第五十三話 霧牙の森、原点への帰還
一 ゴウダと、変わったもの
ゴウダが灰爪亭に来たとき、アルクはすぐに気づいた——この男は、前に会ったときと何かが変わっていると。
目が、違う。以前は「Aランクの英雄」という余裕が滲んでいた。今は、もっと研ぎ澄まされた、静かな目をしていた。
「怪我は完全に治ったのか」アルクは言った。
「ああ。あのとき、お前に治してもらってから——体の回りが、前より良くなった気がしている」ゴウダは言った。「あの夜から、俺はずっと考えていた。霧牙の森で、Aランクのパーティが全員やられた。それでも俺たちが生きているのは、お前が来てくれたからだ」
「仲間が——」アルクは言いかけた。
「一人で来た」ゴウダは言った。「武器も魔力も満足に使えない状態で、Sランクの魔物がいる森に。——俺は、それを忘れたことがない」
アルクは何も言わなかった。
「だから——今度は、俺が行く番だ」ゴウダは言った。「ヴォルタの冒険者として、帝国が何かしようとしている場所を、黙って見ていることはできない」
「危険だぞ」ヴィナが言った。「四将の筆頭ヴァルゴが動いているかもしれない」
「わかっている」ゴウダは言った。「でも——」
「一緒に行こう」アルクは言った。「力になってもらえる」
ゴウダが、少し驚いた顔をした。それから、頷いた。「ありがとう」
二 出発前の朝食——屋敷にて
出発の前の朝、全員が屋敷の大きなテーブルを囲んだ。
コレンが、テーブルの端に座って、尻尾を揺らしていた。ゴウダがコレンを見て、目を丸くした。
「それは——召喚獣か? なぜ、召喚符もなしに」
「自由に出入りできるようになったんです!!」ネッサが言った。
「こういう存在なのか、召喚獣というのは……」ゴウダは言った。
「コレンは特別ですよ!!」ネッサが胸を張った。
アルクが風呂敷を広げた。出発前だから——体が動くものがいい。
出てきたのは、鮭の塩焼きだった。皮がぱりっと焼けて、中身はふっくら。脂が乗っている。
それに、白米のおにぎりが全員分。具は梅干しと昆布。
味噌汁は、なめこと豆腐。
そしてデザートに——今日は特別に、みたらし団子と、抹茶プリン。
「今日もおいしそう!!」ネッサが言った。
「戦いの前は、シンプルに腹を満たす方がいい」アルクは言った。「派手なものより、染みるものを」
「ゴウダさん、この焼き魚……鮭っていうんですよ!食べてみてください!!」ネッサが言った。「外がカリカリで中がふわふわで——」
「焼き魚は知っているが、こういう焼き方は——」ゴウダが一口食べた。「……うまい。皮がこんなにパリッとなるものなのか」
「前の世界の焼き方らしいです!!」
「前の世界……」ゴウダはアルクを見た。「お前は、どこから来たんだ」
「夢の中の記憶から、という感じだ」アルクは言った。
「不思議な男だな」ゴウダは言った。「だが、その料理のおかげで助かっている気がする。体が、温まる」
ルミが、鮭の横にちょこんと座った。「あたし、鮭好き」
「初めて言ったな」アルクは言った。
「いつもアルクが食べてるのを見てて、気になってた」
「言えばよかった」
「……恥ずかしかった」
「何が」
「食べたいって、言うのが」ルミは言った。翼で顔を隠した。
「照れてない」
「何も言ってない」
アルファが、みたらし団子に飛びかかった。
『——あまっ!! 出発前から最高や!!』
「戦いの前は落ち着け」アルクは言った。
『落ち着いとるで!! これが落ち着いた状態や!!』
ゴウダが、その光景を見て——初めて、くつろいだ表情で笑った。「……楽しいパーティだな」
「うるさいですが、楽しいです!!」ネッサが言った。
三 霧牙の森、再び
霧牙の森の入口に立ったとき、アルクは不思議な気持ちになった。
ここが、始まりだった。
ランク外の荷運びが、霧の中に踏み込んで——ヴィナと出会った。ルミが初めて言葉を持った夜も、この森の近くだった。
「懐かしいな」ヴィナが言った。静かに。「あのとき——正直、死ぬかと思った」
「俺も」アルクは言った。
「でも来た」ヴィナは言った。「なぜ来たんだ。あのとき」
「誰かが行かないといけなかったから」アルクは言った。
「それだけか」
「……それだけだった、かもしれない」アルクは言った。「でも今は——あのときここに来て、よかったと思っている」
ヴィナは少し間を置いた。「……あたしも、そう思っている」
ネッサが二人の間をちらちら見ていた。ゴウダが「どうした」と聞いた。ネッサは「なんでもないです!!」と言った。
全員で、森に入った。
四 深部への道
霧牙の森の深部は、かつてより霧が濃かった。
封印石が設置されているのかもしれない、とリィナが言った。「封印石の魔力が、この森の魔力と共鳴して——霧を増幅させているのかもしれません」
「ルミ、感じるか」アルクが言った。
「うん」ルミは言った。小鳥の姿から光の粒になって、周囲を探った。「……深部に、大きな魔力がある。人工的なものが混じってる。帝国の部隊——いる。複数。でも」
「でも?」
「それ以上に——強い気配が一つ。その気配が、全部を統率している感じがする」
