だけど。でも、今回貴方が私に会いに来たのは、敵対するためではないのでしょう?」
自分とカーライルとの関係――というか互いの親同士の関係という方が正確なのだが――を慮れば、こうして彼が出向いて来たということ自体が驚愕すべきことなのだ。
アリーシャにしても正直警戒しかないのだが、それでも彼のこの行動に意味がないわけがない。
(にしても、まさかこのひとと差しで話をすることになるなんて)
居心地の悪さに、アリーシャは心の中で呻き声をあげた。
アリーシャ個人としてはカーライルへの悪感情は一切ない。というか、本音を明かせばうちの両親がかつて貴方のお母様に大変なご無礼とご迷惑をおかけしました、と思っているくらいだ。
しかも、やらかしたのは親だけではないのである。
知らなかったとはいえ、アリーシャ自身も入学試験で首席を掻っ攫っておきながら、彼に代表挨拶を押しつけるということをやってしまっているのだ。どうしようもない事情があってのことではあったものの、無理に引き受けさせられた彼には言い訳のしようもない。
そういった諸々の経緯から、アリーシャにとってカーライル・トリスレードという少年は極力接点を持ちたくない人物だったりした。
なのに何故、そんな相手がこうしてアリーシャを訪ねて来たのか。
嫌な予感しか覚えなかったが、それでもここで話をしない方が余程ややこしいこととなりそうだった。魑魅魍魎が跋扈する王宮で、十五年以上やり過ごしてきたアリーシャの勘はこれで結構当たるのだ。
アリーシャはお茶を一口飲みこみ、少しだけ滑りのよくなった口を開く。
「それで、何のために私を訪ねて来たの?」
そもそも今日は週に一度の休日でもなんでもなく、本来であれば登校しなければならない日なのだ。だというのに、学生である自分たちがこうして日中の王宮で顔を合わせているのは、本日が臨時の休みとされているからである。
昨日の件について把握するためと、想定外の事態に衝撃を受けただろう生徒たちの心情を考慮し、学園側が週末の二日間を休日にすると決めたのだった。
そうして設けられた休日に、カーライルはわざわざ赴いて来たのだ。
どう考えても、ろくな理由ではないだろう。
色々な意味を含めたアリーシャの問いかけに、カーライルは一度目を伏せた。
だが、それはすぐに上げられ、彼は真っ直ぐにアリーシャを見返す。
「……どうしても、おまえに確かめたいことがあった。半年前のことだ」
(……げ)
それだけで、アリーシャはカーライルが言おうとしていることが察せられた。ただ、それを素直に表に出すほど自分も初心ではない。
うろたえつつも、落ち着き払った表情を保つアリーシャに、カーライルは断定するような強い口調で言った。
「入学式の頃のことだ。あの時期、おまえはモラヴィアにいただろう?」
その確信した声音に、カップに触れていたアリーシャの指先がぴたりと止まった。




