第十五章 道中
夜がしらじらと明け始めた。
暗い夜空が濃紺から淡い紫、そしてオレンジへと柔らかなグラデーションを描いていく。
鮮やかに色彩を変えつつある空の下を、カッ、カッ、カッ、と蹄鉄を響かせて馬たちが駆けていた。
その口元から立ち上る白い息が、寒々しい早朝の空気を物語っている。
秋の朝陽が昇り始め、北方へと向かう街道とそこを往く三騎の人馬の姿を照らし出した。
(思っていた以上に、余裕そうね)
ぐんぐんと全身で風を切りながら、馬上でアリーシャはひそかに舌打ちをした。
と言っても、実際にそうしたわけではなく、あくまで胸の内であるのだが。もし実際に自分がそんな真似をしようものなら、どれ程の人間に誹られることか。想像だけでも、めげそうな数だろう。
それでも、気を抜けばうっかりそんな行動を取りかねないくらいには、この現状はアリーシャにとって不本意なものであった。
(本当に、何でこういうことになったのかなあ?)
思わず眉を顰めそうになるのをどうにか堪えつつ、アリーシャは自分と並んで馬を走らせている他の二人をちらりと見た。
アリーシャが跨る葦毛の右側で、短い茶髪の少年が青馬を駆っている。そして左側の鹿毛の手綱を握るのは、襟足を少し伸ばした銀髪の少年だ。
三頭共に毛色は違うが、どれもとびきりの軍馬である。それゆえ扱いが難しいのだが、二人には全く手こずった様子はない。
(エリーの馬術の腕は知ってるけど、こっちはちょっと驚いたかな。でもまあ、モラヴィアは起伏の激しい土地だから、馬が使えないと話にならないか)
アリーシャはそんなことを思いながら、できれば中途で振り切れないものかと考えていた少年に、こっそりと目を向けた。
アリーシャから見ても、その姿勢や手綱捌きに全く危なげな素振りはない。やはり、これは相当な技量だろう。
ついて来れないなら置いていく、と告げたアリーシャに対し、彼が問題ないと答えたのは別に虚勢でも何でもなかったようだ。
(っとに、こいつは……!)
この半年間目にしてきた様子からして、分別のある優等生だと思っていたのに、まさかここまで利かん気が強いとは。
零れ落ちそうな溜息を抑えているアリーシャに、エリオットが声をかけてきた。
「姫様、今のところ追手は来ていないようですから、少し速度を落としませんか。それに、そろそろ人が動き始める時間帯ですし」
「……もっともね」
彼の言い分に素直に同意してアリーシャが手綱を動かすと、やや後ろにいたカーライルも同じように速度を緩めた。
「ああ、この辺の住民ならそろそろ家の外に出る頃だ。あまり早く馬を走らせたら思わぬ事故を引き起こしかねない」
しれっと口にするカーライルに、アリーシャは頭を抱えたくなった。彼を置き去りにして行こうとしていた自分の思惑には気づいているだろうに、この態度だ。
見た目は繊細そうな美少年だというのに、中身は相当図太いらしい。
だが嘆こうにも、すでに目的地まであと半日程度で辿り着く地点にまで来てしまったのだから、もうどうしようもこうしようもない。
まあ、そもそも向かう先がカーライルの生家であるので、ここで彼を連れて行かない方が余計な不審を招くという理由もあるのだが。
そんなアリーシャの懸念を裏付けるように、カーライルが言う。
「だから、ここからは俺が先に進む。地元の者しか知らない道だから人目につかないし、そっちを行った方が早く着くからな」
それに、追いかけて来てる奴らにも気づかれにくいだろうし。
そう続けられ、とっさに渋面になったアリーシャに対し、エリオットはあっさりと頷く。
