異変
一睡も出来ぬまま夜は明けた。
昨日、公園から必至の思いで逃げ帰り、そのまま食事も喉を通らずにひとしきり冷静になるよう努めた。落ち着いて考えてみれば、自分の狼狽ぶりがあまりにも滑稽に思えてきた。
自分にはこれといった夢や希望がある訳でもなく、将来に明るい光が射すような見込みも無い。動物的に死を怖れる本能から、“逃げる”という判断をしたのだけれど、自分が消えてしまったところで、それほど世の中に大きな影響があるわけでもない。それが証拠に、今朝仕事を休む旨を連絡したが、休む理由さえ訊かれなかった。潰れた店舗からの什器等の搬出作業だが、彼の代わりならすぐに都合がつくのであろう。
あの時、黒玉に呑み込まれて消えてしまっても良かった。
そう思うことで彼の精神状態は急速にリラックスしていった。思い切ってあの不可思議な存在に身をまかせてしまえば、現在の停滞した人生に何か変化がもたらされるのではないか、という奇妙な希望さえ湧いてくるのだった。
まず今日これから、どんな行動をとれば良いか。
警察や医者は頼りにならないことは、なんとなく見当がついていた。かと言って、マスコミとかでは物珍しさでチープな騒ぎになることも容易に想像できる。世間の目に晒されることによって人生の転機となるかも知れないが、他人に誇ることも出来ない、ただ珍しいだけの存在として衆人の関心を集めるのは面白くない。
そんなことを色々と考えてみたが、結局関心はあの不可解な黒玉の正体に移ってしまう。
「あいつに呑み込まれたら、何か解るかもな」
昨日は死の恐怖に怯えて震えていたが、今はその想いが薄らいでいる。あの玉に呑まれても死なない、という確信があるのだ。彼の右手人差し指の先は、確かに喪失してしまった。が、つながっている感覚は今でもありありと感じ取ることが出来る。失われた指先は、どこか別の空間、別の次元で生きている。そうであるならば、自分がまるごとそちら側へ行ってもそれが即死につながるとは思えないのだ。
あいつに呑み込まれてしまえば、指先も戻ってくるかもな、と思う。ならば思い切って黒玉を探しに出よう。それが彼の出した結論だった。
異変が起こったのはその時だった。
誰かに指先をつままれたような感覚があった。そう、失った右手人差し指の先を誰かが二本の指でつまんでいるのだ。感覚はあるが、もちろん見えている訳ではない。黒玉の向こうの世界で、誰かが自分の指先を見つけて怪しんでいるのだろう。それはちょっとした恐怖だった。向こうで自分の指を煮ようが焼こうが、コチラからは手出しが出来ないのだ。
「あ!痛い!いたたたた!」
何か細い棒のうようなもので突かれているようだ。血が出るような乱暴な危害は加えられていないが、執拗に突き続けている。面白がっているのかもしれない。
「畜生、早くあの玉を見つけないと」
黒玉の向こうの世界に行くことに、既に恐怖は無かった。先程自分の指先をつまんだのは、明らかに人間の指だった。玉の向うには人間がいる。玉に呑まれても死なないことは、これで確信に変わった。そして、自分の手の届かない世界で自分の指先をオモチャにしている奴に対して怒りが込み上げてきた。
一応革のグローヴをして外へ出る。向かうのはあの公園だ。今日もまたあの公園に現れるかどうかは全くわからないが、現時点では他に手掛かりが無い。ホタルのような小さな光と、ピンポン球くらいの黒い玉。どちらでも良い。とにかく探さなくては。
指先への攻撃はしばらくして止んだ。昨日、植え込みに吸い込まれていくホタルのような光を見た場所まで来たが、それらしいものは見られなかった。それはそうだろう。そんなに都合よく現れてくれるとは思わない。彼はそのまま公園の中へと入って行った。ぐるっと辺りを見回してもそれらしい現象は見られない。初めからそう簡単に見つかるわけも無いと覚悟を決めていたので、さして落胆することもなくベンチに腰掛けた。
「そうか、本でも持ってくれば良かったな」
そう言って、彼は今朝コーヒーを飲むことさえ忘れていたことに気が付いた。目覚めのコーヒーを忘れるなどということは、優二が大学を卒業して以来久しくなかったことである。現象だけ見れば“指先が無くなった”というだけの話ではあるが、この二日間は彼が生まれて初めて経験する混乱であった。
公園のベンチの上で、何の変化も無くただ時間だけが過ぎ去っていった。その間、彼は昨日からの出来事やこれからのことについて様々に思いを廻らしていた。とにかく黒玉に跳び込んでみよう、とは思ったものの、果たして自在に行き来が出来るものなのかどうか。もし行ったきりになった場合、別れた妻に引き取られている娘とは二度と会えなくなるのかも知れない。
「それは……イヤだな」
27歳で結婚した翌年に生まれた娘は今中学二年生だ。生活費を払うどころか自分の生活さえおぼつかないような情無い父親だが、それでも親として、これからも娘の人生を見守っていく義務がある、と思う。このまま消えてしまうのはあまりにも無責任だし、娘が可哀相だ。そう思うと一刻も早く娘に会いたい衝動に駆られた。が、今は授業中だ。学校に乗り込むなんてバカは出来ない。
とりあえずアパートに戻ろう。夜にでも妻子に連絡をとって一言言葉を交わしておこう。そう思って立ち上がりかけた時、また指先を痛みが襲った。今度は指先を持って地面に擦りつけているようだ。
「ちっ、このバカヤロウ。何しやがる」
彼は怒声を放って立ち上がった。
その時、前方に二つの小さな光が飛び交っていることに気付いた。来るか。彼は身構えて光の動向を注視した。そしてゆっくりと気取られぬようにそのホタルのような光に近付いて行った。ゆっくりとゆっくりと、慎重に……。
優二は自分の背後にある黒い玉が急激な膨張を遂げていることに全く気が付かなかった。




