第七話 王都の影と、燃える東区
一 王都クロシア
王都は、アルクが想像していたよりもずっと大きかった。
城壁の門をくぐった瞬間、人の波と喧騒が押し寄せた。馬車、行商人、騎士団の一団、露天商、子供たちが駆け回り、どこかで鐘が鳴っている。ヴォルタの何倍もの密度で人が生きている。アルクは十三年間、辺境の小さな港町に根を張っていたから、こういう場所に来るのは久しぶりだった。
「……迷うなよ」ヴィナが言った。「人混みに慣れてなさそうな顔をしてる」
「少し圧倒された」
「慣れれば平気だ。あたしは何度か来たことがある」
ルミは、アルクの服の襟元にちょこりと収まっていた。人が多い場所では、あまり外に出たくないらしい。小さな光の粒が、襟元でふるふると揺れている。
「ルミ、大丈夫か」
ぴょん。(大丈夫、という感じの跳ね方だった)
エラから渡された紙には、王都の魔法研究院にいる「ドラン・セイフ」という研究者の名が書かれていた。まずそこへ向かうことにして、二人は人混みをかき分けて歩き始めた。
二 謎の警告
研究院は王都の北区にある、と地図には書いてある。大通りを北に向かって歩いていたとき、広場の人混みでアルクは誰かにぶつかった。
「失礼、前を見ていなくて——」
振り返ったのは、フードを被った若い青年だった。二十代前半か。顔立ちは整っているが、目だけが笑っていない。
「こちらこそ」青年は軽く会釈して、さっさと人混みに消えた。
それだけだった。だが、その瞬間。
ルミが、アルクの襟元で激しく輝いた。
強い光だった。ルミがこれほど強く光るのは、霧牙の森でSランク魔物と対峙したとき以来だ。それも警戒の光ではなく——どちらかというと、「今すぐ確認しろ」と言っているような光だった。
「アルク」ヴィナが小声で言った。「財布を確認しろ」
アルクは懐に手を入れた。財布はある。中身も確かめた。問題ない。だが——指先に、薄い紙の感触があった。
引き出すと、小さく折りたたまれた紙だった。懐に入れた覚えはない。あの青年が、ぶつかった瞬間に滑り込ませたのだ。
ヴィナが覗き込んだ。アルクはゆっくり紙を広げた。
一行だけ、書かれていた。
賦活師よ。我々はあなたを見ている。王都を去れ。
二人は顔を見合わせた。
「……追跡されていたのか」ヴィナが声を低くした。
「ヴォルタを出たときから?」
「あるいはもっと前から」ヴィナは人混みを素早く見渡した。「今は動くな。目立つ」
アルクも周囲を確認した。誰かに見られている気配はない。でも気配がないこと自体が、かえって不気味だった。
ルミが、静かに光っていた。警戒しているが、直接の危険はないと言っているようだった。
「……賦活師が二百年前に消えた理由と、関係があるかもしれない」アルクは言った。
「おそらくな」ヴィナは紙を一度見てから、アルクに返した。「でも今すぐ動けるわけじゃない。まず研究院へ行く。情報を集める。それが先だ」
アルクは頷いた。紙を亜空間にしまった。
二人が歩き出した直後——王都の東の方角から、煙が上がった。
三 東区の火事
黒い煙が、空に広がっていく。
広場の人々がざわめき始めた。「火事だ」「東区だ」「また——」という声が聞こえた。また、という言葉が引っかかった。
「行くぞ」ヴィナが言った。
「研究院は」
「後でいい。あっちには人がいる」
ヴィナが人混みをかき分けて走り始めた。アルクもその後に続いた。
東区に近づくにつれて、煙の匂いが強くなった。木造の建物が密集している地区で、火の回りが早い。路地の角を曲がると、三棟の建物が激しく燃えていた。周囲の人々が水桶を運んでいるが、追いつかない。
「中に人が残ってるか」ヴィナが通行人に聞いた。
「一番奥の建物に……老夫婦が。逃げ遅れたと言っていた人がいて……」
一番奥の建物は、すでに炎が外壁を舐めていた。入口の木材が燃え始めている。
「あたしが行く」ヴィナが言った。
「肩が」
「動く」
「でも万全じゃないだろ」アルクは言った。「俺が行く」
「お前に戦闘能力はない」
「戦闘じゃない。救助だ」
言い終わる前に、アルクは走っていた。
入口の前で、ルミが激しく光った。「行くな」と言っているのか「行け」と言っているのか、今回だけはわからなかった。アルクは炎の中に飛び込んだ。
四 炎の中で
