第五章 ルヴァス学園
がたがた、がたがたと車輪の振動が体へと響いて来る。
とはいえ、アリーシャが乗っているこれは王族が使用する特注品なので、伝わってくる揺れは他の物とは比べ物にもならないくらいなのだが。
座席の布地一つ、扉の取っ手の彫刻一つとっても微に入り細を穿って作り上げられた極上の設えの馬車の中で、アリーシャは目を伏せたまま唇の端を吊り上げた。
傍からは微笑んでいるように見えるかもしれないが、別に楽しいわけでも嬉しいわけでもない。これはただ単に、もう笑うしかないといった心境ゆえだ。
(あー、もう、行きたくない……)
アリーシャは心の中だけでそんな本音を吐露した。当然ながら口には一切出さない。ここに居るのはアリーシャ一人だけであるが、自室を一歩出たが最後、いつどこに誰の人目があるのか分からないのだ。
穏便に生き延びたいと思うのなら、どんなときにも気を抜くべきではない。この十五年の人生でアリーシャが身に付けた処世術の一つである。
(なのに、こんなに行きたくないのにどうして行かないといけないんだか。王宮で被ってる猫だけでもいっぱいいっぱいなのに、更に飼う猫の数を増やさないといけないじゃない)
それだけでも投げ出したいくらいだというのに、だ。
(何だってこう、無意味に人目を引く真似をしなきゃいけなかったんだかなあ……)
アリーシャの肩が力なく落ちた。
この馬車が向かう先は、この国の貴族の大半の子息子女が通うルヴァス学園だ。
つまり今日は、アリーシャにとって記念すべき初登校の日、ということになる。
だが、アリーシャにはそうであっても、他の生徒たちにとってはそうではない。なんせ、本日の時点ですでに入学式から一週間が経過しているのだから。
アリーシャだってそんな目立つ形で初日を迎えたくはなかった。しかしどうしても外せない用があり、この日からの登校にならざるをえなかったのだ。
(悪目立ちにも程があるわよ、約二十年ぶりに王家の娘が学園に入学するってだけでも注目されてるのに)
曲がりなりにも王族という立場上、できれば平凡に過ごしたいという願いが分不相応なものであるのは百も承知だ。それでも、出来る限り波風立てずにアリーシャはこの三年間を乗り切りたいのである。
なのに、初っ端からこれである。ひきつり笑いを浮かべる以外に、どうしろというのか。
このまま延々と道が続けばいい。現実逃避と自覚しつつも、アリーシャはそんな不可能なことを望まずにはいられなかった。
……とはいえ、進み続けていればいずれ目的地に到着するのは自明の理である。
ルヴァス学園の敷地前に着いたことを御者に伝えられたアリーシャは、仕方なしに馬車を下りた。
――そして、正門に近づくや否や、すぐさま回れ右をしたくなった。
(痛い痛い痛い痛いっ!)
刺さる、視線が刺さる。
いや、そんなの比喩だろうなどとは言わないでほしい。物理的に突き刺さって来るのとほぼ同等のナニかが、四方八方からアリーシャに飛んで来ているのだ。
それなのに、囁き一つ聞こえてこない。水を打ったような静けさとは、まさにこのことを指すのだろう。
「………………………………」
アリーシャは平静を装いつつ、無言で周りを見回した。
けれどもアリーシャと目線が合いそうになったとたんに、辺りの生徒たちの瞳が一律に逸らされていく。だったらいっそこちらを見なければいいと思うのだが。
アリーシャは零れそうになった溜息をどうにかこらえた。
自分が姿を現わせば、それなりに注目されるだろうという覚悟はしていた。だが、これは想像以上だ。
彼らの目線から感じられる、好奇心と警戒心。
(私はどこの珍獣か猛獣なのよっ!)
