第十三章 翌朝
しかし、それから先のことは、取り立てて騒ぎにするようなものではなかった。
エリオットの先導で上階へと上がり、一階のホールへと出るとそこにはウィズリー将軍が立っていた。その周囲では、騎士たちが慌ただしく行き交っている。
鋭い褐色の瞳でアリーシャを見た彼は、一言告げた。
――お怪我がないようで、なによりです。
言葉ではそう述べつつも、その目を見れば、他にも山ほど言いたいことがあるのだろうというのはひしひしと伝わってきた。
だが、多くの人目のあるこの状況下で、彼がそれ以上の発言をする筈もない。
事情聴取は後日ということで、アリーシャと他の者たちはひとまずその場から家へと帰されることとなったのが、昨夜の顛末だった。
それから一夜が明けて、アリーシャは王宮内にある自室で一人の客を迎えていた。
「ルビリオ・ドネリー?」
朝の光が差し込む部屋で、アリーシャは片眉を上げて窓際に立つエリオットを見た。
記憶を辿り、どうにか埋もれていた知識を引っ張り出す。
「あまり聞いた覚えはないのだけれど、確か、ドネリー子爵家の当主よね? 領地は東北部のレッセンで……」
つらつらと語りつつ、アリーシャは首を捻った。
「それで、昨日私を拐そうとしたのが、その人だったわけ?」
エリオットが彼の父親からそう聞いたと言うのであれば、それは間違いないのだろう。けれども、どうにもアリーシャには得心がいかなかった。
しきりに首を傾げるアリーシャに、エリオットも渋い顔である。
「正確には、加担者の一人ということみたいだけどな。正直、この一件だけでも絡んでいる奴らが複数いて、全容が掴めていないんだ」
「私の誘拐事件なんて些末事にすらも、そんな厄介な顔ぶれが噛んでるわけ?」
「……曲がりなりにも王族の誘拐沙汰を、軽く言うな」
エリオットが窘めるように言うが、アリーシャの本音はそんなところだ。
「だって、春前からのことを考えたら、この程度は騒ぐことじゃないでしょ」
事実、今はすでに隣国がこの国の侵攻に踏み切るかどうかという状況なのだ。こんな難題を前にすれば、アリーシャの件など大した話ではない。
「いや、確かにね。昨日のあれにケンティフォリアが無関係だなんてことは思ってはないわよ。でも、私を狙ったのはあくまでおまけでしょ。……ああ、もうっ!」
この場にいるのが自分とエリオットだけという気安さもあり、アリーシャは目の前の円卓に突っ伏した。
火照った頬にひんやりとした木の感触が触れ、その心地良さに思わず目を閉じる。
もたらされた情報が多すぎて、ずっしりと重たくなった頭を預けながらアリーシャはこれまでのことを整理した。
(諸々のことがケンティフォリアから端を発しているのは間違いないけど、何より問題なのはそれに手を貸しているアナトール国内の人間なのよね。ソーウィン侯爵は確定してるにせよ、それ以外はまだはっきりしないし)
「ねえ、……ルビリオ・ドネリーは、どういう思惑で動いたんだと思う?」
のろのろと顔を上げてエリオットに尋ねると、彼は迷うような表情になった。
「……おまえも承知してるだろうが、子爵はせいぜい蜥蜴の尻尾だろう。自ら王族に手出しするような度胸も能力もある人間じゃない。誰かに踊らされたことは分かりきってるが、その黒幕については吐かなくてな。ジーナ・ソーウィンの身柄を拘束していた奴のことはすぐに白状したんだが」
アリーシャは少しの間沈黙した。それから、疲れ果てた声で呟く。
「……まあ、ジーナに辿り着く手がかりは掴めたんだから、私が囮になった意味は多少はあったわよね」
これで一切何の成果もなければ、本気で泣いた。そんなの正に骨折り損の草臥れ儲けだ。
アリーシャはそう言ってから、軽く首を横に振った。
「それで、ジーナはどうしてるの? 将軍の部下が無事救出したところまでは聞いているけど」
アリーシャの元にその報せが届いたのは、戻ってから数時間後のことだ。
ドネリー子爵が口にしたとおりに、ジーナはある伯爵の館で監禁されていたのだという。そして発見した彼女がこの王宮内へと連れて来られたのが、昨日というか今日の真夜中のことだった。
時間が時間であるし、まずはとにかくジーナの心身を落ち着けることが優先させるべきであったので、アリーシャもまだ彼女の顔を見てはいない。
緊張を孕んだ問いかけに、エリオットは注意深く答えた。
「先程目を覚ましたらしい。それで、今は医師の診察を受けているところだ。表面上は目立った外傷はなかったようだが……」
その言葉にアリーシャは目を伏せた。
たとえ体に傷はなかったとしても、その心がどうだかだなんて、外部からは分からないのだ。
「なら、ジーナの方はそれとして……。あの不良少年たちはどうなの? エリーは何か知ってる?」
思い切り眉根を寄せたアリーシャに、エリオットはくっと肩を揺らした。
「完全に問題児扱いだな。ラフカディオは俺たちより一年上なんだが」
