第三章 風花
ざわざわ、ざわざわと行き交う人々のざわめきが遠くから聞こえてくる。
微かな光に照らし出された回廊を、アリーシャは一人で歩いていた。
周囲に人の気配はない。なんせアリーシャが歩いているここは、王宮内の公的部分の四階、しかも外回廊なのだ。こんな気温の低い日に人がうろつくような場所ではない。
静かに進むアリーシャの足元に、不意に光が差し込んだ。その陽光にひかれて、アリーシャは何とはなしに顔を上げる。冷たい風が頬を撫でる感覚に、アリーシャは僅かに瞳を細めた。
見上げた空は快晴とまではいかないが、冬にも関わらず雲の少ない晴天だった。
その淡い青の空から、はらはらと白い花びらが舞い落ちている。
「――風花ね」
凍てつくような寒さの中でアリーシャがそう囁くと、白く染まった吐息で目の前がわずかに曇った。一応ここは建物の中の筈なのだが、ほとんど人の通らない通路ということもあってか完全に空気は冷え切っている。
アリーシャは抱えていた小さな花束を見下ろし、こっそりと零した。
「これだと、完全に雪に同化しちゃいそうね」
でも、この花以外のものはアリーシャには思いつかなかった。
アリーシャは一度その場で足を止め、黒のリボンで束ねられた花束を抱え直した。もうそろそろだと思うのだが、待ち合わせの相手は何事もなく来れただろうか。
そんなことを考えながら階段を下りていると、階下に見慣れた茶色の髪が見えた。
「エリー」
アリーシャは静かに呼びかけた。その声に、少年の細い背中が振り向く。
こちらを見上げる幼い顔立ちは、いつもと何も変わらない。それなのに、そこに浮かぶ表情は今まで目にしたことのないものだった。
穏やかでありながら、その奥には深い痛みと悲しみが覗いている。
「姫様」
それでも、アリーシャに向けられるエリオットの声音は柔らかだった。
アリーシャは最後の一段を下り、彼へと歩み寄って言った。
「お母様のことを聞きました。……お悔やみ申し上げます」
これが同い年の相手に述べるに相応しい言葉なのかは今一つ分からなかったが、アリーシャには他にどう言えばいいのか分からなかった。
彼の母親のことは五年前から知っているが、アリーシャが直接彼女と顔を合わせたことは一度もないのだ。あくまでエリオットや彼の父親からのまた聞きで耳にしているくらいである。だとしても、その女性がエリオットとその父であるギスカールの二人にとって、どれほど大切な家族なのだったかくらいは承知しているつもりだった。
腕の中の白い花びらに目を落とし、アリーシャは小さく言った。
「ウィズリー伯爵夫人がお亡くなりになられたのは先週のことだったと耳にしたのだけれど……、こんなに早く王都に来て良かったの?」
「ご配慮頂きありがとうございます。母の葬儀は終わりましたし、その他の細々としたことは館の者たちが対応してくれています。彼らに任せておけば大丈夫だと、父も。それに、今回父が登城したのは主に報告のためだけですので、それが済めばすぐに領地に向かいます」
そう微笑するエリオットの顔は、前に目にしたときよりもずっと大人びて見えた。
ずきり、と胸に刺さる痛みに気が付かれないようにアリーシャは目を伏せた。
子どもが痛いのは、そしてそれを隠して笑うのを見るのは、苦しい。
ただの他人に過ぎない自分が、そう考えるのはきっと傲慢なことなのだろう。それでも、アリーシャの肉体における年齢は十歳だが、精神の方はその倍以上なのだ。だからどうしても、彼の笑顔が痛ましいと思ってしまう。
「……そう。なら、将軍にはお体を大切になさって下さいとお伝えしてもらえる? あと――」
アリーシャは手にしていた花束をエリオットに差し出した。冷たい風に花びらが揺れて、ほのかな香りが立ち昇る。
「これを、貴方のお母様にお渡ししてもらえるかしら」
「姫様……」
「花壇に残っていたのを全部持ってきたのだけれど、時期外れだからこれだけしかなかったの。小さな花束だけれど、お墓に供えて欲しいと思って」
王城ですら出ることのないアリーシャが、遠いラポリスにあるエリオットの母親の墓前に参ることはできない。だからせめて、この花を贈ることくらいはしたかった。
「……ありがとう、ございます。レスターは母が一番好きな花ですから、きっと喜びます。本当は、僕もこの花を供えたかったんですけど、やはり手に入れることは難しくて。ですから、これを頂けても嬉しいです」
エリオットは、父親と同じ褐色の瞳をふわりと笑ませた。
「なのに、申し訳ございません」
「え?」
