第二十一章 辺境伯
荒れ始めた天候のおかげもあってか、幸いにもアリーシャが訪れたその日にモラヴィアの城塞が襲撃されることはなかった。
小さな個室で夜を明かし、昨日と同じ部屋で同じようにクレメンティーナと向き合ったアリーシャは、耳に届いたその名前に軽く目を見張る。
「ギスカール・ウィズリー伯爵から届けられたものよ」
「え……」
思いがけない言葉に驚きつつ、渡された紙片を受け取る。
「え、でもどうやって……?」
ウィズリー将軍の領地であるラポリスがモラヴィアと隣接しているのは確かだが、当の領主はこの北の地から遠く離れた場所にいる筈だ。
そんな彼が、何故。
アリーシャの疑問を察した様子で、指先を己の唇に当ててクレメンティーナが小さく笑う。
「ちょっと時間がかかるけれど、その報せは王都から直接ではなくて、ラポリスを経由して来たの。具体的に言うと、王都からラポリスに伝書鳩を飛ばして、それから改めて別の鳩を使ったってことね」
「ああ、そういうことなんですね」
成程とアリーシャは頷いた。モラヴィアと王都間を行き来するような伝書鳩が存在していれば、祖父はわざわざアリーシャを使者に出すような真似はせずに、そちらを使用しただろう。
またその当時、ラポリスにウィズリー将軍がいれば、信用できる彼にモラヴィアへの言伝を頼むくらいはした筈だ。
国王とモラヴィアの双方の信頼を得ているなどという希少な存在を、頼らないという手はないのだから。
「一応私たちも確かめたけれど、筒の中に入っていた紙は専用の物だし、筆跡も伯と同一よ。彼の字は貴女も知っているでしょうけど」
アリーシャはクレメンティーナから了承を得て、そっとその薄い紙を開いた。
力強くも意外に流麗な手は、紛れもなく己の師のものだ。
内容は簡潔で、あっという間に目を通せるほどの記載でしかなかったのだが、アリーシャは二度、三度と文面を読み返す。
記されている言葉はこの国の公用語だから、当然読むのに何の支障もない。だが、どういうわけかその中身がなかなか頭に入ってこなかった。
アリーシャの脳裏で、ぐるぐるぐるぐると文字が回る。
それでも、どうにかこうにか内容を噛み砕き、飲み下したところでクレメンティーナの潜めた声が聞こえて来た。
『なかなか、陛下も思い切ったわね……』
『真っ先のご感想がそれですか?』
二人だけが解す言語で話しかけてきたクレメンティーナに、アリーシャも同じく小声で返す。
とっさにあちらの言葉が出てきたことに反省しつつも、同時に彼女の発言に感謝した。
おかげで、無理やりにでも意識を切り替えることができた。
軽く首を振り、アリーシャは改めて手の中の紙に視線を落とす。
書かれていたことは、突き詰めれば一言で済む話だ。
――アナトール国国王が、王太子の王位継承権を剥奪した。
言葉にすればただそれだけのことである。
だが、その国王の孫であり、王太子の娘であるアリーシャにはそれだけで終わらせることのできない話であるのも事実だった。
『……そうなったのはそれはそれとしても、その根拠というか理由は何なの?』
いや、確かにあの父には一国の王なんて責務は荷が重すぎるが。でも、そうは言っても現王の唯一の息子なのである。
余程のことがなければ、ここまでの手段には出られないだろう。
『貴女に心当たりはないの?』
クレメンティーナの質問に、アリーシャは力なく首を振った。
『ありすぎて、逆に見当がつきません』
目の前の女性との婚約破棄もそうだが、他の失態だって山ほどだ。未だ貴族からの不信も解消できず、それどころか独断専行で国土を売り渡す約束を他国と交わす始末。
『今回の件が止めを刺した……と考えるのはちょっと時期が合わないか』
うーん、と腕を組んでいるクレメンティーナは、アリーシャの前では淑女然とした態度を改めることに決めたらしい。この気安さからして、完全に意識の上でアリーシャを同年代の同性のくくりに入れているようだ。無論、日本人の。
唯一無二の同胞とも言える相手であるのでアリーシャとしても全く不満はないのだが、いささか順応が早すぎるとは思わないでもなかった。
(これは、未来の王太子妃としての教育を受けてたときにはさぞかし息が詰まっただろうなあ……)