熱い。当たり前だが、建物の中は地獄のような熱気だった。煙が視界を塞ぐ。アルクは腕で口を覆いながら、奥へ進んだ。
炎が右の壁を這い上がっている。天井の一部が焦げ、軋む音がした。時間がない。
「誰かいますか!」
奥の部屋から、かすかな声がした。
アルクは駆け寄った。扉を開けると、床に倒れた老人と、その傍に座り込んだ老婆がいた。老人は足首をひねったらしく、立てない。老婆は老人を支えようとして動けなくなっていた。
「つかまってください」
老人を抱え上げた。この世界の体は頑丈で、非力ではない。老婆に肩を貸して、出口へ向かう。
廊下に戻った瞬間、天井の梁が落ちてきた。
直撃する、と思った。
その瞬間——きらきらきら、と銀の光が散った。
梁が、何かに弾かれた。コースがわずかにずれて、アルクたちの横に落下した。床が砕け、破片が飛ぶ。でも、直撃はしなかった。
老婆が悲鳴を上げた。老人が息を呑んだ。アルクは動じずに出口へ向かった。
外に出た瞬間、周囲の人々から声が上がった。ヴィナが駆け寄ってくる。
「無事か」
「なんとか」
「梁が落ちたのが見えた。死んだかと思った」
「何かが弾いてくれた」
ヴィナはアルクの顔を見た。煤で黒くなっている。眉毛が少し焦げていた。「……お前、一応もう少し自分の心配もしろ」
「してる」
「してない顔だ」
老夫婦が「ありがとう、ありがとう」と繰り返していた。アルクは老人の足首に手を当てた。ルミの力が灯る。捻挫の痛みが和らぐ程度だが、老人の顔が少し楽になった。
ルミが、アルクの肩でふるふると震えていた。怖かったのか、それとも安堵したのか。
「……大丈夫か、ルミ」
ぴょん。でも、いつもより小さな跳ね方だった。
五 燃えた理由
火事が収まってから、近隣の住人に話を聞いた。
「また、って言ってたのが気になった。最近こういうことがあるのか」ヴィナが聞いた。
住人の一人——中年の男が、渋い顔で答えた。「……先月から、東区でもう三度目だ。いつも夜か昼間に、突然燃え始める。原因不明って言われてるが」
「原因不明?」
「騎士団が調べてるらしいんだが、何も出てこないって。でも俺たちはわかってる。魔法で火をつけてる奴がいるんだ。いつも同じ焦げ方をするから」
ヴィナがアルクを見た。アルクも同じことを考えていた。
賦活師よ、王都を去れ、という警告。そして直後に起きた火事。
偶然ではないかもしれない。でも、なぜ東区を燃やす必要がある。アルクへの威圧なのか、それとも別の意図があるのか。
「……情報が足りない」アルクは言った。「研究院へ行こう」
「そうだな」
二人は東区を後にした。背後で消火の声が続いていた。
◇ ◇ ◇
その夜、宿の部屋でアルクは天井を見上げていた。
ルミが枕元に浮かんでいる。今夜は、いつもより近い場所にいた。
「……ルミ」
ぴょん。
「今日、梁を弾いたのは誰だ。お前じゃないよな」
ルミが、少し間を置いてから、ぴょん、と跳ねた。「違う」という意味だと思った。
「防御の守り手か」
ルミは答えなかった。でも、ふわふわと揺れた。肯定とも否定とも取れない揺れ方だった。
「……何人、眠ってるんだろうな」
ルミは何も言わなかった。アルクは目を閉じた。体の奥に意識を向ける。いくつか、気配がある。眠っている、温もりのような気配が。いくつあるのか、まだ正確にはわからない。でも、確かにそこにある。
全員が目を覚ましたとき、俺は何者になるのだろう、とアルクは思った。
答えは、まだわからなかった。ルミだけが、静かに光っていた。
第八話予告
王都の研究院で、研究者ドランが語る賦活師の真実。二百年前、彼らは仲間を癒し、守り、数倍に強化する《付与》で軍の要だった。だが戦争の勝敗すら決める力ゆえに恐れられ、記録もろとも組織的に消された――それを彼らは《大消去》と呼ぶ。
研究院を出た後、アルクは自分の「付与」を試す。ヴィナの剣に「速く」と念じるだけで、一振りが明らかに鋭くなる。まだ片鱗。だが、確かに目覚め始めている。
そんな矢先、ヴォルタから一通の手紙。霧牙の森の魔物が、街へあふれ出しているという。「……守り手頼みはいい加減にしろ」と説教しつつ、耳を赤くするヴィナ。心配を見抜かれて一言、「うるさい。寝ろ」。
森で、何かが動き出している――。