「ごり押しして私の捜索に顔をねじ込んできたんだから、当然でしょう。将軍の苦労が偲ばれるわよ」
アリーシャは疲労感の滲む声で言った。
本当に、囚われの身だったアリーシャの前にクルトが現れたときには面食らったのだ。
何故に、あんなところで彼が出て来るのか、思いがけないにも程がある。いや、まあ、それはカーライルを見た時にも同じことを思ったのだけれども。
アリーシャの行方不明という異常事態に気づいた察しの良さはさすがだが、まさか捜索隊にまでくっついて来るとは。
「ソーウィンの件で、藁をも摑む思いだったんだろ。そんで見事に当たりを引いたんだから、なかなか運がいいというか」
「こっちは全然よくないけどね。侯爵家と伯爵家の跡取り二人なのよ。無事だったから良かったものの、何かあったらどう責任取ればいいのか……。もうちょっと自重してほしいわ」
げんなりと顔を覆うと、エリオットの呆れ声が返ってきた。
「自分を餌にしたおまえがそれを言うか?」
「私はちゃんと安全策をたてた上で行動しました。御者役を貴方に頼んだ上で、通り道にも事前に人を手配しておいたもの」
あらかじめ連れて行った護衛たちにも、いざというときには確実に自分を追えるよう、あれこれ準備は整えておいたのだ。
それを、どこぞの考えなしの子息二人と一緒にされるのは心外である。
「――そういう意味だけで言ったんじゃないんだがな」
「え?」
妙に苦く聞こえてきた声音に、アリーシャは思わず聞き返したが、エリオットがそれ以上を続けることはなかった。
「他にも幾つか父と話してきたが、聞くか?」
「ええ、勿論」
「トリスレードとラフカディオの二人は昨夜のうちに騎士も付き添わせて帰宅させてる。早かったら今日中にはあいつらの保護者が王宮に来るかもな」
アリーシャはそう言われて少し気が重くなった。誰が来るかは不明だが、あの両家であれば、色々と対応の難しい人間だろうということは想像がつく。
「あと、ジーナ・ソーウィンが見つかったことも、侯爵家にも報告済みだ。だが、ジュード・ソーウィンにはすぐに動くなとも伝えてある。貴族令嬢が攫われたなんて、表沙汰にでもなったらひどい醜聞だ。妹の名誉を傷つけないよう騒がず慎重にしてろと言ったら、しぶしぶながらも同意したみたいだな」
同じ口止めをカーライルとクルトにもしてあると教えられ、アリーシャは少しだけほっとした。
ジーナと近しい彼らが話を吹聴するとは思ってはいないが、それでも実際にこうして耳にするのとそうでないのとではやはり違いはあるのだ。
「……そう」
アリーシャはそれからエリオットからいくつかのことを確認すると、その場から立ち上がった。
「アリー?」
エリオットが怪訝そうに、アリーシャを見つめる。
普段は口にすることのない己の愛称を呼ばれ、アリーシャはつい苦笑した。
どうやら、彼が思わずその名を口に出すくらいには、自分は動揺しているらしい。
他人事のように頭の隅でそんなことを考えつつ、アリーシャは円卓の隅にまとめておいた書類を手に取った。
「……どこか行くのか?」
「ええ、お祖父様のところへ」
「こんな時に?」
眉を顰めるエリオットに、アリーシャはあえて軽い口調で言った。
「こんな時に、じゃなくて、こんな時だから、よ」
エリオットにはそう言ったものの、アリーシャが足を向けた先は王宮内ではなく離宮の一画だった。
これは別に、アリーシャが思い直したというわけではない。
祖父の元に行く前に、一度ジーナの様子を確かめておきたかったというだけのことである。
(ジーナを保護したのは将軍の麾下にある人だったということだから、手配に抜けはないだろうけど……)
とはいえ、エリオットを介して聞いた話だけではどうしても気になってしまったのだ。
あの親子は決して人の心の機微に疎くはない。疎くはないのだが、しかしいかんせん、それが女心となれば話は別である。
それなりに長いつきあいなので、アリーシャは時折彼らがとんでもないポカをやらかしていた事実を身を持って知っているのだ。
(鈍いというか、何と呼ぶべきか……。悪気は全くないだけに、傍で見てると胃が痛くなりそうなのよね……)
乾いた笑いを浮かべそうになりながら、アリーシャは広い回廊を進んだ。
朝の早い時間だからか、二つの宮を繋ぐ通路には自分以外の人の気配は感じられない。明るい静寂の中を、アリーシャは一人歩いた。
そのまま誰にも遭遇することなく、アリーシャが角を左折しようとしたとき。
ここを曲がれば目的地まではすぐというその場所で、アリーシャの足がぴたりと静止した。
アリーシャの視線のその先、目指していた離宮の前に、二人の女性の姿が見える。そして彼女たちの向かいに立つ、一人の人間も。
そのどちらも、アリーシャが見知ったものだ。
だが、だからこそアリーシャは息を呑んでいた。
(え? 嘘、どうして?)
