第七十話 響け、二つの光
一 追い詰められて
白霊狼の爪が、ネッサに迫った。
時間が、引き伸ばされたように感じた。
逃げられない。アルクの距離では間に合わない。ヴィナも、ガドルも遠い。
ネッサが、とっさにコレンを抱きしめた。自分の体で、コレンを守ろうとした。
その瞬間——喚魂環が、灼熱した。
ネッサの左腕の腕輪が、燃えるような光を放った。
「——コレン……!!」ネッサが叫んだ。「あたしに、守らせて!! ううん——一緒に、みんなを守ろう!!」
コレンが、咆えた。
炎が、爆発的に膨れ上がった。
いつもの、火の狐ではない。炎が渦を巻き、形を変え、巨大化していく。白霊狼に匹敵するほどの——巨大な、白銀の炎の狐が、ネッサの前に顕現した。
「《焔狐顕現》……!!」ネッサは、自分でも信じられないという顔で言った。「コレンが——大きく……!!」
巨大なコレンが、白霊狼の爪を、前脚で受け止めた。炎の脚が、爪を弾き返す。
白霊狼が、よろめいた。
「……ネッサ、やったのか」アルクは言った。
「わかりません!! でも——コレンが、本気になったら、こうなりました!!」ネッサは言った。喚魂環を握りしめている。「喚魂環が——コレンの本当の力を、引き出してくれた!! でも——長くは保ちません!! 消耗が、すごい!!」
「十分だ!!」アルクは言った。「コレンが時間を作ってくれている間に——核を、なんとかする!!」
でも——どうやって。光は芯まで届かない。
その時。
アルクの手のひらが、熱くなった。
二 キラの飛躍
キラが、アルクの手のひらに現れた。
今までとは、何かが違った。
丸い目が、はっきりとアルクを見ている。虹色のたてがみが、淡く輝いている。小さな手を、ぎゅっと握って——開いた。
「キラ……?」アルクは言った。
キラが、アルクの放つ浄化の光を見た。それから
——ルミを見た。そして、白霊狼を見た。
ルミが、息を呑んだ。
「アルク……!!」ルミは言った。「キラが——あなたの光を、複製しようとしてる!! でも、今までと違う!! 複製した光を——分けて、増やそうとしてる!!」
「増やす?」
「うん!! 一つの光を、たくさんの細い光に分けて——別々の角度から、同時に撃ち込む!! そうすれば——」
「あらゆる方向から、核を狙える」リィナが叫んだ。「外から一方向では届かなくても、全方向から同時に貫けば——澱みの核を、囲い込める!!」
「キラ——できるか!?」アルクは言った。
キラが、ゆっくり、確かに、頷いた。
はっきりと頷いた。
「ルミ、力を貸してくれ!! アルファ、増幅を頼む!!」
「うん!!」「『——任せとき!!』」
アルクが、目を閉じた。全力で、与える。
白い光が、手のひらに集まった。
キラが、その光に、小さな両手で触れた。
光が——分かれた。
一本の光が、二本に。二本が、四本に。四本が、八本に。十六本に。三十二本に。
無数の細い光の糸が、キラを中心に放射状に広がった。蛍火のように、雪原に舞った。
「……綺麗」ネッサが、巨大コレンを操りながら、思わず呟いた。
光の糸が、それぞれ別の角度から、白霊狼に向かって飛んだ。
全方向から。あらゆる隙間から。獣の体を、優しく包み込むように。
黒い筋が、内側から薄くなっていく。
「届いてる!!」ランスが叫んだ。「芯に——核に、光が届いている!!」
白霊狼が、咆哮した。
でも——今度は、苦痛の咆哮ではなかった。
長い、長い——解放の咆哮だった。
三 白霊狼の解放
黒い筋が、霧のように剥がれ落ちていった。
雪原に散った黒い澱みが、アルクの浄化の光に触れて、消えていく。
白霊狼の体が——本来の、雪のような白さを取り戻した。濁っていた赤い目が、澄んだ金色になった。
巨大な聖獣が、ゆっくりと、雪原に伏せた。
もう、暴れない。
