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第五話 王都への道で、霧が牙を剥く

一 出発

 ヴォルタを出た朝は、よく晴れていた。

 港の匂いが薄れていき、街道の石畳が土の道に変わるころ、アルクは初めて「旅に出た」という実感を持った。左手に海、右手に丘陵の緑。潮風が心地いい。灰爪亭で荷運びをしていた十三年間、こうして遠くを見ながら歩いたことなど、ほとんどなかった。


 ヴィナは黙って歩く。アルクも黙って歩く。この二人の間には、まだ「沈黙が気まずい」という感覚がなかった。お互いに、余計なことを言わない性質らしかった。

 ルミはアルクの肩のあたりをふわふわと漂っていた。たまに草花に近づいてはぴょこぴょこ跳ねている。

「……ルミ、草に話しかけてるのか」

 ぴょん。

「草に友達はいないと思うぞ」

 ぴょん、ぴょん。(反論らしい)

 ヴィナが横目で見た。「……お前、あれと普通に会話してるな」

「会話になってるかどうかは微妙だが」

「ぴょんぴょんしか言わないのに、なんで意味がわかるんだ」

「なんとなく、伝わってくる。言葉じゃなくて……温度みたいなもので」

 ヴィナはしばらく考えてから言った。「……まあ、わからんでもない。犬も吠えるだけだが、何を考えてるかはわかる」

「犬を飼ってたのか」

「昔な」

 そこで会話が終わった。ヴィナの目が少し遠くなったのを、アルクは見た。追及はしなかった。


二 霧の異変

 昼過ぎに、街道が一時的に丘の裏側に入る区間に差しかかった。この道はヴォルタと王都を結ぶ主要街道だが、一部が《霧丘きりおか》と呼ばれる地形を通る。昼でも霧が出やすい地形で、視界が悪くなることで知られていた。


 地図では問題ない区間のはずだった。だが。

「……霧が、濃い」ヴィナが足を緩めた。「この時期にしては、おかしい」

 アルクも感じた。白い霧が、道の前方から染み出すように広がってきている。歩くにつれて視界が狭まり、五メートル先が霞み始めた。

「引き返した方がいいか」

「いや」ヴィナは剣の柄に手を置いた。「この区間は一本道だ。引き返しても、迂回すると三日かかる。……ただ、警戒しながら行く」


 アルクは頷いた。亜空間から取り出した薬草袋を肩に掛け直す。これは今まで運んできた習慣で、手が塞がるのを避けるためだ。戦闘になっても荷物にならないよう、大きな荷物類は亜空間に入っている。


 ルミの光が、少し強くなった。


 それが「警戒の合図」だと、アルクはこの旅で学んでいた。

「……ルミが反応してる」

「何かいるな」ヴィナは声を落とした。「左だ。茂みの中に、何かいる」

 アルクには見えない。聞こえない。でもヴィナには感じられるらしかった。Aランクの剣士の感覚は、アルクの比ではない。

「どのくらいの大きさだ」

「でかい。複数じゃない……一体。だが、一体で十分に嫌な気配がする」

 茂みが、揺れた。


三 《霧蜘蛛》との遭遇

 現れたのは、蜘蛛だった。

 ただし、人が見上げるほどの大きさの蜘蛛だ。体長は二メートルを超え、八本の脚が地面を掴むたびに、石畳がびりびりと震える。体の表面が霧と同化するような灰白色で、目が八つ、すべてが赤く光っていた。


