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第四章 王太子妃

 カンカンッ、と何かを打ち鳴らすような軽い音が響く。

 それに続いて、ヒュンッという風のうなりがした。そしてその直後。


 ――カーンッ!


 一際大きな一音とともに、木刀がくるくると空中に舞った。

 それは綺麗な弧を描き、手にしていた持ち主から数歩ほど離れた場所に落下する。


「――そこまで」


 低く静かな声が終わりを告げる。その言葉を耳にしたとたんに、アリーシャはふっと肩の力を抜いた。

 構えていた木刀を下ろし、向き合っていた少年の顔を覗き込む。


「立てる、エリー?」


 身を屈めるアリーシャに、地面に座り込んでいたエリオットは転んだ痛みに顔をしかめつつ言った。


「だ、大丈夫です……」

「そう? でも、さっきはどうしたの? いきなりバランスを崩したように見えたけど」


 そうでなければ、自分があんなに上手く彼から一本取れるとは思えないのだが。


「ちょっと足が滑りまして……」


 そう言って立ち上がったエリオットの視線の先をアリーシャは追った。整えられた石畳の上を見ると、大きな葉っぱが何枚も散らばっている。

 そしてその中の一枚は、明らかに不自然に潰れていた。


「これを踏んでしまったわけね……」


 彼の間の悪さに少し気の毒になる。だが、二人の打ち合いを見ていた審判の意見は違うようだった。

 他ならぬ二人の指導者の、ギスカール・ウィズリーである。


「おまえの状況判断がおろそかだったんだろう。姫の動きだけを見ているからだ。もっと周りをよく見て動け」


 我が子が相手にも関わらず、いやむしろ我が子だからか、ギスカールのエリオットへの指摘は手厳しかった。

 とはいえ、彼のアリーシャへの対応が甘いというわけでもない。


「姫は手数が多すぎですね。筋力の弱さや体重の軽さで剣の威力がないのでそうなるのでしょうが、これではすぐに体力を消耗してしまいます。姫より弱い相手、もしくは相手をする人数が少ない場合はどうにか対応できるでしょうが、そうでなければ体力負けするのは確実です」