「ああ、頼む。さすがにあいつらが姫様に手出しはすることはないだろうが、邪魔されて手間取ることは避けたいからな。……って、どうかしたか?」
怪訝そうなエリオットに、カーライルは何とも云い難い表情になった。
アリーシャとエリオットの二人を交互に見遣り、呆れたように言う。
「手間取るってな、あれだけ見事にあしらっておきながら言う台詞じゃないと思うぞ?」
曲がりなりにも正規の騎士たちを相手にして、その全員を振り切っておきながら……と語る口調にはやや疲労の色が滲んでいた。
「だって、名目は護衛だけど、その実彼らの目的は私の足止めなんだもの。連れていけるわけがないじゃない」
アリーシャはさらりと随行してきた護衛騎士たちの思惑を暴露した。
「それは、どういうことだ?」
「言葉どおりの意味よ。詳しい話は道中するわ」
到着までには話し終えるだろうし、とアリーシャが指先で前方を促すと、カーライルは不承不承馬の向きを変えた。
先ほどよりも緩やかな速度で駆けだした馬の背の上で、アリーシャはゆっくりと口を開いた。
「私の護衛として付いて来た騎士たちだけど、彼らを選んだのは陛下じゃないわ。騎士団の上層部からの推薦だったんだけれど、ただ、その人選に口を挟んだ人間がいるの。それが誰なのかはここでは出さないけど、でも、それは陛下も私も想定内のことだったわ。だからそもそも、最終的にはモラヴィアを訪れるのは私とエリオットの二人だけのつもりだったのよ」
「……予想を外して悪かったな」
無理矢理押しかけて来た自覚はあったようで、カーライルの声は幾分気まずげだ。
「全くよ。まあそれは、あなたに情報をもらしたラフカディオもだけど。……宰相の手引でジーナに会ったそうだけど、どんな無理押しをしたんだか」
(そりゃあ、拉致されていた婚約者が戻ってきたって知ったら、ラフカディオは何を押しても様子を確かめたいとは思うでしょうけども)
「一応言っておくが、ジーナもクルトも上に口止めされてるようなことは何も喋ってはいないぞ。ただ、あいつらの話を聞いて、おまえが何か行動しそうだって思ったから、注意していただけだ」
「…………………………………」
アリーシャは無言になった。
だからといって、それだけでモラヴィアに出立しようとした自分の動きを察知した挙句、ここまでついて来るとは。
故郷に迫る危険を知った以上、気掛かりに思うのは当然だし戻ろうとするのも分かるが――。
しかしそれはそれとして、何やら王宮の内幕が、筒抜けのように思うのは気のせいだろうか。
完全に内密にしていたわけではないが、それでもこういうことが外部の人間にすぐさま察知されるというのは問題である。
(いや、でも……)
アリーシャはそこで考え直した。
(このひとの場合は、母親の前歴が前歴か)
王太子の婚約者としてかつて王宮に出入りしていた彼女であれば、そういった勘所はしっかりと押さえていただろう。
勿論当時と今とでは色々と変わっているところも多いが、それでも物事を把握する上での要所というのにあまり大きな違いはない。
アリーシャは胸の内で深い溜息を吐き出した。
そう遠くない先に、自分はそのような女性と相対しなければならないのだ。
それから数時間程馬を走らせると、体感気温がすっと低くなった気がした。
移動したのはさほどの距離ではない筈だが、これは標高が上がったせいかもしれない。
王都ではあまり目にすることのない鬱蒼とした常緑樹の森を眺めながら、アリーシャは前方の背中に向けて声を上げた。
「トリスレード、少しいい?」
その言葉に、カーライルは少し進んだ先で馬の足を止めさせた。