それでも、動揺したのは一瞬でアリーシャはすぐさま周囲を見回した。まだ気付かれてはいなさそうだが、ここに自分がいると悟られるのは具合が悪い。
アリーシャは素早く視線を巡らせ、あちらから見ると死角になる木々の茂みに身を隠した。
息をひそめ、途切れ途切れに聞こえて来る会話に耳を澄ませる。
その内容を理解するにつれて、アリーシャの目が細められた。どうやら、二人は先触れもなくこの宮を訪れ、挙句ジーナに会わせろと言っているようである。
胸元を握り締めたアリーシャの手に、思わずぎゅっと力がこもった。
どちらが非常識なのかなど、口にするまでもない。ただし、一介の使用人が真っ向から逆らうには厄介すぎる相手だ。
(私が口を出して引きさがってくれるならいいんだけど、逆に口実にされかねないし。……というか、どうしてここにお母様がいるのよ!?)
そう、どういうわけかはさっぱり分からないが、ジーナの滞在する離宮に赴いていたのは、紛れもなくアリーシャの実の母親であるエレインであった。そして、彼女に同行しているのは侍女のラナである。
疑問を抱きつつも、はらはらしながら見守るアリーシャの前で、応対に出ていた少女は断固として言い放った。
「――ですので、どうかお許しくださいませ」
風にのってアリーシャの耳に届いたその言葉には、揺るぎない意思がこもっていた。
然もありなんとアリーシャは密かに頷く。
(そりゃあ、シアならそうするわよね。いやそれ以前に、救出されてまだ時間も経ってない女の子にいきなり面会させろなんて、通用するわけないでしょうが)
攫われていた彼女の心身を慮り、正規の聴取ですらまだ行なわれていないというのに、我が母ながら何を考えているのだろう。
「たかが薬師見習いの分際で、王太子妃殿下になんということを言うのですか!」
全く動じないシアに、母付きの侍女であるラナが甲高い声を上げる。
それでもシアは怯むことなく、王太子妃とその腹心の侍女に深い緑の目を向けて言った。
「何と仰られましても、御令嬢と会うことができるのは、国王陛下がご了承された方だけでございます。それは王太子妃殿下であっても例外はございません」
慇懃に頭を下げながらも決然とした態度を崩さないシアに、ラナが苛立たしげな表情を浮かべたのが分かった。だがさすがに、国王の名まで出されてはこれ以上言い募ることはできなかったのだろう。
非常に不本意そうに引き返していくその後ろ姿を、アリーシャは身を潜めたまま見送った。
そして、完全に二人が見えなくなったところで、こっそりと呟く。
「うーん……」
母が一体何しにここに来たのか、アリーシャにも皆目見当がつかない。
とはいえ、それが喜ばしいものであるとは全く思えず、アリーシャはしきりに首を傾げた。
そんなことを真剣に思い悩んでいたせいで、背後に気づくのに遅れたのだ。
「……アリーシャ?」
こそっと呼ばれたその声に、アリーシャは本気で心臓が飛び出すのではないかと思った。
「――――――っ!」
言葉にならない悲鳴を上げて振り返る。するとそこに、灰色のまじった綺麗な緑色の瞳があった。
「……ジ、」
開きかけたアリーシャの口が、とっさに伸びて来た手のひらに塞がれる。
アリーシャは半ば呆然としながら、その白い手の持ち主を見返した。
艶やかな赤い髪と毅然とした瞳。凛とした立ち姿も、数日前に目にしたものと何ら変わっていないようだ。
思いがけない事態に瞬きを繰り返すアリーシャに、ジーナが少し慌てた顔で己の唇に人差指を当てる。
……黙って、あるいは静かに、ということを示すその仕草に、アリーシャは無言で深く頷き返した。
意図はそれで伝わったようで、すぐさまアリーシャの口元を覆っていたジーナの手が外される。
「一体、何してるのよ?」
抑えた声量でアリーシャが疑問を口にすると、ジーナは困った顔になった。
「それは、色々話すと長くなるんだけど……」
「そりゃ、こんなところでこそこそしてるんだから、訳ありなのは分かるけど」
そう返しつつ、アリーシャはすぐさま周辺の様子を確かめた。
今のところは誰もいないようだが、ここではいつどんな人間が通り掛かってもおかしくないのだ。
「それって、こんな所で話せるようなことじゃないわよね? 離宮内は大丈夫そうなの?」
せめて場所は移すべきだろうという意味も含めたアリーシャの質問に、ジーナは戸惑った表情で眉を寄せた。
「多分……。今なら、大丈夫だと思うけど」
「……それなら、一度戻りましょ。ただ……」
離宮に目を向けて話していたアリーシャの言葉が、そこで不自然に途切れた。
視線の先にあるのは、蒼穹の下にひらひらとなびく細長い白い紐だ。
離宮の二階の窓から伸びているそれを見遣りつつ、アリーシャは腕を組んだ。
「この場合、あれを伝って離宮に戻るのと、正面の玄関から入るののどちらが適切かしらね?」
私はどちらでもいいんだけど、とアリーシャが続けると、ジーナは気まずそうに目を逸らした。