しかしそんな内心の叫びはさておき、このままアリーシャがここにいても迷惑なだけだろう。
学園内の建物の配置と校内の図面は事前に暗記済みなので、ひとまず校舎に行こうとアリーシャが歩き出したそのときだった。
「おはようございます」
凛と透き通った声が、その場に響いた。
その真っ直ぐな声音に、アリーシャも振り返る。
そこには一人の女子生徒が立っていた。紺色の制服も、胸元の緑のリボンも、アリーシャが今身に付けているのと同じ物だ。それは、彼女もアリーシャ同様にこのルヴァス学園の一年生なのだということを示唆している。
艶やかな赤い髪に灰色がかった緑の瞳をした、とても綺麗な少女だ。
彼女は淡いピンクの唇に微笑を浮かべ、優雅な所作でアリーシャに一礼する。
「許可を得ることなく声を掛けた無礼をお許しください。わたくしはジーナ・ソーウィンと申します。生徒会よりアリーシャ様のご案内を仰せつかって参りました」
その言葉に、アリーシャは少しだけ驚いた。けれども面には出さず、礼を執る。
「それはご丁寧にありがとうございます。ですが、ジーナ様。公の場ではともかく、この学園では私も一生徒に過ぎません。ですから、私に話す際に、許可を求める必要はありません。ジーナ様以外のどなたであってもそれは同じです」
アリーシャは微笑みながらジーナを見つめた。当然、自分たちの会話に耳をそばだてている周囲を意識しつつだ。
現状ではジーナの思惑は分からない。だが、こうした発言の場を与えてくれただけでも、アリーシャは彼女に感謝したいくらいだった。
(だって、さっきのあれって、まさしく檻の外を出歩いてる猛獣を見る目だったし)
こちらに全くその気はなくとも、この学園の生徒たちがアリーシャを危険人物と認識していることはまず間違いない。
だから、この場にいる誰であれ、自分の方から声を掛ければ迷惑をかけることになっただろう。それを防いでくれただけでも、アリーシャは非常に有難かった。
「それでは、ジーナ様には幾つか教えていただいてよろしいでしょうか?」
幸い早めの登校にしたので、まだ時間の猶予はある。
取り敢えずは確認すべき事を終えておこうと、アリーシャは頭を切り替えた。
――そうして、アリーシャの記念すべき学園の初日はどうにか恙無く終了できたのだった。
はらり、と目の端をよぎった赤色に、アリーシャは書類をまとめていた手を止めて窓の外を見た。
風が出て来たのか、中庭の広葉樹が落ち葉をいっせいに散らしている。赤や黄、薄茶の葉が舞い踊る様子は、何とも目に鮮やかな光景だった。
アリーシャがルヴァス学園に入学してから半年が過ぎ、季節は秋を迎えていた。
事前にあれこれと想像していたアリーシャの学園生活は、ある意味で予想通りであり、ある意味でそうではなかった。
(うーん……)
アリーシャは心の中で唸りながら、この半年間のことを思い返した。
率直なところ、アリーシャが思っていたよりも平穏無事な毎日を過ごせてはいる。しかしその一方で、密かに考えていたアリーシャの目論見は、全くもって上手くはいっていなかった。
(露骨に遠巻きにされているわけでも敬遠されてるわけでもないけど、やっぱり微妙に距離を置かれてるのよね……)
周囲のその反応は、分からないでもない。というかアリーシャだって、自分のようなややこしい立場の人間が近くにいれば、当たらず障らずの対応を取ることだろう。
ただそれでは、アリーシャがこの学園に来た意味が、ほぼなくなってしまう。
(これまでずっと王宮に隔離されてたようなものだから、ほんとに私、伝手というか人脈に乏しいのよね。だからせめて、学生である間に面識くらいは得ておきたかったんだけど)
同級生とちょっとした会話を交わす程度のことはあるにせよ、しかし彼らが内心では、あまり自分に近付かないようにしているというのも伝わってきてはいるのだ。
(多分、ぎりぎりで嫌われてまではないとはいえ、学園内に一人も友人らしき人間がいないのは切ない……)
勿論、王族の威光を振りかざせば、取り巻きの数人くらい傍につけるのは簡単である。
だが、アリーシャが必要としているのはそんなものではない。手にしたいのは、同年代の少年少女との真っ当な交流関係だった。
(できれば、友人とまでは言わないから、せめて普通に会話をして欲しい……!)
