第十章 思惑
重い足取りで自室へと戻ってきたアリーシャは、周囲の人間を下がらせ一人になった途端、崩れ落ちるようにそこにあった長椅子へと座り込んだ。
思考も足下もふわふわとして定まらず、床を踏んでいる感触すらも曖昧だ。
背もたれに体を預け、アリーシャは顔を仰向けた。
突然もたらされた情報に、頭がまだ追い付かない。……いや、追いつかないのは頭ではなく心なのかもしれなかった。
カーライルとの話の最中に飛び込んで来た報せは、まさしく寝耳に水だった。
主人と客が話し合っているところに割り込むなど、本来であれば侍女には許されぬ暴挙である。だが、それが他でもない国の最高権力者の指示によるものであれば話は別だ。
大至急、自分の許へ来るようにとの祖父の言葉にアリーシャはすぐさま動いた。
カーライルには申し訳ないが、しかし彼と国王である祖父のどちらが優先されるかなど言うべくもない。
中座する旨をカーライルに謝罪し、アリーシャは急ぎ祖父の執務室に足を向けた。
そして、こうして部屋へと帰ってきたわけなのだが――。
「……………………………」
正直、祖父の前から退席した後、自分がどこをどう歩いて来たのかも、はっきりとは覚えていない。
頬にかかる髪が邪魔で、アリーシャはそれをよけようと左手をあげる。視界に飛び込んで来た己の指は、小刻みに震えていた。
「あ……」
アリーシャの唇から、ぽつりと呟きが零れ落ちた。
もう一方の右手で、アリーシャは指先をぎゅっと握り込む。けれど冷え切った手の震えは、簡単には収まりそうにはなかった。
「……ジーナ」
組み合わせた指の上に額を寄せ、アリーシャは同級生の少女の名前を唇にのせる。
そして、きつく瞳を閉じた。
瞼裏に浮かぶのは、すでに何かを決めたであろう祖父の――いや、王の顔だった。
(お祖父様はきっと、この件では動かない。ラフカディオの手前、表面上は幾らかの手勢を向かわせるように見せるかもしれないけど、それだけでしょうね)
ラフカディオ侯爵家は長くこの国に続く名門貴族の一つだ。その家の跡取りと目されている嫡子が救援を求めてきたという事実は、蔑ろにできるような事案ではない。
ただそれは、対象が無辜の民であるという前提があっての話だ。
そう思い、アリーシャはぎゅっと唇を噛み締める。すると、馴染んだ声が聞こえてきた。
「――姫様」
とっさに顔を持ち上げ、アリーシャはその響きの主を見た。
アリーシャの青の瞳が、褐色のそれとぶつかる。
「エリー」
「随分、お悩みのようですね」
エリオットは静かにそう言って、こちらへと近付いて来た。余計な物音を一切立てない抑制された身のこなしは、やはり父親と似ている。
少しだけ離れた距離に立つ彼を、アリーシャは真っ直ぐに見返した。
「……エリーはどこまで知っているの?」
囁くように尋ねたアリーシャに、エリオットはちょっと沈黙してから答えた。
「偶然ですが、クルト・ラフカディオが登城してきたところに出くわしまして、途中まで彼を案内したんです。……まさか、宰相に直に話をしに来たとは思いませんでしたが」
エリオットの口振りはいつもと変わらないものだったが、最後に付け足された言葉だけが重かった。
「宰相とラフカディオの現当主は、学園時代からの親しい友人だというものね。まあ、そうでなければ通用しないごり押しだけど」
私的な間柄がどのようなものであれ、公的にはクルトは一介の侯爵家の子息に過ぎない。そんな彼が王城という公式の場で、国で最も高い官職に就いている相手に面会を求めたのだ。無理押しにも程があるが――、ここで問題なのは、彼がそこまでした理由だった。
「婚約者の身が、それ程心配なんだろう」
「……そう、なんでしょうね」
ふいに変わったエリオットの口調のせいか、零れ落ちた同意の言葉は自分で思っていたよりもずっと沈んだ響きだった。
「婚約者が誘拐されたのだもの。当然、取り乱すわよね」
先程祖父から聞かされた話を思い返しながら、アリーシャは慎重に声に出した。