アルクが、近づいた。
白霊狼が、金色の目で、アルクを見た。それから——大きな頭を、ゆっくりと下げた。
千年、山を守り続けた獣の、礼だった。
「……ありがとう」アルクは言った。「もう、一人で背負わなくていい。澱みは、俺たちが少しずつ流していく」
白霊狼が、低く、優しく鳴いた。
そして——立ち上がり、山の上へ、ゆっくりと帰っていった。雪を踏む足音が、もう苦しげではなかった。
「……浄化、完了です」ランスが、測定器を見て言った。声が震えていた。「いや——完了どころじゃない。白嶺の澱みが、ほぼ全て消えた。聖獣自身が、千年分の浄化力を取り戻して——一気に、山を清めた」
「四か所目」カインが言った。「残り、三か所」
ルミが、アルクの肩で、ぱたぱたと羽を揺らした。
「アルク——防御の守り手が、はっきり楽になった」ルミは言った。「今までで、一番。城塞地下の二つ目の石が——澱みの供給を断たれて、力を失い始めてる」
「兵糧攻めが、効いた」アルクは言った。
巨大だったコレンが、しゅるしゅると元の大きさに戻った。ネッサの腕の中に、ぽすんと落ちた。
「コレン!! すごかったよ!!」ネッサが抱きしめた。「大きいコレン、かっこよかった……!! でも、疲れたよね、ごめんね!!」
コレンが、ぐったりしながらも、嬉しそうに尾を揺らした。
そして——キラ。
キラは、アルクの手のひらの上で、ふらふらと揺れていた。力を使い果たしたらしい。でも——小さな手を、ぎゅっと握って、得意げに胸を張っていた(産毛のかたまりなりに)。
「キラ……!!」ネッサが駆け寄った。「すごい!! すっごい活躍だった!!」
「成長したな、キラ」アルクは言った。「複製だけじゃなく——増やして、広げられるようになった」
キラが、ゆらゆらと体を揺らした。それから——アルクの指を、ぎゅっと握って、満足そうに、気配に戻った。
「あの子は、もう立派な守り手だ」ルミは言った。少し、お姉さんぶった声で。「あたしの後輩として、誇らしい」
「『先輩風吹かせとるなあ!!』」アルファが言った。
「事実を言ってるだけ」ルミは言った。
「照れてない」
「何も言ってない」アルクは言った。
「……今のは、自分で言った」ルミは言った。
四 焚き火と、ライナの距離
その夜。
安全を確保して、屋敷の扉を開いた。全員で中に入る。
屋敷は、また少し広くなっていた。食堂の隅に、小さな暖炉がもう一つ増えていて、その前に、ふかふかの長椅子が置かれていた。
「長椅子だ!!」ネッサが飛び込んだ。「ふかふか!!」
「ルミ、これは?」アルクは言った。
「みんなが、食事の後にくつろげる場所が欲しいと思って」ルミは言った。少し照れたように。
「——疲れたとき、ここに座れる」
「気が利くな」ガドルが言った。さっそく長椅子に座って、ミニチュア斧を眺めた。
そして——食堂の片隅に、見慣れない扉が一つ増えていた。
「あの扉は?」リィナが言った。
「……ライナの部屋」ルミは言った。
全員が、ライナを見た。
「俺は——いらないと言ったはずだ」ライナは言った。
「言われても、作った」ルミは言った。きっぱりと。「ここにいる間は、休む場所が必要でしょ。使うか使わないかは、ライナが決めればいい」
ライナは、しばらく扉を見ていた。何も言わなかった。
今夜は——揚げたての天ぷらにした。海老、かぼちゃ、茄子、椎茸。さくさくの衣に、温かいつゆ。それに、炊きたての白米と、わかめの味噌汁。
デザートは、いちご大福。もちもちの餅に、あんこと丸ごとのいちご。
飲み物は、温かいほうじ茶。
ネッサが言った。「さくさく!!」
「揚げたては、特別だ」アルクは言った。
ヴィナが、海老天を一口食べた。「……さくっと音がする。中は、ふわっとしている。なぜ、こんなに違うんだ、同じ海老なのに」
