第七章 襲撃
アリーシャは弾かれたように顔を上げた。
声が上がった方向は、学園の南側だ。山に面したそちらの方には、植物園や実験に使用するための棟などの学園内の施設が集められている。それゆえ、実はあまり人の出入りが多くない場所だ。
(なのに、どうして?)
だが、その疑問について深く考えているような時間はなかった。
荒々しい物音が響いて来る。それに続くのは、幾人もの叫び声だった。
「うわぁっ!」
「な、何なんだ!?」
「や、いやあっ!」
「だ、誰かっ! 助けて!」
伝わってくる緊迫した雰囲気に、この場の生徒たちは皆、ただおろおろとうろたえるばかりだ。
アリーシャは走り出し、人と人の間をすり抜けて広場を囲む仕切りの壁へと向かった。
勢いをそのまま助走として、地面を蹴って飛び上がる。スカートの裾が翻ろうが、足が多少覗こうが知ったことではない。
ひらりと壁の上に立ったアリーシャは、青の瞳を鋭く眇めた。
南側の門が無残に破壊されている。ちらつく炎と立ち昇る煙の合間に、黒装束の人影が見えた。
それと、彼らに向かって駈け出していった、一つの影も。
アリーシャは西にある時計台を一瞥し、壁から飛び下りた。
「アリーシャ! 何をしてるの!?」
地面に着地するのと同時に、そう言いながら駆け寄ってきたのはジーナだ。
「黙ってて」
アリーシャは再び広場に急いだ。周囲から見えやすいようにと掲示板の置かれていた壇上の前に立ち、声を張り上げる。
「――――静まりなさい!!」
高く澄み切った声が、あたり一帯の空気を大きく震わせた。
一瞬にして、しん、と広場が静まり返る。
より強く、より遠くへと届くように意識しながら、アリーシャは大きく声を押しだした。
「皆、今すぐ講堂へ避難しなさい! 早く! 急ぎなさい!」
凛とした響きにひかれるように、固まっていた生徒たちは、おずおずとアリーシャが指差した方向を見た。そして、一人がよろよろと歩きだすのを皮切りに、一斉にそちらへと向かって動き出す。
その様子を見届けると、アリーシャは踵を返した。
「アリーシャ!? どこへ……!」
背後の声には答えず、アリーシャは南の方角へと向かった。
全速力を出し、あっと言う間にジーナを振り切る。
これまでアリーシャが鍛えてきたのは、剣術や体術だけではない。師いわく、移動のための馬術は無論、最悪何も足となるものがなくても歩き抜けるだけの体力も必要だと、長距離の走り込みまで特訓を受けているのだ。
まあ、王族相手に教えるようなことかと聞かれれば疑問に思いはするものの、事実こうして役立っているのだから文句をつける筋合いではないだろう。
相当な速度で走り抜けたアリーシャは、背後に誰の姿もないことを確認すると植物園に駆け込んだ。
幸いなことに、目当てのものはすぐ目につく所にあった。
手に取ったそれを軽く振り下ろし、重さと強度を確かめる。幸いにも、想定していたよりも遥かに頑丈そうだった。急場凌ぎなら、そこそこ使えるだろう。
(……よし)
アリーシャがそう思っていると、丁度良い頃合いで獲物が飛び込んで来た。
「ここの生徒だな、おとなしく――っ!」
姿を見るや否や、捕らえようと近付いて来た黒装束の男に、アリーシャは力を込めて手にしていた物を叩きつけた。
手にしていた物――すなわち、庭仕事用の大きめのシャベルである。
打ちつけられた衝撃で、男の剣先がずれたその隙を見逃さず、アリーシャは更にその柄を握る手を狙った。
そして、剣を取り落とした男の胴体に、強かにシャベルを打ち込む。
「ぐっ……」
くぐもった呻きをあげ、男はその場に崩れ落ちた。アリーシャはシャベルを放り捨て、すぐさま男の持っていた剣を拾う。
鋼の、ずしりとした重さが手に伝わってきた。
アリーシャが普段使用している物に比べるといささか重かったが、それでも使えないことはないだろう。
(見事なまでに、何の特徴もない剣ね……)
ただ、それなりの手入れはされているようだったが。
刀身を一瞥し、アリーシャはそこに汚れが見えないことに安堵した。
少なくともこの学園内で、男が手に掛けた者はまだいないらしい。
気を失った侵入者を見下ろしたアリーシャは、この男をこのまま放置するべきか逡巡した。
逃走防止のためにもできれば縛り上げておきたいが、縄を探しに行くような時間はない。
(目当ての物は手に入ったんだから、今は急ぐべきよね)
迷いを振り払い、アリーシャは目的とするところを目指して歩き出した。
枯れ葉の散る草の上に、どさりと人が倒れ込むその様子を、カーライルは呼吸も忘れてただ見ていた。
倒れた人間はその背の高さからして、おそらくは成人した男だろう。服だけでなく、その髪も顔も黒い布で覆われているので、断言まではできなかったが。
「怪我はないか」
黒装束の男の背後から現れた少年が、カーライルとクルトを見遣り、短く訪ねてきた。
それは知っている顔だった。いや、それどころか何度か言葉も交わしたこともある。
