第十四章 覚悟
(それにしても、何だかなあ……)
シーツを切り裂いて作ったと思われるロープを伝い、するすると二階に上りつつもアリーシャの内心は釈然としなかった。
(一応皆さん、相当いいお家の出の筈よね? なのに、どうしてこう、揃いも揃ってやんちゃなのよ?)
完全に自身を棚上げにしたことを考えながら、アリーシャはひらりと窓枠を乗り越える。
素手のクライミングはさすがに無理だが、手掛かりがあるのならこれくらいの高さはお手の物だ。
それからアリーシャは握っていた紐をくるくると手繰り寄せた。先に上がったジーナは、使用人が戻って来てはいないかどうかを確かめに行っている。
この間に脱走の証拠品を片付けておこうと、アリーシャは手近な柱に固定されていた結び目に手を伸ばした。
(……うっ)
万が一にも途中で解けたりしないためだろうが、かちこちの結い目は思った以上に手強かった。爪を押し込んでもなかなか緩む気配はない。
いっそ鋏か何かで切れないかと室内を見回していると、扉の向こうから赤い髪が覗いた。
「幸い、誰にも気付かれてはいないみたい。元々一人にしてもらうよう頼んでいたから、そっとしておいてくれたのかも」
「……まあね。昨日の今日だもの。そりゃ腫れ物に触るようにするでしょうね」
周囲がそういった配慮をするのは良く分かる。だが――。
アリーシャはちらりと横に目を動かした。
(その割に、本人はけろりとした様子だけどね)
かなり気を揉んで赴いただけに、ジーナの平然とした様子にはいささか拍子抜けである。
とはいえ、半年間程度の付き合いでしかない身には、彼女のそれが上辺のものなのかそうでないのかまでは判断がつかないが。
(だとしても、表面上だけでも平静を取り繕えているのならばたいしたものか)
心の中だけでそんな感想を呟きつつ、アリーシャは頭を切り替えた。
今のこの状況で、彼女が無意味に自分に声を掛けて来るわけがない。なら、邪魔が入らないうちに話すべきことは話しておくべきだ。
「それで、一体私に何の用なわけ?」
ようやく格闘を終え、解けた紐を手にアリーシャが尋ねると、ジーナの表情が一変した。
「そう、ね。確かに、色々と話はあるのだけれど」
ジーナは少し苦笑した。
「でも、真っ先に言わないといけないのは、お礼よね。貴女のおかげで、子爵に繋がる手がかりが見つかったんだって、私を助けに来てくれた人が教えてくれたわ」
だから、礼は貴女に、って。
そう言って、ジーナは一礼した。
「この度、私の救出にご助力くださいましたこと、深く御礼申し上げます」
本当にありがとうと、続いた真摯な声音にアリーシャは少し困った。
「そんなの、私はせいぜいきっかけになっただけだもの。気持ちだけは受け取るけれど」
肩を竦めて軽くそう返すアリーシャを、ジーナはじっと見返していた。
彼女は細い眉を顰めて、硬い声を出す。
「……それでも、貴女がそこまでする理由は、私にはないでしょう?」
その一言で、二人の間に漂う空気が瞬時にして張り詰めた。
「話したかったのは、その事?」
もともと小声での会話だったが、それを更にぎりぎりにまで潜めた声量で、アリーシャは言った。
その鋭い視線を真っ向から受け止め、ジーナは無言で頷く。
「……説明を、してくれる?」
その言葉を皮切りに、二人だけの密談が始まった。
とはいえ、ひそやかな風のような囁き声で交わされたそれは、まったく静けさとは縁遠い内容だったのだが。
「じゃあ、貴女は人質として差し出されたってこと?」
片眉を上げたアリーシャに、ジーナはこくりと頷いた。
「ええ、満を持してルヴァス学園を襲撃したのに、誰一人として捕らえることもできなかったでしょう。それで、あちらは父に不信感を抱いたようなの。疑われたくないようなら、娘を寄越せと言われたそうよ」
「寄越せと言われて、そんなほいほい渡すようなものじゃないでしょうが」
苦り切ったアリーシャの表情に、ジーナは何とも云い難い苦笑を浮かべる。
「あのひとにとって、私も兄も単なる駒に過ぎないもの。それでも、兄はまだ跡取りとしての需要があるけど、私の場合はね」
「? 貴女だってラフカディオとの繋がりという価値はあるでしょう?」
本来であれば、自分が言っていい台詞ではない。何しろ彼女たちの世代の婚約事情はアリーシャたちに端を発しているとも言えるのだ。それは重々承知しているが、今は言葉を飾る時間が惜しかった。
「かつてはね、でも、その状況が変わったの」
「それは、ラフカディオとの縁を見送るくらいの話なの?」
ラフカディオも相当な名門貴族だ。ソーウィン侯爵家にしても、彼の家との縁を深めることの利点は大きいだろう。けれども、それを手放すということは。