 《霧蜘蛛きりぐも》。Bランク魔物。本来は深い森の奥に生息するはずの魔物で、こんな街道沿いに出るのは異常だった。

「……Bランクか」ヴィナは剣を抜いた。「あたし一人なら問題ない。だがお前は――」

「後ろで見てる」

「その方がいい」

 ヴィナが踏み込んだ。速い。霧蜘蛛の右の前脚が薙ぎ払われるより先に、ヴィナはすでに懐に入っていた。剣が閃く。霧蜘蛛の左の目が二つ、横に並んだところを狙った一撃。

 だが、霧蜘蛛は素早く頭を引いた。剣が右の目一つだけを掠める。

 ギャッ、という金切り声が上がり、霧蜘蛛が後退した。そして――腹部から糸を吐いた。

「っ」

 ヴィナは横に跳んで躱した。だが糸の一部が左腕に絡みついた。引っ張られる。霧蜘蛛が糸を引き、ヴィナの体が浮きそうになる。

「ヴィナ!」

 アルクは咄嗟に駆け出した。何ができるかわからない。でも、体が動いていた。


 糸を掴もうとした、その瞬間。

 アルクの体の周りで、きらきらと光が散った。

 光の粒が糸に触れた瞬間、糸が――燃えるように消えた。音もなく。痕跡もなく。ただ、あった糸が、なくなっていた。

 ヴィナが自由になった。

「今のは……」ヴィナが息をつきながら言った。

「俺じゃない」アルクは自分の手のひらを見た。「……守り手の、誰かだ」

 ルミが、きゅい、と鳴いた。違う、と言っているようだった。ルミは回復が専門だ。今のは別の誰かがやった。アルクの周りに、まだ眠っている何かが。

 霧蜘蛛が再び腹部を膨らませた。糸を吐く準備をしている。


「アルク、伏せろ!」


四 逆転

 アルクが地面に伏せると同時に、頭上を白い糸の束が飛び過ぎた。着弾した岩に絡みつき、岩が地面から引き抜かれる。あの糸の引力が体に当たっていたら、と思うと背筋が冷えた。


 ヴィナは隙を逃さなかった。霧蜘蛛が糸を吐いた直後、腹部が一瞬無防備になる。ヴィナはそこに向かって真っ直ぐに走り、下から跳び上がるように剣を突き込んだ。

 ずぶりと、深く刺さった。

 霧蜘蛛の咆哮が、霧を震わせた。体が激しく痙攣し、八本の脚がばたばたと地面を叩く。ヴィナは剣を引き抜きながら後退した。体液が飛散する。黒っぽい、粘度の高い液体が地面に散った。


 霧蜘蛛は数秒暴れた後、ゆっくりと動きを止めた。

 霧が、少し晴れた気がした。

 ヴィナが膝をついた。左腕を押さえている。糸に引っ張られたときに、肩を痛めたらしい。

「大丈夫か」アルクは駆け寄った。

「……肩が外れかけた。骨は無事だと思うが」

「見せてくれ」

 アルクは肩に手を当てた。ルミの力が、じわりと指先に灯る。外れかけた関節をそっと押しながら、光を送り込む。完全に治すのは無理だが、炎症を抑え、腱を落ち着かせる程度には届く。ヴィナが小さく息を吐いた。


「……ありがとう。かなり楽になった」

「完全じゃない。王都で医者に診てもらった方がいい」

「わかった」ヴィナは立ち上がり、霧蜘蛛の亡骸を見た。「……Bランクがこんな場所に出るのはおかしい。本来の生息域から大きく外れてる」

「何か原因があるのか」

「わからない。だが、これ一体だけとは限らない」ヴィナは霧の奥を睨んだ。「急ぐぞ。霧丘を抜けるまで、気を抜くな」


 アルクは頷いた。ルミが肩の上で、いつもより強く光っている。警戒を続けているらしかった。

 二人は足を速めた。霧の中を、ゆっくりと石畳が続いていく。


◇ ◇ ◇

 霧丘を抜けたのは夕刻近かった。Bランク魔物がもう一体出たが、ヴィナが素早く片付けた。アルクは後ろで構えていたが、出番はなかった。ただ、霧蜘蛛の糸がアルクに向かったとき、また例の光が散って、糸を消した。

 見えない守り手が、ちゃんとそこにいる。アルクはそのことを、じわじわと実感していた。


 宿場町が見えてきた。小さな集落だが、明かりが温かい。

「今夜はここで泊まる」ヴィナが言った。「肩を冷やしたい」

「ああ。……腹も減った」

「それは同意する」

 集落の小さな食堂に入った。この世界の素朴な料理だ。骨付き肉のシチューとパン。アルクはそれを黙々と食べながら、今日の戦闘を思い返した。


 守り手の誰かが、糸を消した。ルミとは別の、まだ眠っている何かが、少しだけ動いた。

 そしてもうひとつ、気になることがあった。

 霧蜘蛛がアルクに向かって跳びかかろうとした瞬間があった。そのとき、アルクは咄嗟に「退け」と思った。思っただけで、何もしていない。でも霧蜘蛛が、まるでぬかるみに足を取られたように動きを鈍らせた。気のせいかもしれない。でも。


(俺は……何かを、使えるようになりつつあるのか)


 食事を終えて宿に戻る道、アルクは夜空を見上げた。星が出ている。ルミが肩の上で、ふわふわと揺れていた。

第六話予告

宿場町テルダ。治った肩を労う夕食の席で、ルミが「ご褒美」とばかりに取り出したのは、黄金色にぷるぷる揺れるプリン。「甘いのに苦い? 矛盾してる」と眉を寄せつつ、ヴィナはすっかり夢中。

そんな穏やかな時間に、白髪の老婆が一人。アルクの肩をじっと見つめ、顔色を変えてこう告げる。

「賦活師――本物の、生きている賦活師だ」

二百年前に途絶えたはずの職業。だがその記録は、自然に消えたのではなかった。何者かが、消す必要があったのだ――。


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