なにしろアリーシャがちょっと話しかけただけで、同学年はおろか上の学年の生徒でも、びくりと肩を揺らして顔を強張らせるのである。
さっきだって、アリーシャに一声掛けられた少年は、それだけで可哀想なくらいに全身を固まらせていた。
アリーシャはただ、室内の空気を入れ換えるために窓へと近付こうとしただけだったのだが。
(やっぱり私、いつ爆発するのか分からない危険物と見られてる?)
この半年間、アリーシャは一生徒として模範的な言動を心掛けていたつもりだ。なのに、ここまで脅えられるとなると、なかなかに凹むものがある。
――触るな、危険!
そんな見えない紙でも自分に貼られているのだろうかと、アリーシャは溜息とともに肩を落とす。
そのとき、アリーシャの背後で、扉がきしんで開く音が聞こえた。
「明かりがついてるから来て見れば……。まだいたのか?」
覚えのある響きに、アリーシャは後ろを振り返る。思った通り、そこには赤い髪の男子生徒が立っていた。少年と呼ぶには大人びているが、青年と形容するにはまだ少し幼さが残っているような、そんな年頃だ。
でもそれは、アリーシャの中身が中身だからそう感じるのであって、大概の人間は彼をれっきとした大人として扱うだろう。
この国では、十六歳からが成人だ。だから、十八歳の彼がそう遇されることは何らおかしなことではない。
(いや、この人の場合は、年齢だけじゃなくて中身もちゃんとしてるとは思うけどね?)
こうして自分を生徒会に囲い込んだ判断からしても、それは確かにそうだと思うのだが。
アリーシャはそんな複雑な心境を押し隠しつつ、彼――当代の生徒会会長である、ジュード・ソーウィンに言った。
「別に急ぐ内容ではなかったんですけど、中途半端な状態では落ち着かなくて。でも、もう終わりましたから。ここ数年の集計の見直しです。後で皆さんの確認をお願いします」
机の上に置いてあった紙の束をジュードの席に移し、アリーシャは鞄を手にして立ち上がる。
「では会長、私もこれで帰ります」
「――ちょっと待て」
呼び止められ、アリーシャは小さく瞬いた。
「なんでしょうか?」
「せっかくだから訊いておきたいことがあるんだが、いいか?」
「何を、ですか?」
アリーシャが素直にその続きを待っていると、ジュードは一つ息を吐いてから話し始めた。
「どうしてあんたは、生徒会に入ったんだ?」
その率直な問いかけと、あんたという呼びかけに思わずアリーシャの目が丸くなった。
「……それは、ジーナ様に誘われたからです。会長だってご存じでしょう?」
ジーナの兄である貴方がそれを知らない筈はないだろう。そういう意図をこめて、アリーシャは小首を傾げてみせた。
というよりも、そもそもその打診自体、彼が仕向けさせたことだということはアリーシャも承知の上だ。
王族の娘を野放しにして、学園内の風紀が乱れれば当然生徒会もその謗りを受けることになる。だったらいっそ、取り込んで監視した方が合理的だ。
(そういう意味では、白羽の矢が立ったジーナは災難よね)
アリーシャは心中でこっそりとそんな感想を呟いた。
学園に登校した初日、彼女が先陣を切ってアリーシャに話しかけて来たのも、おそらくジュードに言われてのことだった筈だ。
ジーナは家格や兄が現生徒会長であること、そして勿論本人の能力なども含め色々な点を考慮した結果、アリーシャのお目付役を言い渡されている。
それにしても、こんな厄介な立ち位置の人間の監視など、やらされる方はたまったものではないだろうとアリーシャは他人事のように思った。
無論それを指示したのは彼女らの父親であるソーウィン侯爵であろうから、アリーシャに出来る事は特にないのだが。
それに、アリーシャとしては何を見聞きされたとしても別に困るものでもない。そういうことで、アリーシャはジーナとはあくまで普通に同級生としての関係を保っているわけなのだけれども。
「誘われたからって、あんたはほいほいと頷くような考えなしじゃないだろ。その結果生じる利点も不利益も、全部分かった上で決めた筈だ」