「……はい」


 自覚はあったものの、ずばりと指摘されてアリーシャの眉が下がった。

 彼から剣術や護身術を習いはじめてからもう十年が経つというのに、なかなか上達しない自分が情けない。

 名高いこの将軍に、教えを請いたい騎士や武人は数多い。そんな将来有望な若者を差し置いて、こうして指導してもらっているのにまだこの程度の腕前でしかないとは。

 そう密かに落ち込みつつ、アリーシャはギスカールへと一礼した。

 本来であれば王族のアリーシャが彼に頭を下げることは許されないが、今は公ではなく私的の場だ。弟子が師に礼を執るのは当然のことである。


「ご指導頂き、ありがとうございました」


 だが、この時間が終われば話は別だ。

 動きやすい男物の上下の服はそのままだが、アリーシャは意識して己の佇まいを淑女のそれへと変えた。

 これ以上、時間を割いてもらうわけにはいかないだろう。この少し後に、彼は国王との謁見が待っている筈だ。


「将軍はこれから水晶の間に向かわれるのですか」


 それなら、途中にある控えの間を使ってもらおうとアリーシャが考えていると、ギスカールは小さく首を横に振った。


「いえ、執務室に呼ばれておりますので、そちらに」

「そうなの? ならエリーは?」

「その間、僕は伯爵家に用意された部屋で待っていることになっています」

「え? でも、エリーにも誰かと会う用事が入っていたのではなかった?」

「そうなのですが、その相手が来れなくなりまして。王都入りが遅れているそうで、日を改めることになったんです」


 その説明にアリーシャが納得していると、ふと気になる響きが聞こえた。

 小さな靴音。軽いそれは、おそらくは女性か子供のものだろう。

 アリーシャはエリオットとギスカールと無言で目を見交わし、その音の主を待った。


「アリーシャ様」


 柱の向こうから現れたのは、薄墨のような淡い黒髪の女性だった。レイチェルという名前の、アリーシャ付きの侍女の一人だ。

 彼女はアリーシャの姿を見つけると、水色の瞳に安堵を覗かせて近づいて来た。


「こちらにおられたのですね。どうかお急ぎでご準備をなさって下さい」


 ギスカールに素早く黙礼はしつつも、レイチェルの声音には焦りの色が滲んでいた。


「急ぎって、何を?」

「妃殿下がお呼びなのです」

「……はい?」


 レイチェルの口から出てきた用件があまりにも想定外だったので、アリーシャはぽかんとした。

 いつもつけている姫君の仮面がうっかり外れるくらいには、思いがけない相手である。

 だが、そんな驚愕など知ったことではないとばかりに、アリーシャはそれこそ連れ去られるような勢いで自室へと引っ張られて行ったのだった。




 そうして、衣装部屋に隣接する部屋へと押し込まれたアリーシャは、すぐさまメイドと侍女に取り囲まれた。そして彼女たちに凄まじい速度で着ていた衣服を剥ぎ取られ、略式のドレスへと着替えさせられる。

 そのあまりの目まぐるしさに、正直口を開く間もない。というよりも、ここで下手な口をきこうものなら間違いなく怒られるだろう。

 大人しく着せ替え人形に務めていたアリーシャは、一通りの作業が済んだところでようやく疑問の声を出した。


「確認しておきたいのだけど、私を呼んでいるのは王太子妃殿下なのよね?」


 レイチェルが間違えるとは思わなかったが、それでも信じがたい事実に念を押すと、侍女の一人が深々と頷いた。


「はい、妃殿下の仰せです。東の温室においで頂くようにと、侍女の方から伝達を受けております」

「その侍女は……」

「ラナ様でした。ですから、尚のことお急ぎで向かわれた方がよいかと思われます」


 出てきた名前は、母の腹心とも言うべき侍女のそれだ。これは、なかなかに気を引き締めていかないといけない話かもしれない。


「分かったわ、今からすぐに行きます」


 支度をありがとう、と最後につけ加えてアリーシャはドレスの裾を捌いて歩き出した。

 かつんかつん、と足下で鳴るヒールの音を煩わしく感じながら、静まり返った通路を一人で進む。

 侍女の付添は断ったので、ここにいるのは自分だけだ。だから心おきなく、アリーシャは胸の中で文句を呟いた。


(もー、踵の高い靴なんて嫌いなのに。正式な場ならともかく、母親に会いに行くのになんでこんな改まった格好をしなきゃいけないんだか……)


 ここが王宮の内部で、自分が隙を見せてはならない立場なのは承知しているが、それでも十五歳という年齢の小娘がここまできっちりした装いをする必要はないだろうに。

 というか、この程度の訪問で高いドレスを着させるんじゃない、服飾費が勿体無い――、などなどの愚痴を心の中で零していると、硝子の壁で囲まれた温室の姿が見えて来た。

 入口のところに立っていた二人の衛兵が、アリーシャへと体を向ける。その顔を交互に見遣りアリーシャは尋ねた。


「妃殿下のお招きでこちらに参りました。このまま中に入ってもいいかしら?」

「仰せつかっております。どうぞ、こちらに。……妃殿下は薔薇園におられます」

「分かりました、ありがとう」


 衛兵によって再び扉が閉ざされる気配を後ろに感じながら、アリーシャは奥へと向かった。

 中に足を踏み入れると同時に押し寄せて来た緑と花の濃密な香りに、少しだけ胸が苦しくなる。


(ええっと、こっちだったかな?)