一応人払いをしているとはいえ、これは大声で語れるような内容ではない。
一人の人間が連れ去られた。しかもそれは、普段街中を歩いているような市井の者ではなく、常であれば手厚い警護に護られている筈の貴族の令嬢だ。
「――ああ。何も知らなければ、そうするのが普通だろうな」
「じゃあ、普通じゃないのは誰?」
「訊く必要はないだろ。そうするまでもなく、答えはおまえが知ってる筈だ」
アリーシャは固く目を瞑った。エリオットに聞かせるというよりも、己の頭の中を整理するように声に出す。
「ソーウィン侯爵家は、このことを表沙汰にするつもりはないのよね。でもそれは、ジーナを攫ったのが誰で、その目的が何なのか、すでに分かっているから」
「そうだな。上辺だけは奔走して見せるだろうが、その実娘の救出には二の足を踏むだろう。下手に手繰り寄せてしまえば、周囲に気取られる可能性があるからな。侯爵家が密かに学園の襲撃に手を貸していたなんて、ばれたら身の破滅だ」
あっさりと口にされた事実に、アリーシャは弾かれたような勢いで顔をあげた。なのに、対するエリオットの表情は平静そのものだ。
「それは……」
「俺じゃなくて父の推測だ。春から集めていた情報に加え、今回の侵入者たちの遺留品や前後の動向などの情報を総合したらそうなった。にしても、ケンティフォリアと組むとはソーウィン侯爵も馬鹿な真似をしたもんだ」
苦々しい声音に、アリーシャも眉を寄せた。
「そんなに、形振り構わずに来るくらい、今年の冬は厳しいのかしら。食料自給率を上げようと、ケンティフォリアもあれこれ施策を打ってるとは聞いてるけど」
「取りかかったところで、一朝一夕で効果が出るようなものじゃないからな。ラポリスだって、目に見えるような成果を出せるまで五年かかったんだ。しかも、おまえの助言と援助があってそれだぞ。ケンティフォリアにはもう、待つ余裕なんてないんだろうよ」
その妙に淡々とした響きに、アリーシャが視線を動かすと、エリオットの瞳が微かに伏せられた。
「エリー?」
「これはラポリスに滞在していた実感なんだが、野盗と化した北の避難民は明らかに増えてる。食べる物にも事欠く上、更に重税まで課されて逃げ出して来たんだろうな。どんなに退けられても諦めようとはしない。あの様子を見れば、ケンティフォリアは相当追い詰められてるな」
だというのに、隣のこの国は変わらず豊かときているのだから、確かに面白くはないだろう。
それは分からなくもないが、まさかケンティフォリアがこのような手を使ってくるとは正直思いもしなかった。
「ケンティフォリアが狙ってくるとしたら、キルヴィックだと踏んでたんだけどね。あんな寒冷地でも収穫できる小麦が発見されて、生産の目処も立ったからそろそろ奪いに来るかもしれないとは警戒してたんだけど」
アリーシャの脳裏に、半年前に目にした一面の小麦畑が浮かんだ。先日に受けた報告によると、今年は天候に恵まれたこともあり、当初予定していたよりもずっと収穫が多かったという話だ。ラポリスやモラヴィアと隣接するあの土地を開墾すれば、ケンティフォリアはきっと目をつけると予測していたのだが、それは悠長すぎる想定だったか。
「それがまさか、身代金目的でアナトール国の貴族に手を出してくるとはね……」
「綱渡りの政治交渉で辛うじて成り立っている平和とはいえ、それでもアナトールが長年戦を経験していないのは事実だからな。国境を越えるような進軍ならこちらも国を動かして対処するが、貴族の数人が拐かされたくらいではそこまで大規模なことはしないと踏んだんだろ」
「……学園はある意味、金蔓がうじゃうじゃいるようなものだしね。外の護りは強固だけど、内部に手引きする者がいれば話は別だろうし」
幸いにも、あの日連れ去られた生徒は誰もいなかったわけだが、それは単に運が味方したからだ。
何か一つでも歯車が狂っていれば、今どんな状態に陥っていたか、想像すらしたくない。