ジーナと同じく、光の加減では緑色が強く出る瞳が、今は完全に灰色に染まって見えた。
アリーシャはその鋭い眼差しを静かに見返し、口を開いた。
「そんなことは、当たり前でしょう。ですが、それに何の問題があるのですか。これは貴方だって望んでいたことなのでは?」
自身の立場は嫌になるほど分かっている。そしてこんな面倒な自分に、何の思惑も下心もない人間が近付いて来るわけがないのだ。
ジーナも、今目の前にいる彼も、学園で話しかけて来る生徒たちも。
(これで私の中身が実年齢相応だったらさぞかし捻くれた性格になっただろうけどね)
けれども生憎なことに、アリーシャの精神的年齢は彼らよりも遥かに上だった。正直なところ、この程度の駆け引きや損得を不快に感じるような純粋さや潔癖さは、すでに縁遠いものになってしまっている。
だとしたら、アリーシャの判断基準は、彼らの思惑や下心が己の意向に沿うか沿わないかだ。
だからこそ、アリーシャは生徒会に所属することを選択した。
自分自身を守るのは勿論にせよ、それ以上に、自分の存在が他の生徒に害を及ぼすことがないように。
たとえアリーシャにそのつもりはなくとも、王族という身分は周りへの影響が大き過ぎる。
その結果として、少しでもアリーシャが関わってしまった人間が、己の全く知らない、手の届かないところで受けなくてもよい災難を受けるようなことがあるかもしれないのだ。
(そんなの、考えるだけでも怖いもの)
ただ、それを言ってしまえば、なら生徒会に所属する生徒たちはどうなるのかということになるのだが、役員である彼らは全員が高位の貴族の出身だ。そこら辺の匙加減は心得ているだろうと信用――本音を言えば放置――することにした。そして実際に、その立ち回りを見ても問題があるようには思えない。
「だから、分かんないんだよな」
整った顔を顰めるジュードに、アリーシャは本気で首を傾げた。
「頻繁に顔を合わせてる相手が裏であれこれ考えてるって理解してて、どうしてそんなにあっさりと流せるんだ?」
どうやら彼は、それらを踏まえて周囲に相対するアリーシャの態度に納得がいかないらしい。
(そんなことを言われても……)
アリーシャはどう答えればいいのか、見当がつかなかった。
重い沈黙に満ちた生徒会室に、かちこちと時計の秒針だけが響く。
その静寂を破ったのは、近付いて来る新たな靴音だった。
こつこつと規則正しいその音は、真っ直ぐにこの部屋を目指している。それに気づいたのは、アリーシャもジュードもほぼ同時だった。
二人の視線の先で、かちゃりとノブが回る。
扉の向こうから現れたのは、銀色の髪をした少年だった。
生徒会の役員の一人である、カーライル・トリスレードだ。
同じ一年生の彼だが、アリーシャと違うのは彼が純粋にその能力を買われて生徒会に入会しているという点である。
まあ、彼はそれ以外にも諸々と特筆すべき事柄のある人物ではあるのだが。――とりわけ、アリーシャとの因縁についてというのが最たるものなのだけれども。
「こんなに遅くまで残っておられたのですか?」
カーライルは二人の姿を認めたとたんに、藍色の瞳を鋭くしてそう言った。
その声はまだ声変わりを迎えてもいない澄んだものだというのに、漂う重々しさは何なのだろう。
「お二人が急いで対応しなければいけないような用件でも?」
「いや、俺も部屋の明かりが見えたから立ち寄っただけだ。そうしたらこいつが一人で仕事をしてたんで、ちょっと話してた」
軽い口調で説明するジュードに、アリーシャも口を添えた。
「私が帰ろうとしていたところに、たまたま会長が来られたんです。でも、気付けばもうこんな時間でしたね。私は先に失礼します」
早口で言い切り、有無を言わせずに言葉を打ち切る。
一方的に話を切り上げるのは無礼だが、このまま自分がここにいてもカーライルの疑惑を増すだけだ。だったらとっとと立ち去った方が賢明だろう。
「それでは、そろそろ家の者が心配しますので」
ジュードの困惑した眼差しと、カーライルの猜疑の視線を背中に感じながら、アリーシャは外へと出た。