 元々この温室は、父が母のために造らせたものなので、アリーシャが中に入ったのは数える程だ。

 それでもかすかな記憶をどうにか引っ張り出し、選んだ方向は間違いではなかったらしい。

 進むうちにちらほらと目に入るようになってきた薔薇は、そのどれもが育成にも管理にも膨大な手間と時間がかかる品種ばかりだった。


「…………………………………」


 アリーシャは無言でそれを見る。


(前に目にしたときよりもずっと、種類が増えてるかな?)


 更に進むと、ひときわ多くの薔薇が花開く一角に、小さなテーブルと二つの椅子があった。椅子の片方は空席で、もう一方の席には青色のドレスの女性が腰掛けている。

 そのほっそりとした背中に向けて、アリーシャは声を掛けた。


「お呼びと伺い、参りました」


 アリーシャの言葉に女性は振り返った。シンプルだが品良くまとめられた栗色の髪がかすかに揺れる。


「こちらにおいでなさい」

「はい」


 促されてその向かいに腰を下ろすと、王太子妃は微笑した。


「呼ばれたのがここで驚いたかしら? 落ち着いて話をするにはこちらの方がいいと思ったのだけれど」

「こちらにはあまりお邪魔したことがないものですから、ちょっと迷ってしまいました。お待たせしてしまい申し訳ございません」


 支度に手間取ったこともあり、来るのが遅れたのは事実なのでそこは素直に謝罪しておく。だが同時に、この唐突な呼び出しは何なのだろうともアリーシャは思っていた。


「いいのよ、いきなり呼び出したのは私なのだもの」


 王太子妃が言葉を切ったそのタイミングで、横にいた王太子妃付きの侍女が茶器にお茶を注ぐ。白い湯気とともに、ふわりと紅茶の芳香が立ち上がった。


「オイヴァのコーレ産の茶が届いたの。あなたと楽しみたいと思って」

「名産で知られるコーレ地方ですか? 確かに、とても良い香りがしますね」


 実際に一口味わった紅茶は、味も香りも申し分のないものだった。高級品だというのも頷ける。

 それから続いたのは、茶菓子や温室内の花のことなどあたりさわりのない話題だ。アリーシャはそれらににこやかに応じつつ、本題を待った。

 余計な物音を一切立てることなく、一通りの給仕を終えた侍女がテーブルから離れていく。

 目立たぬように隅に控えるその姿を確かめてから、アリーシャは訊いた。


「それで、お母様はどういった要件で私をお呼びになられたのでしょうか」


 その問いかけに、王太子妃は顔を曇らせた。青色の瞳が沈んでいる。


「その話をする前に、貴女に確認しておきたいことがあるの。もう少しで貴女もルヴァス学園に通うことになるのだけれど……」


 どう言うべきか迷っているのか、視線を彷徨わせている母親をアリーシャは黙って待った。


「その、貴女はほとんど王宮から出たことがないでしょう。だから聞く機会もなかったのだけれど、よく考えたら貴女の周りには同年代の人間なんてほとんどいないわよね」

「え、ええ……」


 実はエリオットという例外はあるのだが、両親はそもそもアリーシャが武術を嗜んでいること自体知らないので、こういった認識となるのは無理もない。

 しかし、仮にそうだとしたら何が問題なのだろうか。

 今更になって交友関係を気に掛けられることにアリーシャが胸中で首を傾げていると、出て来たのはとんでもない爆弾発言だった。


「貴女も知っているでしょうけれど、学園はこの国の貴族の子供たちが義務として通うところよ。……つまり、そこには貴女と同じ年頃の女子や、……男子、がいるわけで」


 歯切れの悪い話し方に、アリーシャは何となく言わんとするところを察した。

 しかし、この母親相手に直接それを口に出すのも良い手ではないだろう。


「ええ、年の近い方と親しく話せる機会なんて今までありませんでしたから、とても楽しみにしています。でも、お母様には何か気掛かりなことでもあるのですか?」