「あちらのお父様は宰相閣下と近しいから、そのことを警戒しているみたいね。少なくとも父は、私を傷物にして、その上でこちらから婚約の解消を言い出せば角が立たないだろうと考えたんでしょう」
「吐き気がするわね」
アリーシャは嫌悪感に顔を歪めた。
「……話を整理するけど、それなら貴女が誘拐されたのは婚約解消を申し出る正当な理由を作る為と、ソーウィン侯爵に対する念押しってこと?」
とはいえ、誘拐は相当なリスクのある行為だ。これだけだと、関わった者たちに相応のリターンがあるとは思い難い。
どうにも得心がいかないでいるアリーシャに、ジーナが更に声を低くした。
「まあ、勿論それだけじゃなくて。というか、きっとこっちが本命だったんだろうけど」
「本命?」
まだ何かあるのか、と視線を向けたアリーシャの前で、ジーナの唇が一度引き結ばれた。
執務室への入室を許可する言葉を聞いて、アリーシャは中へと足を踏み入れた。
そのまま数歩進むと、音もなく背後の扉が閉ざされる。
外部の音が遮断され、しんと静かな部屋の奥に視線を向けたアリーシャは一度瞬いた。
そこには、重厚な椅子に座った祖父の姿があった。
ここは国王である祖父の執務室なのだから、それ自体には何の問題もない。
ただアリーシャが気に掛かったのは、そこにいたのが祖父一人だけであったという事実だった。
「え? お祖父様だけですか?」
常であればこの部屋には、宰相をはじめとして様々な分野の相談役が顔を揃えているのに、と驚くアリーシャに祖父は小さく苦笑した。
「どうせ人払いをしなければならない話なのだから、余計な手間を掛ける必要はないだろう。――それで、ここに来たと言うことは腹を決めたのか?」
「……ええ、覚悟を決めました。ですから、お祖父様……、いえ、陛下」
臣下としての礼を取り、アリーシャは申し出た。
「どうか、私を正式な使者としてモラヴィアに向かわせてください」
――私が、トリスレード伯爵の元へ行きます。
アリーシャが言い切ったこの言葉がどういう意味を持つか、説明するまでもなく祖父は分かっている筈だった。
「誰から聞いた、なぞ尋ねる必要もないな。じゃじゃ馬娘の友人は同じくじゃじゃ馬ということか」
その言葉に、アリーシャは一度だけ瞬いた。
だが、押し隠した筈の驚愕などお見通しらしい祖父は、呆れ混じりの声で言う。
「従順で無力な娘など、政略結婚に使う以外に何の手駒にもならないからな。とはいえ、知恵をつけすぎても面倒なのは確かだが」
胸の奥にひやりとしたものを感じながら、アリーシャは静かに問うた。
「私のこれまでの振る舞いは、陛下のご意向には沿いませんでしたでしょうか」
そして、そう口にしながら考えた。
何事にも出しゃばらず、王宮の隅でひっそりと過ごすことを選んだ自分のことを、祖父はどのように思っていたのだろう、と。
「おまえは厄介事一つ起こしたことはなかったが、同時に余程の事態でもない限り、何も動こうとはしなかったな。誰の目にも留まらないよう、慎重に振る舞っていた。……確かに、気がつかれないように身を隠すというのも一つの戦い方だ」
そう、そもそも認識すら不可能な存在のことを、攻撃しようと思う者はいないのだから。
とはいえ、完全に目立たないというのも悪手と成り得る可能性があったので、そこら辺の匙加減は非常に難しかったが。
注目されず、けれども不在を意識され過ぎることのないように。
ただそれは、アリーシャがまだ成人していない身の上であったからこそ取れた手段ではある。
それでも、表立ってではないにしても、王族としての務めにはそれなりに励んではいたのだけれど。
(でも、そもそも未成年なんだから行える公務もないし、それに目につくような功績でもあげようものなら、余計な事を考える人間も出て来るだろうしね)
「まあ、それもいつまでも使える手ではないがな。あの馬鹿息子がもう少し使える人間だったら、おまえももっと別のやり方があったのだろうが」
その言葉に、アリーシャは思わず視線を逸らした。
これは分かった上で行動に移さなかったアリーシャと、その父を揶揄しているのだ。
「おまえの父親である私の息子は、王位に就く意志だけはあるが、それ以外の器量はない。おまえにあいつを支える覚悟があればまだしも、そうではないだろう」
はっと顔を上げたアリーシャに、祖父は苦い笑みを浮かべた。
「あいつが愚かなことは確かだが、それでも男は自分に惚れていない女には敏感だからな」
これがどういう意味か分かるだろう、と続けられアリーシャは俯いた。
隠しきれているとまでは自惚れてはいなかったが、まさかここまで正面から突きつけられるとは思っていなかったのだ。
「あの両親の言動を間近で見続けてきたおまえなら、当然だろうとも思うがな。それでも、ようやく表舞台に上がる気になったか」
辛辣な指摘に、アリーシャはええ、と頷いた。