「ヴァルゴか」ゴウダが言った。
「わからない。でも——今まで感じた帝国の兵士とは、全然違う」
「慎重に進もう」ヴィナは言った。
深部に向かって一時間ほど進んだとき、前方に光が見えた。
木々が開けた場所に、帝国の部隊が陣を張っていた。黒い鎧の兵士が五十人以上。そして——その中央に、一人の人物が立っていた。
白髪の男だった。年は六十前後か。黒い礼装に身を包み、手に細い杖を持っている。表情は穏やかだが——その目が、全く笑っていない。氷のような、冷たい目だった。
「ヴァルゴだ」カインが声を落とした。「間違いない」
五 ヴァルゴとの対話
ヴァルゴが、こちらに気づいた。
視線が、アルクに向いた。
「……来たか、賦活師」ヴァルゴは言った。声が、静かで、よく通った。「二百年ぶりの、賦活師か。思ったより、若い」
「ヴァルゴか」アルクは言った。
「そうだ。四将筆頭、ヴァルゴ」男は言った。「儀式の執行者として、二百年この日を準備してきた」
「二百年間?」
「私は——二百年生きている」ヴァルゴは言った。「帝国の技術で、老いを止めた。ロスを消した日から、次の賦活師が現れるのを、ずっと待っていた」
「ロスを消した——お前が?」
「直接手を下したのは、私だ」ヴァルゴは言った。感情なく。「ロスは優れた賦活師だった。でも——最後の守り手が目覚める直前で、儀式が間に合った——」
「今度は、間に合わせない」アルクは言った。
「そう言えるほど、強いか?」ヴァルゴは言った。「今日は、様子見に来た。直接戦うつもりはない。ただ——お前に見せたいものがある」
ヴァルゴが、杖を地面に突いた。
地面から、何かが噴き出した。
黒い霧だった。霧が凝縮して、形を作っていく。
それは——かつてアルクたちが倒したはずの魔物たちの影だった。霧鬼の長。バジリスクキング。黒鉄蠍。形は薄く、実体はない。でも、その気配は本物に近かった。
「これが、私の力だ」ヴァルゴは言った。「二百年間、儀式の研究と並行して磨いてきた。倒した魔物の記憶を、霧として再現する。本物ではないが——十分に、厄介だろう」
「まがい物だ」ヴィナが言った。剣を構えた。
「まがい物でも、お前たちを消耗させるには十分だ」ヴァルゴは言った。「——では、楽しんでくれ」
霧の魔物たちが、一斉に動いた。
六 キラ、初めて戦いで動く
霧の魔物は、本物ではない。でも——攻撃が当たると、衝撃がある。体力を消耗させる。
「切っても意味がない」リィナが叫んだ。「霧でできてるから、物理も魔法も吸収される!!」
「では、どうする!!」ガドルが言った。
バルガが《鉄壁の号令》を放った。でも——霧の魔物には、魂への圧力が効かない。本能がない存在だからだ。
「効かない!!」
アルクは全員に付与をかけながら、考えた。
霧の魔物。本物ではない。ヴァルゴの魔力で作られた幻のようなもの。ならば——ヴァルゴの魔力を断てば消えるかもしれない。でも、ヴァルゴ本人は後方にいて、兵士に守られている。
そのとき。
アルクの手のひらが、温かくなった。
四番目の気配が——動いた。
アルクの手のひらの上に、キラが現れた。今日は少し長く出ていられそうだった。
キラが、小さな手でアルクの指を一本、ぎゅっと掴んだ。
そして——ルミを見た。
「……キラが、何かしようとしている」ルミは言った。「あたしと——繋がろうとしてる」
「繋がる?」
「複製」ルミははっきりと言った。「あたしの回復の光を——複製しようとしてる」
「できるのか」
「わからない。でも——やろうとしてる」
キラが、小さな手を前に伸ばした。ルミの光を掴むように。
次の瞬間——光が複製された。
ルミの白い回復の光が、二つになった。一つはルミから。もう一つは、キラの手から。
「二か所から、光が出てる!!」ネッサが叫んだ。
「ルミの光を複製した」アルクは言った。「キラが」
複製された光が、霧の魔物たちに当たった。
霧が、乱れた。
「効いてる!!」ヴィナが叫んだ。「霧が薄くなってる!!」
「霧の魔物はヴァルゴの魔力が本体だ!!」リィナが言った。「ルミの回復の光が、そのヴァルゴの魔力を乱している!! 二か所から同時に当てれば、もっと効率的に——!!」
「ルミ、全力で!!」アルクは言った。「キラも!!」
ルミとキラが、同時に光を放った。
霧の魔物たちが、次々と散っていった。
ヴァルゴが、初めて表情を変えた。眉がわずかに動いた。
「……複製か。四番目が、もう動けるのか」ヴァルゴは言った。「予想より早い」
「退け、ヴァルゴ」アルクは言った。
「今日は退こう」ヴァルゴは言った。「これ以上は、本意ではない。今日の目的は達した」
「目的?」
「お前の守り手の数と、現在の力を確認することだ」ヴァルゴは言った。「二つの守り手が完全に覚醒し、三つ目が防御として稼働中。四つ目が動き始めている。——儀式の準備を、急ぐ必要がある」
ヴァルゴが踵を返した。兵士たちが整然と撤退し始めた。
「待て!!」ゴウダが叫んだ。
「次に会うとき——儀式は始まる」ヴァルゴは振り返らずに言った。「備えておくといい、賦活師」
霧の中に、消えた。