 無邪気さを装って言うアリーシャに、王太子妃は一度唇を閉ざした。そして、何か覚悟を決めた顔で話を始めた。




 ――はあああああっ。


 自室に戻り、寝室に一人閉じこもったアリーシャの唇から深い深い溜息が転がり落ちた。

 心底から疲れ果て、アリーシャはよろめく足取りで寝台へと近付いた。そのまま上掛けに突っ伏す。

 柔らかな感触に全身を受け止められ、これではドレスが皺になると思ったが、体を起こす気力もない。


「今更すぎるでしょうが……」


 口の中で囁いた声は、アリーシャ自身の耳で聞いてもげんなりとしたものだった。


(というか、この期に及んでどうしろっていうのよ?)


 先だって王太子妃と交わした会話が脳裏に甦り、アリーシャは頭を押さえた。

 母の話はあれこれ前振りが長かったが、主題は何のことはない。


(学園にいる間に結婚相手を探せ? 無理に決まってるでしょうが)


 そもそも王族に相応しい家格の貴族など、とうの昔に売約済みなのである。そしてその原因は、元を辿れば他でもない現王太子夫妻なのだ。


(まともな貴族ほど、今の王家とは関わりを持ちたくないって思ってるんだもの。うっかり婚約者候補に入れられる前に、目ぼしいところはすでに他の家との婚約を整えているわよ。私が生まれたときはまだ下火だったみたいだけど、アロイスが誕生した際には凄かったじゃない。それこそ、生まれてすぐの赤ん坊であっても書類上の手続きまで済ませてたくらいなのに)


 一体どうして、そこまでの予防線を張られるほどに、自分たちが貴族に敬遠されているという事実に気が付かないのか。

 当時の第一王子が婚約破棄という不行状を起こし、そしてそれが咎められなかったことで、王家の威信は地に落ちているというのに。


(国王命令での婚約よ? 取りやめるにしても諸々の手順を踏んでしかるべきなのに、それを王子の独断で破棄! しかも王家の面子を潰すことなんてできないからって、正式な侯爵家への謝罪もなし。おまけに何も知らない市民から賛同を得るために美談に仕立てた噂をばらまいてって……。そんなことをしでかした王家と縁続きになろうなんて、真っ当な貴族なら思わないってば)


 本当に、頭が痛いにも程がある。

 そして何よりアリーシャにとってどうしようもないのが、そんな自衛に出た彼らの気持ちが分かってしまうということだった。

 仮の話だが、もしも自分がある程度の家格の貴族であるとするならば、可能な限り今の王家とは関わるまいとするだろう。その確信がある。

 良識のある親であれば当然我が子が巻き込まれまいと手を打つだろうし、そうでなくとも目の利く人間なら、いつ何が原因で婚約を破棄するか分からない家と縁組をしても利点はないと判断する筈だ。


(私やアロイスを相手に婚約したとしても、結婚まで無事にこぎつけられるかどうか分からないと警戒されてるのよね……。しかも自分たちの側に落ち度がなかったとしても、王家に罪をなすりつけられるという前例が実際にあるわけだし)


 考えれば考える程、詰んでいる。

 アリーシャはぐしゃぐしゃと己の髪をかきまわした。

 まともな貴族はとっくに先約しているし、そうでない相手を選ぶのは、アリーシャ自身にも王家にも、勿論国にも不利益となる可能性が大きい。

 とはいえ国外に目を向けようにも国際情勢は相変わらず不穏なわけで、他国も自分たちのような危険要素のある人間と好んで縁を結ぼうとはしないだろう。

 まあ、こうなるだろうことは、十年前にはすでに分かりきっていたのだが。


(私自身のことはさておいて、アロイスはなんとかしてあげたいと思ったから色々調べてみたけど、貴族の、それも高位の方々ほどがっちり縁組を整えてるんだもんなあ)


 さて、どうするべきか。

 アリーシャはごろりと寝返りを打ち、自室の天井を見上げた。

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