忘れるわけもない、カーライルの憧れの武人であるそのひとの、一人息子だ。
組こそ違うものの、カーライルと同じ一年生の、エリオット・ウィズリーだった。
どうしてここに、と頭の隅で考えていたカーライルの隣で、声があがった。
「ああ、大丈夫だ。僕も、カーライルもね」
まだ青い顔ではあったが、そう返事をするクルトの口調はしっかりしていた。
その様子に、カーライルも遅まきながら我に返った。
(しっかりしろ、何をぼんやりしてるんだ)
軽く己の頬を叩き、カーライルは改めて周囲を見回した。次いで、ぎょっと目を見張る。
草や木々の緑に隠れるようにして、黒い人影が幾つも倒れ伏している。
一瞬だけ動揺したものの、ぱっと見にせよその周辺に赤色は見当たらなかったのでわずかに肩の力を抜く。
「彼らは、死んではいないんだよな」
「殺してはいないよ。しばらくは目を覚まさないだろうけどね」
思わず零れ落ちたカーライルの呟きに、エリオットは静かに答えた。
だが不意に、彼は手にしていた短刀を構えた。鋭い褐色の瞳で一つの方向を見つめている。
彼は靴音一つ立てず、すっと足を一歩踏み出した。
そして、その直後に、彼は突然両手を下ろした。
「一体、誰が来たのかと思えば、貴女ですか?」
さっきの研ぎ澄まされた気配がまるで嘘のように、力の抜けた呆れ混じりの声音を向ける。
その視線の先を追いかけたカーライルは、大きく目を見張った。
同じくそちらを見ていたクルトも、えっと声をあげる。
しかし二人のそんな驚きを余所に、エリオットは冷ややかな空気を纏い告げた。
「どうして貴女がこんなところにいるんですか、姫様」
「それは、ええと……」
有無を言わせぬエリオットの問いかけに、少女は心底から困り切った顔になった。
(あ、やばい)
エリオットは顔こそ笑っているが、その背後から怒気が放たれていることは見紛いようがなかった。
これは、かなり真面目に怒っているときのものである。
ここで誤魔化すのは更に火に油を注ぐだけだと、アリーシャは腹を括った。
「広場にいた生徒たちには講堂に向かうように言ったし、ここに来る途中で見かけた子たちにも同じように伝えてきたわ。だから、運が悪くなければ彼らは無事に避難している筈よ」
「他の生徒ではなく、俺は貴女のことをお聞きしているのですが?」
その、淡々とした声の圧がむしろ恐ろしいと感じるのは、決してアリーシャの気のせいではないだろう。
そう思いはしたものの、それでも言っておくべきことは言っておくべきだと、アリーシャは努めて落ち着いた口調で言った。
「だって、私が彼らと同じ場所に避難するわけにはいかないでしょう」
アリーシャの懸念は、彼であれば分かる筈だった。
学園に侵入してきた男たちの思惑が何なのかは、現時点では分からない。
そしてだからこそ、色々な意味で最も大物の獲物となる自分が、他の生徒たちと共にいてはならないと思ったのだ。
彼らがアリーシャ一人で満足してくれるというのなら、即座にこの身を差し出すくらいの覚悟はある。だが、この学園内にいる生徒のほとんどがそれなり以上の家格の貴族だ。
「私だけで済むならまだしも、それ以外の人間に手出ししないとは限らないもの。それに、分散している守衛たちを集める必要もあったし。いくら精鋭を揃えているとは言っても、護らなきゃいけない人数が多すぎるもの。ここで少人数で対抗するのは愚策だわ」
だからアリーシャは、何らかの方法で遠ざけられているだろう彼らの行方を探していたのだ。
侵入者たちは、本当に突然学園の内部に現れた。だが、そうかといって敷地を囲んで配置されている警護の者たちを全て排除したというのも考えにくい。
貴族ばかりがいるこの学園は、見ようによっては極上の狩り場だ。勿論、中の貴種を護るために、護衛には相当の手練が揃えられている。
(そんな人たちの隙を狙って、簡単に入り込めるとも思えないけどね)
ちらりと脳裏をよぎった可能性を、アリーシャは横へと押し遣った。今考えることはそれではない。
密かに頭を巡らせるアリーシャに、エリオットがいつもよりもやや低い声で言う。
「姫様には色々と申し上げたいことはありますが……。それなら、守衛たちは無事だということでよろしいですか?」
「ええ、詳しい話をしている時間はなかったけど、外門と内門の間に閉じ込められたり、見張り台から降りられなくされたりしていただけだっただから、怪我をした様子もなかったわ」
自分一人で扉の閂を外したり、何故か上げられていた跳ね橋を下ろすのは、かなりの手間ではあったが。
そうして、無事敷地内に彼らを呼び戻したアリーシャは、現在の状況を伝えてきたのである。
(どうか護衛をお連れ下さい、って言われたけど、付いて来られても面倒だもんなあ……。万が一にも私が大立ち回りをするところを見られるわけにもいかないし)