「王との謁見が終わり次第、父はラポリスに戻りますので、しばらく姫様の講義を中断することになります。こんなにお気づかい頂きながら、ご迷惑をおかけすることになります」
「……何? 将軍はそんなことを気にしてたの?」
アリーシャは思わず顔をしかめた。
「こんなときに私のことなんて気に掛けなくていいのよ。そもそも将軍の私への指導は義務でも何でもないんだから。確かに、五年前のレスターのお礼として、鍛錬する方法を教えて欲しいとお願いはしたけれど、あくまで時間があるときにという話だったのだし」
むしろ、当時五歳の小娘のそんな頼みごとを真面目に聞いてくれただけでもとんでもないことである。
あれは確か、アリーシャが花壇の花を渡してから一月ほどが経過した頃のことだった。
雪の積もった裏庭にいたアリーシャに、ギスカールが声をかけてきたのだ。そして律儀な将軍は、深々と頭を下げてアリーシャに感謝を述べた後で、貰った花の礼をしたいと言って来た。
アリーシャは別にそんなつもりで花を渡したわけではないのだが、でも、正直その申し出は渡りに船だった。
自分のややこしい立ち位置を思えば、今後のためにもある程度の護身の術は身につけておきたいとアリーシャはずっと考えていた。
とはいえ、語学や教養は祖父につけてもらった教師たちから学べるが、曲がりなりにも王家の娘に護身術の類を教えてくれるような人間は普通いない。
だが、幸いにも自分はまだ幼い。それなら名高い将軍に憧れて教えを請いたいと言い出しても、そこまで奇異な目を向けられることはないのではないかと計算したのだ。
ちなみに、彼が優秀な武人であり、人品卑しからぬ人であることを祖父から聞いていたという理由も大きい。
そうしてあれこれ検討した結果、彼相手にならアリーシャが教授を希っても、さほど問題は生じない筈だと踏んだのである。
(とはいっても、そこまで本格的に己を鍛えたいとまでは思ってなかったんだけどね……)
当時の記憶が甦り、アリーシャは少し遠い目になる。
けれども、それは別にアリーシャにやる気がなかったからというわけではないのだ。
しつこいが、これでもアリーシャは王族なのだ。そんな自分が危険な技術を学んでいることが知られれば、教えてくれた人間の方が責められることは目に見えている。
だから、アリーシャはあくまで鍛錬の方法だけを聞かせてもらい、後は自身でできることをするつもりだったのだ。
しかし、将軍はどこまでも真面目だった。あくまで大真面目にアリーシャの指導を引き受け、しかもそのことに祖父である現国王の了承を得てくれたのである。
それはとてつもなく有難く嬉しいことではあったのだが――、同時にあの祖父は一体何を考えているのだろうかとも少し思った。藪をつついて蛇を出したくもないので、ひとまずその疑問は横に置いているが。
まあ、そんな経緯でアリーシャがウィズリー将軍に師事していることを、その息子であるエリオットも知っているのだった。だからこそのさっきの台詞なのだろうが、こんな事態に迷惑だなどあるわけがない。
「本当に、私のことは気にしないで。エリーも将軍も、自分たちのことを優先して」
アリーシャが重ねて言うと、エリオットはそっと目を伏せた。
「――はい」
静かに頷く彼の肩の線が、わずかに柔らかくなる。
それを見届けて、アリーシャは視線を横に向けた。
随分と空が薄暗くなっている。これでは更に雪の勢いが増すかもしれない。
「長く引き留めてしまってごめんなさい。ラポリスはここよりもずっと北だから戻るのは大変でしょうけど、気をつけて帰ってね」
するとエリオットは何故かくすりと笑った。
「エリー?」
「いえ、それは確かにそうなのですが……。姫様もお気をつけて下さいね? 去年みたいに雪遊びで風邪をひいたりなされないよう」
前の冬に、寝込んでいたアロイスの見舞いにしようと庭園で雪の兎を作ったときの話を持ち出され、アリーシャは、う、言葉を詰まらせた。
手渡した小さな兎を弟はとても喜んでくれたので、それは良かったのだが……。ついつい熱中してしまったせいか、その後でアリーシャまでもが熱を出してしまったのだ。
子供一人でも手がかかるのに、更に看病しなければならない人間を増やしてしまったのだから、周囲の者たちには申し開きのしようがないが。
「さすがに、二年続けて同じ真似はしないわよ……」
「そうですか? 姫様は集中すると周りが見えなくなることがありますからね。良くも悪くもと、父も言っていましたよ」
「どういう評価よ?」
アリーシャは軽く睨んで見せたが、エリオットの顔が明るくなったことに心の中で少しほっとした。