「それだけ周到に準備して取りかかったのに、何の成果も得られなかったわけだ。そりゃまあ腹いせの一つや二つはしたくなるか」
「……ジーナ自身は何も知らされていなくとも、あっちはそう思うでしょうね」
同意を示しながら、アリーシャはあの日の様子を思い返した。しかし幾ら記憶を辿っても、彼女の驚きは本物だったように思えてならない。
(知らないまま、都合のよい目印にはされたかもしれないけど)
侵入者たちの数はそれなりにいたが、彼らが捕らえようとしていた人数はそう多くはなかっただろう。なんせ捕虜を生かして運ぶのは、相当な手間がかかるのだ。
効率を考えれば、目当てとなる獲物は当然高位の貴族となる。
だから彼らは、事前にその標的を選び出して狙いを定めていた筈だった。
(もしかして、とは思ってたけど、多分私もそのうちの一人だったんだろうなあ……)
ただ、幾らアリーシャの外見上の情報があったとしても、あの混乱の中で目的の相手を探し出すのは容易なことではない。
アリーシャの金の髪も青の瞳も特別珍しいものではないのだから、それだけを手掛かりに特定するのはただの無謀だ。
そして、そのための確実な印が、ジーナだったのだろう。
この学園内であれほど鮮やかな赤い髪をしているのは、あの兄妹くらいだ。男女の体格差と制服を見紛うわけもないし、ジーナが自分とよくいるということは多くの生徒が知るところでもあるのだから。
(とっさの判断だったけど、私がジーナの側を離れたのは正解だった訳か)
ただそれが、襲撃者たちにとっては想定外の痛手だったというだけで。
「ソーウィン侯爵の狙いは、私だったと思う?」
「純粋に人質としての価値を考えればそうだろう。数少ない直系の王族で王太子の娘だ。おまえの身柄と引き換えなら、どれだけ広大な領地でも要求できると思ってるだろ。正確に言うと、侯爵じゃなくてケンティフォリアだけどな」
アリーシャは深く息を吐き出した。
「状況からして、ケンティフォリアが切羽詰まってるのは分かるし、ソーウィン侯爵が手を貸してるのも事実なんだろうけど……。……でも、ねえ……」
そこを疑っているわけではない。ただ、分からないのは――。
「ソーウィン侯爵はどうしてケンティフォリアの側に付いているのよ?」
ソーウィン侯爵家は昔から続くアナトールの貴族だ。そんな名家が何故、自国に仇なそうとする他国に協力するというのか。
疑問を口にしたアリーシャに、エリオットの答えはあっさりしたものだった。
「いや、馬鹿だからだろ」
「……はい?」
アリーシャの目が点になった。
「疑うのは当然だけどな、今回ばかりはあまり深く思い悩むな。あれは目先の利益しか見えていない、正真正銘のただの馬鹿だ。馬鹿が考えてしたことなんて、真っ当な人間にはそもそも思いつきもしない内容だろう。普通なら想像もつかないような理由で行動するから馬鹿は馬鹿なんだ。そんな馬鹿の思考を探ったところで時間の無駄だ」
あまりにも立て続けに馬鹿を連呼され、アリーシャはどんな顔をするべきか迷った。
エリオットにここまで断言されるとは、ソーウィン侯爵とは一体どういう人物なのだろうか。
アリーシャの知る彼の子供たち二人が真人間なだけに、更に訳が分からない。
「それで、おまえはどうするんだ」
「――え?」
突如話を変えられ、アリーシャがエリオットを振り仰ぐと、物言いたげな褐色の瞳がこちらを見ていた。
真っ直ぐな視線はそのままに、エリオットははっきりと言い放つ。
「このまま事態を静観するか、そうでないのかと聞いてる」
その問いに、アリーシャは瞳を見開いた。
「問答無用で止めるつもりだったんじゃないの?」
驚きながらアリーシャが訊き返すと、エリオットは嫌そうに答えた。
「俺個人の希望を述べるなら、おまえにはおとなしくしていてもらいたいんだがな。でも、意に反することでおまえが黙ってすっこんでるとも思えない。この件について、陛下に対応する気があればまだ話は違ったんだろうけども」