「衣と、油の温度だ」アルクは言った。
「奥が深いな」ヴィナは言った。もう一本取った。
ルミが、いちご大福の前にちょこんと座った。「……あんこ」
「食べるか」アルクは言った。
「……ちょっとだけ」ルミは言った。
「照れてない」
「何も言ってない」
「言いそうだったから先に言った」
アルファが、いちご大福に飛び込んだ。
「『——もちもちや!! 中にいちご入っとる!! なんやこの幸せ!!』」
「飛び込むな」アルクは言った。
「『これは飛び込む価値あるやつや!!』」
キラは、気配のままだったが——ふわりと現れて、小さな手で天つゆを少しすくって、舐めた。ぽっと、体が温かそうに光った。
「キラも食べてる!! かわいい!!」ネッサが言った。
ライナは、一人、長椅子から離れた壁際で、天ぷらを食べていた。
ネッサが、皿を持って近づいた。「ライナさん、いちご大福、食べました!?」
「……甘いものは、いい」
「だめです!! 今日のライナさん、すっごく頑張ってたから!! 食べてください!!」ネッサが、大福を一つ、ライナの皿に乗せた。
ライナは、少し躊躇した後、一口食べた。
動きが、止まった。
「……」
「どうですか!?」
「……餅の中に、果物が入っている」ライナは言った。「こんな食い方が、あるのか」
「でしょう!? でしょう!?」
ライナは、残りを静かに食べた。それから、ぽつりと言った。
「……今日のお前は、無謀だった」ライナは、アルクに言った。「あの獣を、殺さずに救うなど——百回やって、九十九回は誰かが死ぬ選択だ」
「そうかもしれない」アルクは言った。
「帝国なら、絶対にしない判断だ」
「知っている」
「……だが」ライナは、視線を皿に落とした。
「あの獣が、山に帰っていく姿を見たとき——俺は、少しだけ、お前の選択を、羨ましいと思った」
全員が、静かになった。
「ライナさん……」ネッサが言った。
「言葉の綾だ」ライナは、すぐに言った。「俺は、まだ帝国の人間だ。それは、変わらない」
ライナは立ち上がり、自分の——ルミが作った部屋へ、消えていった。
扉が、静かに閉まった。
「……使ったな、部屋」ガドルが言った。
「使った」バルガが言った。
「素直じゃない男だ」ヴィナが言った。少し、笑っていた。
その夜遅く。
アルクが屋敷の窓辺に立っていると、ルミが肩に降りてきた。
「アルク」ルミは言った。
「なんだ」
「……一つ、気になることがある」ルミは言った。「白嶺を浄化したとき——あたし、感じたの。亜空間の、すごく奥の方で——何かが、ほんの少し、震えた」
「キラのことか?」
「ううん」ルミは言った。「キラじゃない。キラより、もっと——奥。あたしも、よくわからない場所。今まで、一度も触れたことのない、深いところ」
「何かが、いるのか」アルクは言った。
「いる、のか——眠ってるのか——わからない」ルミは言った。「でも、浄化が進むたびに、その気配が、少しずつ……はっきりしてくる気がする」
アルクは、窓の外の白い光を見た。
「……まだ、見ぬ守り手がいる、ということか」
「わからない」ルミは言った。「でも——アルクが与え続けるほど、世界が、応えようとしている。そんな気がするの」
その時。
部屋の扉が、ノックされた。カインだった。顔が、硬い。
「アルク——」カインは言った。「父からだ。緊急だ」
「教えてくれ」
「……『ヴァルゴが、新しい手を打った。封印石の三つ目を待たず、賦活師を消す方法を、見つけた。連続攻撃で消耗させるのではない。もっと、確実な方法だ。——お前たちの仲間の中に、すでに、その鍵がある』」
アルクは、息を呑んだ。
「仲間の中に——鍵?」ヴィナが、いつの間にか戸口に立っていた。剣に手をかけている。
「どういう意味だ」
誰も、答えられなかった……。