「どうした?」
「ちょっとね、確かめたいことがあって」
振り返るカーライルにアリーシャは馬を寄せ、荷物の中に入れてあった地図を取り出す。
薄い紙を広げると、瞳を眇めたカーライルが覗き込んで来た。
「……随分と、精密な地図だな」
「今回は必要だろうと思ったから、持ってきたのよ。それより、聞きたいのだけれど」
言いながらアリーシャはある一か所を指し示した。
「今私たちがいるのはここよね? 一度こちらに寄りたいんだけど、すぐに行ける道はある?」
この場所からほんの少しだけ離れたところにあるそこへ向かいたいのだとアリーシャが告げると、カーライルは難しい顔をした。
「距離はそれほどでもないが、急峻な山道を行くことになるな。おまえらの腕なら問題ないだろうが、それでも多少の時間はかかる。……寄り道をしても、見ておきたいのか?」
「ええ、あの場所からなら遠目にカロル街道の様子が窺えるでしょ。何もなければいいとは思うけど、念のため」
「でも、あの道をケンティフォリアの兵が来ることはまずないだろ?」
カーライルが怪訝な眼差しになった。
その疑問はもっともだ。現状一番警戒をするべきなのがあの国なのなら、東方面の街道に注意を払う必要はない。
けれど――。
「……杞憂で済めばそれでいいの。でも、ここから向かえばすぐに行って見て来れるもの」
だから、お願い。
真っ直ぐに藍色の双眸を見つめてアリーシャが頼み込むと、背後のエリオットも言った。
「俺も姫様と同意見だ。たいした距離じゃないのなら、残りを急いで進めば挽回できるだろう」
二対一の構図となり、カーライルは仕方なさそうに息を吐き出した。
「――分かった」
そうと決まれば話は早く、カーライルの先導でアリーシャとエリオットは獣道と大差のないような道へと入った。
馬が一頭どうにか通れる程度の細道にはかなり傾斜がついており、確かに急峻である。とはいえ、二人がついて行けないほどではない。
慎重に手綱を操りながらその道を登り切ると、高く開けた場所に出た。
(うわっ!)
大きくせり出した崖の上から見下ろす光景に、アリーシャは小さく息を呑んだ。
黒々とした緑の山と森が延々と続いている。足下に広がる木々がまさかこんなに小さく見えるとは。
不意に吹きつけて来た強風に一つに束ねていた髪がさらわれるのを手で押さえつつ、アリーシャは馬の背を下りた。
手荷物の袋を探り、ずしりとした重さを持ち上げる。鈍い陽光を反射して、そのレンズがきらりと光った。
「そんな物もお持ちだったんですか?」
呆れ混じりの声はエリオットだった。
「高性能の望遠鏡よ。重い思いをして持って来たんだから」
(さすがに、前世ほどの倍率は望めないけどね)
内心でそんなことを考えながら、アリーシャは構えた望遠鏡を覗き込んだ。
前方に飛び出た崖上からだが、やはり山の中だ。大きな街道とはいえ木々が邪魔になって見えにくい。
それでも、別段人の動きはないようだ。
(これは、余計な気を回したかな?)
アリーシャがそう、肩の力を抜いたときだった。
馬に騎乗した数多くの兵たちが、突如街道を埋め尽くしたのだ。
「――――っ!」
小さなレンズ越しであっても、整然とした騎兵の集団が続々と進んで行くのがはっきりと見て取れた。
彼らの兵装には覚えがある。あれは、間違いなくオイヴァの兵士たちだ。
だがアナトールが、国内における他国の軍の移動を認めたという事実はないのである。
隣国の軍が無断でこのアナトールに押し寄せて来ている、それの意味するところは――。
(疾きこと風の如く……って、それはそうだけども!)