生まれて即王族として育てられてきたアリーシャですら未だにうんざりするくらいなのだ。王子と婚約させられた結果、籠の鳥の生活を強制されることになった当時侯爵令嬢のクレメンティーナにはこっそりと同情してしまう。
しかし、そんな共感は今は余所に置いておくとして。
『やっぱり、クレメンティーナ様もそう思われます?』
『ええ、だって明らかに早すぎるもの』
『ですよね……』
やはり、彼女の意見も自分と同じなようだ。
『ならそれはそれとして……、それで、クレメンティーナ様は喫緊の課題の方にはどう対処されるおつもりですか』
幸いと言っていいかは微妙だが、今のモラヴィアはぎりぎり開戦直前という状況だ。
とはいえ敵の動きは察している上に、援軍が来るまで防衛するという指針もすでに定まっている。
いつ火蓋が切られてもおかしくないのは事実ではあるものの、こちら側の用意もそれなりに済んでいるので、事が起きたとしても後は応戦するだけだが。
『まあ、敵軍の方も、モラヴィアがここまで事前に守りを固めているとは想定外だったでしょうけど』
急襲を狙って仕掛けようとしていたところに、よもやこんな強固な備えが待ち受けていたのだから、見込み違いもいいところだろう。
言いながらアリーシャは、今朝のことを思い出していた。
城塞から見下ろした〈壁〉は満々と水を湛えており、朝日を反射してきらめく水面に、アリーシャは本気で目を丸くしたものである。
そしてアリーシャと並んでその光景を見ていたクレメンティーナも苦笑いを浮かべた。
『さあ攻めようと意気込んだところで、こんな大規模な障害が用意されてるんだもの。そりゃあ出端を挫かれたわよね』
確かに、アリーシャの素人目にも、あれは簡単には越えられるものではないと一目で分かるほどのものである。
だからこそアリーシャは力ない声で言った。
『それなら無意味な出撃なんかしないで、とっとと自国に帰って欲しいんですが。無断でこの国に入り込んだことは見なかったことにするんで』
切実なそれはアリーシャの本音だったが、その望みは容赦のないクレメンティーナの一言で打ち砕かれた。
『確実な負けが見えているならともかく、ここまで準備して仕掛けて来たのだもの。あちらだって早々引き下がれるわけないわね。指揮官が余程の器量の主でもなければありえないことよ』
『……さすが、婚約破棄の話を聞いた途端に、すぐさま領地に撤退した方のご意見なだけに説得力がありますね』
呆れ半分称賛半分で言ったアリーシャの前で、クレメンティーナがそろりと視線を泳がせる。
アリーシャもそれ以上のことについては触れず、己の気掛かりを口にした。
『ですが、いくらこの城塞が難攻不落でも、今回ばかりは王太子の件がありますからね。指揮官があの裏取引のことを把握しているとすれば、まず諦めることはないでしょう。こんな機会は他にないだけに尚更です』
アリーシャは努めて淡々と話したが、その声に恨めしげな響きが滲むのは如何ともしがたかった。
何をどう考えても、そもそもの今回の元凶はあの父なのである。
(それにしても、あのお祖父様の息子がどうしてこうなったんだか……)
そんなことをアリーシャが頭の中でぼやいていると、部屋の外から扉を叩く音が聞こえて来た。
規則正しいノックの直後に現れたのはカーライルだった。
ここが実家だからなのか、王都で目にしたときよりも簡素で動きやすそうな衣服に身を包んでいる。だが、その腰には使いこまれた長剣が携えられていた。
「あら、カール」
呼びかけられたカーライルは、己の母親とアリーシャを交互に見遣りながら短く言った。
「先程父上が戻られたので、その報告に来ました」
「――え?」
クレメンティーナが口を開く前に、そう呟いたのはアリーシャだった。
いや、この地の領主であるセーガン伯爵が何らかの事情で不在にしていたということは、アリーシャも昨日教えてもらっていたのだが。
「え……と、早いのね。いえ、お帰りになられたのはいいのだけれど」
思いがけない不意打ちに、アリーシャはたどたどしい口調になった。
何しろ半日ほど前に相当の覚悟を持って臨んだ筈のクレメンティーナとの顔合わせが、あれである。
驚愕の事実を明かされたことで緊張も何もかもすっ飛んでしまったが、本来ならばアリーシャはこの伯爵夫妻にどれほど険悪かつ邪険な態度を取られても文句の言えない立場なのだ。
(え、え、今ここで大将のお出まし?)
