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間章 王太子

 かたかた、かたかたと微かな物音が響き続いている。

 窓に吹き付ける強い風が、硝子を揺らす音だ。

 その小さな振動が妙に耳障りに感じられて、アレクシス・デュマ・ランセルはくっきりとした金の眉を寄せた。

 しかし本当に彼を苛立たせているのは、季節外れのこの強風ではない。

 待ちわびている報告が、未だに彼の手元に届かないという事実だった。


「シェドは、一体何をしているんだ」


 モラヴィアに向かわせた己の側近から、一度も連絡が来ないというのは明らかに異常事態である。

 優秀な彼であれば、すぐに自分の命じた通りに娘を連れて王宮に戻ると思っていたというのに……、それどころか状況報告すら寄越してこないとはどういうことなのだ。


「アリーシャにはすぐ、署名をさせなければならないというのに……」


 アナトール国の法律において、貴族の婚約の成立には基本両者の自筆による署名が必要とされるのだ。

 さすがに幼少の子供同士の場合は親が代筆するが、その段階では婚約は仮のものと見做され、ある程度の年齢となった頃に改めて追認の署名をすることによって正式なものとなるのである。

 だから、この婚約には他ならぬ娘の直筆が求められるのだが、肝心のそのアリーシャがこの場にいないのである。


「何だって父上も、こんな法律を作ったんだ」


 そうでなければ、全てアレクシスの独断で進められたというのに。

 不満を零すアレクシスは完全に己のことを棚に上げているが、そもそもこの法律は、彼の行動をきっかけに定められたものだった。

 国王に次いで法令を順守する義務を負っていた筈の第一王子が、個人的な思わくだけで王家と侯爵家の婚約を破棄したのだ。

 それも、双方の親である国王と侯爵に無断で行ったうえ、更にそのことによる賠償などの取り決めは一切なく、である。

 ゆえに、アレクシスの婚約破棄が成立した後、他家との婚約を結んでいた貴族たちはおおいにうろたえ、国王に陳情したのだ。

 ――王子の婚約ですら破棄されるようであれば、自分たちの交わしている約束事は更に簡単になかったことにされるのではないか、というのが彼らの懸念だった。

 対等な家格同士であれば互いの力関係からある程度の配慮が期待できるが、例えば条件の一致によって結ばれた高位貴族と下位貴族などの場合は、一方的に約束を反故にされることもあり得る。当然良識のある人間であればそんな真似はしないだろうが、国の頂点近くに位置する王子が実際にそれをやったという前例があれば話は別だろう。

 実際に、第一王子には何のお咎めもなかっただけに、他の貴族たちが不安に思うのは無理もないことだった。

 そういった経緯があり、婚約には当事者たちの署名とともに細かな契約内容を定めた文書の提出が法律で義務付けられることとなったのだ。

 ちなみに、この届け出を出すのは基本貴族以上の者たちが対象であり、平民はその範疇に含まれていない。そして、義務を負っているのは貴族「以上」なので、勿論王族もそのくくりに入るのだ。


(オイヴァのカルトーリア公爵家は、正式な形で婚約を交わさない限りこちらの要求は呑まないと言っている。ただでさえ急ぎの返答を求められているのに、シェドは何をぐずぐずと……)


 想定外の状況に苛立ちながら、日が落ち暗く染まった硝子窓にアレクシスが目を向けた、その直後だった。

 部屋の外にいた侍従が、扉を叩き呼びかけて来る声がした。


「アレクシス殿下、失礼致します」

「何事だ? シェドか?」


 アレクシスは待ちわびていた者の名を出したが、その期待に反し侍従が口にしたのは彼が全く想像してなかった存在だった。


「いいえ、国王陛下付きの騎士がお目通りを願っておいでです」


 そうして入室を許可した騎士から父が呼んでいると聞かされたアレクシスは、普段は訪れることのない国王の執務室へと向かうこととなった。

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