黒玉
優二が目を覚ました時、既に太陽は頭上高くまで昇っていた。何もすることの無い休日を過ごさなければならない彼にとって、その煩わしい時間が短縮されたことはこの上もない幸福であったに違いない。その気になれば一日でも寝ていられるが、体が痛んで翌日の仕事に差し支える。ふらっと起き上がって湯を沸かしテレビをつける。新聞はもう何年も前からとっていない。
テレビの情報番組は防衛大臣の舌禍事件を繰り返し伝えていた。特に関心も無い。ただ習慣でつけておくだけだ。きっと独りの寂しさを紛らわせるための行動なのだろうが、本人はそれに気付いていなかった。いや、気付きたくないから気付かないのだ。
身支度を整えコーヒーを淹れる。たとえ朝じゃなくても目覚めたらコーヒー。それだけは若い頃からずっと続けてきた彼の習慣だった。コーヒーの味だけは楽しかった頃と変っていない。
何の予定も無い。それは昨夜帰ってきた時から寸分も変らない彼の予定だった。
パチンコ……いや、もうあまり金が無い。有り金を倍にして、なんていう余裕もない。金を使わずに何が出来るだろうか。彼は考えているようにみえたが、実は考えていなかった。既に答が分かっていたからだ。
「また散歩か……」
それもいい。金を使わず体力も使わず、それでいて体が鈍るのを予防する。気晴らしにもなる。
テレビを消し外へ出る。雲一つ無い天気で、散歩にはもってこいだ。
「こんなに天気が良くても、出来ることと言ったら散歩ぐらいか」
彼は自嘲気味に呟いてアパートの階段を降りた。向かう先は……これも決まっていた。近くにある寂びれた公園だ。そんなところに大の男が独りでいればいくらかは怪しまれるというものだが、この近所は子供も少なく、特別彼を警戒するような人もいなかった。
公園の入り口に差し掛かろうとした時、何か小さな光のようなものが茂みの中に吸い込まれていくのが見えた。モヤッとした輪郭のハッキリしない光が、まるで意思のあるモノのように特異な動き方で公園の植え込みに入っていったのだ。
それを見て、彼はようやく昨夜風呂の窓から見た光を思い出した。何か不可思議なモノを見たような感覚はあったのだが、疲れていたこともありあまり深く考えなかったのだ。それが、今目の前で奇妙な動きを見せた光と重なり合った。昼間のこともあり光はぼやけて見えたが、大きさや動きは明らかに昨夜見た光のそれと同じものであった。
彼は興味をそそられた。これから公園のベンチでボケッとする以外に予定の無い彼が、不可解な現象に興味をそそられることに何ら不合理なところはない。その動きに意思のようなものを感じた彼は、それが生物であることを前提に、こちらの存在を気付かせないようにそっと歩み寄って行った。
植え込みの外からは確認が出来なかったので、入り口から公園内に入って探索することにした。先程光が入って行ったと思われる場所へゆっくりと近付いて行く。すると、地面すれすれにパチンコ玉くらいの大きさの光がスッと降りたった。しばらく見ていると更に二つの玉が上空から近付いてきた。地面近くの玉と上空の二つは一つに合わさり、ピンポン球くらいの大きさになったかと思うとそのまま地面に吸い込まれるように消えてしまった。地表には先程の光が残したと思われる光が微かに残っていた。
「一体何だったんだ、ありゃ」
そう言って振り返ると、彼の胸の高さに黒い玉が浮かんでいた。
「これは……」
突っついてみようと右手の人差し指を出した途端、彼は生命の危険を感じて大きく身を退いた。ピンポン球くらいだった黒い球体が急激に膨張したのだ。生まれて初めての恐怖に、彼は身をよじって一目散に逃げ出した。とにかく一刻も早くあの黒い玉から遠ざからなければいけない。理由はわからないけど、彼の本能がそう告げていた。
黒玉が彼を追い掛けてきたのかどうかは分からないし、彼がどこへ逃げるべきだったのかも分からないことだが、とりあえず彼は自分のアパートを逃げ場所に選んだ。だが、光る玉と黒玉に何らかの因果関係があるとすれば、風呂で光球を目撃したことで彼のアパートも決して安全とは言えないのだが、彼には他に逃げ込む場所がなかった。
息も絶え絶えにアパートに辿り着き、急いで扉を閉めた。そのまま部屋の中央にへたり込み、肩で息をしていると、自分の視界に違和感を感じた。段々と冷静さを取り戻すうちに、またしても彼はパニックに襲われた。四つん這いで下を向いている自分の目に映っているのは、指の1本欠けた自分の右手だった。
「うわっ!」
何度見ても、右手の人差し指が第一関節の先くらいから無くなっているのだ。
切断面、と言ってイイのかどうか。骨も肉も見えているが、出血は全くない。もちろん痛みも無い。何しろ指が無い感覚が無い。指先だけが透明になってしまったような感覚だ。だが、指先があるべき空間に左手を差し出しても、やっぱりその空間には何も無い。
理由は全く分らないが、先程の黒玉に持っていかれたらしいことは何となく理解している。ただ、それ以上のことはいくら考えても何も分からないし、もちろんこれといった対策が浮かぶ筈もなかった。
「ヤクザの落とし前でもなかろうに……。ヒトには見せられんな」
先程の生命の危機とは全く異なる次元で、彼は自分の生活を憂慮していた。あまりにも非日常的な現象に、状況判断力が混乱してしまっている。彼はクローゼットの奥を漁り、革のグローブを出した。とにかく指先を隠さないといけない、と思った。その行動はかなり冷静であるかのように見えたが、彼が最初に着用したのがオープン・フィンガーのグローブであったことから、決して落ち着いてなどいないことが察せられた。
「とにかく。とにかく今日一日はおとなしくしてよう。今日をやり過ごそう。明日考えよう」
彼はぶつぶつ言いながらテレビをつけた。が、内容など全く見ていなかった。過度の混乱で頭が爆発しそうだった。怪異な現象については思考を停め、現実的なことに思いを廻らせることにした。
「明日、誰か相談できる人っているかな……」