ざーっと背筋が冷えていく感覚に、アリーシャは凍り付いた。
だが、そんなアリーシャを余所に、クレメンティーナが言う。
「分かったわ、殿下と共に向かうから先に行っていて頂戴。それと、他に呼ばれているのが誰なのか知っている?」
「あ、いいえ。でも父上はアリーシャ姫とは余人を交えずに話したいことがあると言っていました。そして、そこには母上にも同席して欲しいとも」
付け足された言葉にアリーシャは少しだけほっとした。
記憶は定かではないが、辺境伯はクレメンティーナと十歳程の年齢差があった筈だ。
壮年の男性、それも実父が不義理を重ねている相手と差しで向かい合うことになっていたら、幾らアリーシャの中身が中身でも精神的な重圧は計り知れないものだっただろう。
仲介役もその場にいるということで、アリーシャがどうにか逃げ出しそうになる気持ちを押し止めていると、その心情を察したように部屋を退出した息子の姿を見届けたクレメンティーナが笑みを浮かべた顔を向けて来た。
『そんなに硬くならなくても大丈夫よ? 私の夫は十五歳の女の子を冷遇するような男じゃないもの』
『それはまあ、貴女の選んだ男性ですから、そうだろうとは思いますけど』
だが、それとこれとは別の話なのである。
それでも、泣き言を並べているような暇などないことも分かっているので、嫌々ながらもアリーシャは目的の場所へと歩き出した。
(うーわー……)
クレメンティーナに案内されて入った室内で、アリーシャは心の中でそんな声をあげていた。
部屋の中央に佇むその男性は、おそらく四十代後半だろう。だが引き締まった体躯と隙のない立ち姿からか、実際の年齢よりも遥かに若々しく、三十代半ば頃に見える。
艶のある漆黒の髪は短く揃えられ、鋭い瞳は息子と同じ藍色だ。銀髪に紫紺の双眸を持つクレメンティーナと並べば、とてつもなく絵になることだろう。
(これは、何とも見栄えがする夫婦ね……)
純粋な華やかさだけで言えば、己の両親の方に軍配が上がるかもしれない。だが、それでも滲み出る気品や威厳は到底この二人には及ばないだろうとアリーシャは思った。
(どっちが国の顔として相応しいか、分かったもんじゃないわ)
頭の隅でそんなことを考えながら、アリーシャは軽く膝を曲げて深く頭を下げた。
「トリスレード辺境伯には初めてお目に掛かります。アナトール国第一王子アレクシスの娘、アリーシャ・エレネス・ランセルと申します。この場でお会いする機会を頂きましたこと、感謝申し上げます。そして、このような事態をモラヴィアに招きましたこの度の不始末につきまして、王家の一員として深くお詫び致します」
王家の者がこうして詫びることがどのような意味を持つか。それはアリーシャも分かっていたが、しかしさすがにこの状況で、謝罪しないという選択はありえない。
無論、切迫しているモラヴィアのこの状況で、小娘一人の言葉にどれほどの価値があるのかとは思う。それでも、まずこちらの非を認めることの方を優先するべきだった。
スウェン・トリスレード辺境伯は深い藍の瞳でアリーシャをじっと見ていた。そしてほんの僅かな沈黙の後、低く落ち着いた声で言う。
「生憎だが、モラヴィアを治める者として、今ここで私が貴女の謝罪を受けることはできない」
その静かな口調に、アリーシャは目を伏せた。
当然そうだろうと思っていたので落胆する気持ちは全くない。けれど、そのような言葉を返させてしまったことについては非常に申し訳なかった。
「ただ、貴女が真実この地とここに暮らす民を案じて来て下さったのは確かだ。ゆえに、貴女の語る言葉は信じるに値するものだろう。そのことを私も妻も疑うものではない」
話を頭から疑うことはないと告げられ、アリーシャはそっと息を吐きだした。
正直、王都を発ったときから、門前払いを食わされることも有り得ると考えていたのだ。
聞く耳を持ってもらえるということだけで、安堵で泣きそうになった。
「それに、領民たちもそうだが、息子のことも庇って下さったと伺っている。また、〈壁〉を作動させることにも手を尽くして下さったとも。領主としても親としても貴女には感謝を抱きこそすれ、含むところはないと申し上げる。――貴女のお身内を別として、だが」
辺境伯の最後の一言が、ぐさりと突き刺さった。
淡々と語る彼の様子に怒りの色が見えないだけに、尚のこと痛い。
「はい。尤もなことだと思います」
同意するアリーシャに、ほんの少しスウェンの片眉が上がる。
そこで、それまで無言だったクレメンティーナが口を開いた。
「スウェン様、差し出口をお許し下さい」
アリーシャとスウェンの視線が向いたことを確かめ、クレメンティーナは何かを考えている様子で言った。
「先程お身内と仰られましたが、それはカーライルやユリウスから聞いた話ということでしょうか」
「それもあるが、ギスカールも色々と知らせてくれたからな。どうやら愛弟子のことが相当気掛かりだったらしい」
スウェンの唇の端が微かに上がり、藍色の目が面白そうにアリーシャを見る。
(これ、もしかして将軍経由であれこれ伝わってる……?)