「侯爵の企てに、ジーナは関わってないのに? 親の責を子に負わせるのは違うんじゃないの」
成人していない子の咎が親に及ぶことはあるかもしれないけど、とアリーシャが言うとエリオットの眉が上がった。
「完全に無関係とは言い切れないだろ。おまえに張り付くように指示したのは侯爵だし、娘はその意向に逆らおうとはしなかったんだから」
「それでも、それがいざというときに私を見つけやすくする為だなんて、彼女も思うわけがないでしょう。それに、学園内では何度もジーナに助けられたのよ。これくらい何てこともないわ」
アリーシャは迷わずそう言い切った。――そうだ。
口にしたとたんに、アリーシャの中で何かがすとん、と嵌まった気がした。
自分がどうしたいのか、自分は何に迷っていたのかが、ここでようやく定まった。
己に言い聞かせるように、アリーシャは言った。
「……そうよ、ケンティフォリアが何を企んでいようと、ソーウィン侯爵が何を狙っていようと、……ジーナが、何を思っていようと私には知ったことじゃないもの」
「……おい」
エリオットが苦い顔で睨んでくるが、アリーシャは気にしなかった。だってもう、決めたのだ。
アリーシャは身軽くその場を立ち上がった。
エリオットに向けてにこりと笑い、それからこう問いかける。
「それで、貴方はどうする?」
小首を傾げて尋ねたアリーシャに、返ってきたのは重い溜息一つだった。
そうと決まれば、後は行動に移すだけである。
だが、この半年ですっかり馴染んだ制服に袖を通し、部屋から出て来たアリーシャを見て、エリオットは不意を衝かれたような表情になった。
「その格好で行かれるのですか?」
「これが一番無難かと思って」
アリーシャの前世の感覚では、学園の制服は冠婚葬祭で通用するれっきとした礼服なので、問題はない。
「お見舞いに向かわれるということなら、もう少し華やかでもよいかと思うのですが?」
周囲の耳目を意識しつつ、さりげなく表向きの外出理由を口にするエリオットの目は雄弁だった。
意訳をすれば、それだと目立たないから別の服にしろ、というところだろうか。
彼がいわんとすることは分かっている。というより、アリーシャも同じ意見なのだが、そうはいかない事情があるのだ。
(目的のためにはもう少し人目を引く格好をしろってことでしょ? それはそうなんだけど、適した服がないんだってばっ……)
聞こえはしないことは百も承知の上で、アリーシャは心の内でそう弁明した。
ほんの少し前にも似たようなことを思ったが、アリーシャの手持ちの衣装というのは非常に偏っているのだ。
そのうえ前世から引きずっている庶民感覚も手伝って、極力自身を着飾ることについて避けて来たアリーシャは、全体的な衣類の総数もかなり少なかったりする。
たとえどんなに綺麗で素敵なドレスやアクセサリーであろうとも、それらは全て国民の税金を使って購入されたものなのだ。一度そう思ってしまえば、そんな胃が重くなるような物は出来る限り所有したくないというのがアリーシャの本音だった。
しかしそうして最低限に止めた結果、今回着て行くのに適した衣服が見当たらず、結果として制服を選ばざるを得なかったのである。
(あんなに服はあるのに、どうして、普通の服がないんだか……)
でも、今更そう嘆こうにも、そもそも着る機会のないような衣服を誂えることに異を唱えたのはアリーシャ自身であるので、これは自分で自分を責める他ない。
「いえ、あまり派手な格好ではむしろ失礼にあたると思うからこれで行くわ」
「そうですか」
余計な口出しはしない、というアリーシャの目の訴えは届いたらしく、エリオットは素直に首肯した。
そうしてアリーシャは短い時間でエリオットとのやり取りを済ませ、一人で馬車へと乗り込んだ。
背中を伸ばして座席についたまま、静かに息を吐き出す。
先方への先触れは、すでに出している。
体に伝わる微かな震動とともに、アリーシャの乗った馬車が動き始めた。