よもや衛兵たちも、そんな理由でアリーシャに振り切られるとは思ってもみなかっただろうが。
だが、できれば彼らには、自分ではなく他の生徒たちを護って欲しかったのだ。
「貴女が何を思ってそうしたのかは分かりますがね、王族の一員であるご自身のお立場をどうお考えですか」
(うわ。これは、相当怒ってる)
更に低くなった丁寧語に、内心で退きそうになりながらも、アリーシャは涼しい顔を保った。
「援軍も見込めないのに、籠城してもしかたがないでしょうが。非戦闘員は固めておくのが定則だけど、それはある程度護りを確保できるという前提があってだもの。……最悪なのは、私が生徒たちと避難した挙句、全員まとめて身柄を捕らえられることでしょ」
そういったあれこれを考えた結果、囮となる意味も込めてアリーシャは一人飛び出して来たのだ。
とはいえ、アリーシャだって何の勝算もないままに動いたわけではない。
「それに、貴方という頼りになる保険がなかったら、私だってこんな無茶はしないわよ」
ついでにつけ加えるならば、アリーシャより先に出て行ったのは他でもないエリオットである。
無論、現状把握を優先とした彼の判断も別に間違ってはいないので、それはそれでいいのだが。……それより。
アリーシャは密かに息を吐き出し、今まであえて意識から逸らしていた存在に改めて目を向けた。
――そう、アリーシャとエリオットのいる立ち位置から、距離にしてほんの数歩ほど離れた場所にいる二人の少年たちに、である。
ほんの少し前に立ち去っていくのを見送った、銀色の髪と金茶色の髪をそれぞれ見つめ、アリーシャはさてどうしたものかと頭を悩ませた。
「聞くまでもないことだろうけど、あちこちに倒れている方々はエリーの仕業ということでいいのよね?」
答えなど分かりきっていたが、そう言ったのはひとまず話の口火を切るためだった。
そこら辺の機微をよく理解しているエリオットが、仕方なさそうに同意を返す。
「ええ、この男たちの動きからして指揮官がいることは間違いなさそうでしたから、それを探ろうと思いまして。そうしてこちらの林に来たら、お二人が囲まれているのが見えたので」
「一応、彼らは気を失ってるだけなのよね……?」
こわごわと訊くと、エリオットは微妙な表情になった。
「命に別状はない筈です。ですが、手加減できるような余裕はなかったので、骨の数本は折れているかもしれませんね」
「……骨折くらいなら、さほどの怪我じゃないわね」
アリーシャも複雑な声音になった。その程度の負傷で済んだのなら、それは穏便と言える方だろう。
(十五、じゃなかった。十六歳の少年の技量じゃないわね。でも、そもそもエリーはあの将軍の息子だし)
まあ、そうでなければ自分もこの場に出向くような無謀な真似はしないのだけれども。
「ひとのことを言えた義理ですか? 何より、その御手にあるものはどうされたのですかね」
淡々とした口振りでエリオットが見たのは、アリーシャが黒装束の男から分捕った一振りの剣だった。当然ながら女子生徒の制服に剣帯などはないので、鞘もない剥き出しの刀身のまま持ち歩いていたのである。
制服姿に白刃を携えているその様は、傍から見れば確かに異様だ。
「その、ちょっとね。借りさせてもらったのよ」
奪われた相手に事後承諾を聞いてもらえるとは思えないが、一応そう言っておいた。――だが。
「見たところ、あの男たちが持っているのと同じ物のようですが、どうやったかお聞きしても?」
にこりとしたエリオットの笑顔は、一見すると何の邪気もなさそうだ。しかし、その背後からは明らかに黒いものが立ち上っている。
「そんな、たいしたことじゃ……」
「――姫様?」
にこやかな恫喝に、アリーシャは素直に降参した。ここで逆らうのは愚策だ。
「侵入者の一人が植物園で襲って来たから、伸しておいたの。そのついでに拝借させてもらったんだけど……」
「――は?」
「――はい?」
それまでおとなしく静観していた二人の少年が、完全に面食らった様子で声をあげたが、エリオットはそれを余所に質問を続けた。
「帯剣もしていないのに、どうやったんですか。もしかして、素手で相手をしたんじゃないでしょうね!?」
「いや、まさか」
自分程度の腕前では、剣を持った人間と空手で渡り合うのは無謀である。
だから、武器の代用品として庭作業用のスコップを使ったことを口にすると、エリオットは何とも言い難い面持ちで沈黙した。
「……使える物は何でも使うというのは身を守るためには適切な手段だとは思いますが、そもそもそんな事態にならないように心掛けてください」
「それはそうだけど、私だってこんな突発的な状況じゃなかったらもうちょっと扱いやすい物を選んだわよ」
だからこれは、あくまで緊急事態における対応なのである。
心なしか疲労の漂う口調に、アリーシャは唇を尖らせた。
だが、その直後。遠く聞こえてきたざわめきに、アリーシャの表情が変化した。