領地が隣り合っているという関係上、こちらの辺境伯と己の師匠がそれなりに親交のある間柄だということは知ってはいたが――。
(まさか、変なことを教えてたりしないよね?)
もちろん公的なことという意味ではない。そういった点でアリーシャが師を疑うことはないが、ただスウェンの意味深な眼差しには、彼が何かを知っているような微妙な雰囲気が窺えた。
でも今はそんな疑問を掘り下げているような場合ではない。
「トリスレード辺境伯は、ウィズリー将軍と連絡を取り合っているということですか?」
祖父の意向により、彼は東方面の警戒に当たっていると聞いていたが。
怪訝な顔になったアリーシャに、スウェンはあっさりと言う。
「連絡というか、さっき会って話して来たからな」
「……はい?」
一瞬理解が追い付かず、アリーシャは気の抜けた声になった。
「え? どういうことです? 将軍がこちらにいらっしゃってる?」
「ああ、陛下の指示で援軍に来たらしい。元々の東の件については別の者の預かりになったとだけ聞いているが」
スウェンからもたらされる事実にアリーシャは目を白黒させたが、それでもなんとか頭の中で状況を整理した。
(将軍にはオイヴァの動きを牽制するために行ってもらってたわけだから……。モラヴィアへの派兵が判明した時点で必要ないと判断したってこと?)
確かに、ケンティフォリアとオイヴァが共闘してモラヴィアを落としに来た今となっては、東方面における直接的な攻撃を警戒する必要性は薄いだろう。
地理的なことを考えれば、オイヴァがあの辺りを進軍してくる可能性はあまりないからだ。
とはいえ、かの将軍が駆け付けてくれているというのは非常に心強い話ではある。
ただ――。
「だとしたら、話がいささか変わってきますね」
慎重に告げるアリーシャの前で、モラヴィアの領主である辺境伯とその妻は黙って視線を見交わした。
将軍が引き連れて来た手勢の数にもよるが、これまではモラヴィア単独での戦力で持ち堪えるしかなかったところにこの加勢は大きい。
「トリスレード辺境伯。総大将として、伯が今後の方針をどうなさるおつもりかお尋ねしてもよろしいでしょうか」
この場において己には何の力も権限もないということは承知の上で、アリーシャは問いかけた。
たとえ何も出来ることがなかったとしても、自分にはこの先起きることを見届けるべき義務がある。
それについてだけは譲れないと、静かな決意をこめた声に、返ってきたのは思いがけない言葉だった。
「では、貴女に立って頂きたい」
鮮やかな藍色の目でアリーシャを真っ直ぐに見据え、スウェン・トリスレードは短くそう言った。
「………………………………………………………………………」
アリーシャが辺境伯の言ったことを呑みこむのに、しばしの時間が必要だった。
どうにか彼の発言を咀嚼し、その意味を解するまでに要したのはほんの数秒のことだったが、その僅かな間がとてつもなく長く感じられた。
アリーシャは乾ききった唇を動かし、掠れ声を出した。
「立つ、とはどういう意味でしょうか。一体私に何をお求めですか」
「文字通りの意味だ。貴女には王族として、モラヴィアの旗の隣に並んで欲しい」
「それは、随分と曖昧な言い方ですね。解釈次第でどのようにでも受け取れます。――なら、私も質問を変えます。モラヴィアは、私にどこまでのことを望みますか」
交渉としては上手いやり方ではないという自覚はあったが、アリーシャはあえて単刀直入に切り込んだ。
何しろ目の前に立つ男性は領主として武人として、長らくこのモラヴィアを護ってきた百戦錬磨の強者である。
多少は先の人生での経験値があるとはいえ、こちらの世界に生まれてからの大半の時間を、王宮という偏った場所で過ごして来た箱入り娘が敵うような相手ではない。しかも、こちらには身内の失態という弱みがあるだけに尚更だ。
「貴方が仰るのは、今回の件についてだけではないですよね? ですが、そこまでの価値が私にあると思うのは買い被りでは」
見縊られるのも困るが、さりとて過ぎた評価も身に余る。己が凡人だということを、アリーシャはよくよく理解していた。
「別に買い被っているわけではない。ただ、今後の国の行方を思えば、貴女に力を持たせた方が得策だと判断しただけだ」
アリーシャは苦い顔になった。随分と嫌なことを口にしてくれるものである。
「後になって、こんなつもりじゃなかったと言っても遅いですよ?」
だが、そうして顰めっ面で忠告するアリーシャに対し、スウェンは動じるどころか心底おかしそうに破顔した。