「どういうことなんだ!?」
アリーシャから押しつけられた望遠鏡を覗き込み、カーライルが驚愕の滲んだ声をあげる。
その横に立っていたエリオットも、二人と同じ物を見るや否や、険しい顔になった。
「こちらが思っていたよりも、オイヴァの動きは早かったようですね」
「正確には、オイヴァとケンティフォリアね」
それに答えるアリーシャの響きも苦かった。
可能性としては頭に入れていたが、それでもまさかそれが現実になるとは。これでは自分の推測が甘かったと言われても仕方ない。
「あいつらは、どこを目指してるんだ……?」
零れ落ちたカーライルの呟きは、微かに揺れていた。その繊細に整った横顔には、明らかな動揺が浮かんでいる。
そんな彼に追い討ちをかけるのは気が進まなかったが、しかし事実は事実だ。
「勿論、モラヴィアでしょうね。ケンティフォリア単独では厳しくとも、オイヴァの援護を得られるのなら勝機はあると踏んだんでしょ。物資の乏しいケンティフォリアには、短期の戦であっても痛い出費だけど、その兵站をオイヴァが担ってくれれば話は別だわ」
オイヴァがこそこそと画策していたらしいことは掴んでいたが、それにしてもここまで大がかりな真似をするとは祖父も思ってなかっただろう。
「それでも、どうしてここでオイヴァが出て来る!?」
焦りを見せるカーライルに、アリーシャは眉を顰めた。
逡巡したのは、一瞬だった。
こんな事態に至ってしまっては、黙っている意味もないだろう。ちなみにそれは、アリーシャが春に視察に訪れた理由の一つでもあった。
「オイヴァの目的は、鉄鉱石の鉱床よ。近年、モラヴィアで発見された、ね」
(水路を使ってケンティフォリアを通れば、モラヴィアからオイヴァへの輸出はかなり容易になるものね。今のオイヴァは大量の鉄を必要としているし、その確保ができるのならケンティフォリアへの援助くらいは承諾するでしょ)
驚きのあまり表情を消した少年に、アリーシャは静かな眼差しを向けた。
領内の機密情報をあっさりと暴露されたのだから、彼が面食らうのも無理はないだろうが。
(本当は、こんなことがなかったら、気づかないままにするつもりだったんだけど)
たとえ領地にあるものだとしても、鉱山の存在は国に届け出ることが義務付けられている。それはトリスレードであろうと同様だ。
ただし、この申告がされなかったことについては今は余所に置いておくべきだろう。
「でも、この軍の規模を見たら、モラヴィアだけじゃ済まないかも。ラポリスやジュビリーあたりまで欲を出してくるかもしれないわね」
ラポリスもジュビリーもモラヴィアに隣接する領地だ。飛び抜けて豊かというわけではないが、地の利を考えれば手に入れるに越したことはない。
だが、そんなことになれば待っているのは泥沼だけだ。
戦は起こすのは簡単だが、終わらせるのはそれより遥かに難しい。
しかも今回は領土に関わるそれであり、更に二国の思惑が絡み合っている。幾ら広大な土地とはいえ、モラヴィアというアナトール北部の一地方を獲得しただけで彼らが手を引くかどうか。両国共に欲を出した結果、引き際を見極めることができないまま、ずるずると戦線を広げるような真似をしでかしてもおかしくない。
アリーシャがそれらの懸念を口にすると、カーライルはますます感情の消えた顔になった。
そんな彼を横目で見ながら、エリオットが考え込むように顎に手を当てる。
「オイヴァの軍がここまで兵を進めているのなら、ケンティフォリアはどうしてるんだろうな」
アリーシャも脳内で国境近辺の地図を広げた。
オイヴァの軍がこのまま直進するのなら、必然的にラポリスを通過することになる。けれど、領主のウィズリー将軍が不在としている今、抑制するだけの力はあの地にはないだろう。
「拠点を得るためにも、ケンティフォリアはまずモラヴィアを落としに来るでしょうね。更にそこにオイヴァの加勢まで加わったら……」
そこで言葉を切り、アリーシャは唇を噛み締めた。
モラヴィアの城塞が堅固であることは承知しているし、実際に目の当たりにしている。それでも、二国を相手にするにはさすがに厳しい。
そして一度あの砦が落とされてしまったら、奪還するのは相当に難儀だ。
とはいえ、今からアナトールの軍を支援に向かわせても間に合わない。そこまで持ち堪えられるだけの兵力は、モラヴィアにはない。
オイヴァを翻身させるための手は打っているが、だがそれはモラヴィアが陥落しないという前提があっての話だ。
この初手をこのまま上手くいかせてしまえば、勢いに乗じたケンティフォリアとオイヴァの両国に国境線を大きく削られる事態となるかもしれない。
(なら、どうしてもここで食い止めないと)
アリーシャは顔を上げ、その突破口と成り得る少年を見つめた。