「そろそろ成人ですしね。これ以上、逃げ隠れすることはできないでしょう。ですから、私は私のやるべきことをするつもりです」
だからこそ、アリーシャはこの祖父のところに来たのだ。
「これが他の土地であれば、父が動く事でその才覚を示すいい機会となったのでしょうが……。ですが、よりにもよってモラヴィアですからね。下手な使者を向かわせようものなら、余計な誤解を招きかねません。それどころか、あちらの怒りを買う可能性もあります」
アリーシャは淡々とした語り口を崩しはしなかったが、しかしその内心は正直ぐだぐだだった。
全く、これはどういう因縁なのだろう。
(つくづく、つくづく思うけど……。ほんっと、あの二人は二十年近くもの間、一体何をしてたのよ)
確かに、やってしまったことはもうどうしようもないわけだが、かと言ってそのまま断たれた交流をほっぽっておくとはどういうことなのだ。侯爵令嬢本人は無理にしても、せめてその周辺の人間に対しては最低限の関わりは持ってもらえるよう、どうして働きかけをしなかったのか。
無実の罪を詰った元婚約者に対して、合わせる顔がないというのは分からないでもない。だが、時間が経てば怒りはいずれ覚めるだろうという父の判断は間違えようもない悪手だ。
あの当時、たとえ婚約を破棄した後であったとしても、父が誠心誠意謝罪をしていれば、許されることはないまでもせめて聞く耳くらいは持ってもらえただろうに。
(それをずるずると、何もしないままここまで来ちゃったんだから、そりゃまともに話をする相手とは見做されないわよね)
それはよくよく分かる。だが今は、非常事態なのだ。
紛れもなく国難に面しているこの状況で、四の五の言っている猶予はない。
とにかく一刻も早くこの現状を伝えなければ。でなければ取り返しのつかない事態になりかねない。
無論あちらが何も察していないということはないだろうが、それでも状況の全てを把握しているところまではいかない筈だ。
ただし、ここで問題となるのが、こちらが告げる事実に相手がちゃんと耳を傾けてくれるかということである。
「身分や能力といった点で使者を任せられる高官はおりますが、ですが皆、あちらの方々の心象は決してよろしくないですよね。さすがに追い返されたりはしないでしょうけど、話半分で受け取られることも考えられます。それでは、意味を為しません」
この王宮に仕える者で、なおかつそれなりの地位と裁量を持っている人間は、当然政治に近しい位置にあると言える。それはつまり、王家ともある程度の関係を持っているということだ。
しかし今の場合、彼らが王家――というか王太子との繋がりがあるというその意味は、全く利点とはならないのである。
なんせ、その者たちの多くが現王太子のかつての級友や側仕えなのだ。
言い換えれば、王太子の婚約破棄に協力した、あるいは阻止しようとしなかった人たちである。
そして、アリーシャが知る限り、破棄した後に彼らと辺境伯の元に嫁いだ侯爵令嬢との間に交流があったという話を聞いた覚えはない。
王都から遠く離れているという地理的な理由もないわけではないだろうが、おそらくそれは現辺境伯夫人の意向もあってのことと思われる。
そんな夫妻の治める土地に人を送るとなれば、その対象者が絞られるのは必然だった。
だからこそ、アリーシャはしゃしゃり出ざるを得なかった。
「私が適任というわけでもないですが、こちらにいる人材のほとんどに信用がない以上、他の方々よりはましでしょう。疑いの目を向けられるのは同じにしても、王家の者に使者として赴かれては、さすがにないがしろにも出来ない筈です。それに、幸い私はあちらを見てきていますしね」
(春に行ったときには、こんなことになるなんて夢にも思ってなかったけど)
だが、こんな予定は皆無だったとはいえ、実際に最短距離で向かえる道程をアリーシャがすでに通ったことがあるということは紛れもない強みだった。
正直、あんな困難な道を初回でこなすのはアリーシャにはまず無理だ。
前回行ったあの経験がなければ、ただの無謀になるだろう。道半ばで引き返すことになるのが目に見えるようだ。
(そういう意味では助かってるけど……、それは確かにそうなんだけども)
だからと言って、あの山道を馬術の鍛錬の一環だと評した己の師匠の言に頷けるかと問われれば、アリーシャには首肯し難いのだが。
それでも今はそんなアリーシャの内心は些末な事だ。
「……だから、この件は私に行かせて下さい」
お願いいたします、と言葉を重ねると国王は深い息を吐いた。
それからアリーシャは祖父と短い打ち合わせを済ませると、すぐに部屋から退出した。出立の準備に取り掛かるためだ。
――そう、日が暮れる前に、自分はこの王都を発たなければならない。




