第二十七話 盟主の影と、オークキングの咆哮
一 ルーエの朝食と、警告の後始末
祭壇から村に戻った翌朝。
アルクは風呂敷を広げた。
ルーエの村に泊まって二日目。村人たちが素朴な食事を出してくれていたが、昨夜の石板の警告以来、全員の顔に緊張が残っていた。アルクはそれを見て、今朝は風呂敷の番だと思った。
意識を向ける。朝に食べたいもの。温かくて、でも重くなくて、元気が出るもの。
湯気が上がった。
まず現れたのは、ふわふわのフレンチトーストだった。厚切りのパンに卵液を染み込ませて焼いたもの。表面がきつね色で、バターの香りが漂う。上にメープルシロップがとろりとかかっていた。
次に、イチゴとブルーベリーが山盛りに乗ったヨーグルト。白いヨーグルトの上に赤と紫の実が散らばって、見た目だけで元気が出る。
それから、温かいカフェオレ。ミルクをたっぷり入れた、やわらかい香りのコーヒー。全員分のカップに注がれていた。
最後に、厚焼き玉子。だし巻きではなく、砂糖を入れた甘い厚焼きだ。橙色の断面が美しい。
「……」
全員が、しばらく黙って見ていた。
「なんですか、これ……」ネッサが言った。声が、ふるえていた。「きれい……! 朝から、こんなにきれいなものが……!」
「フレンチトーストという。前世では朝によく食べた」
「このとろとろしたやつは!?」
「メープルシロップだ。木の樹液から作る」
「木の樹液!?」ネッサが目を丸くした。「それがこんなに甘いんですか!?」
「甘い」
「食べていいですか!?」
「食べてくれ」
ネッサがフレンチトーストを一口食べた。
目が、丸くなった。
「……ふわふわしてる。でも、中がとろとろで……甘くて……あったかくて……」ネッサはしばらく言葉が出なかった。「なんですか、これ。朝からこんなの食べていいんですか。幸せすぎませんか」
「朝から食べるものだ」
「朝からこんな幸せを!?」
ヴィナがカフェオレを手に取った。一口飲んだ。少し間があった。
「……苦い。でも」ヴィナはもう一口飲んだ。「ミルクの甘さと混ざると——不思議と、落ち着く」
「カフェオレは疲れたときに飲むものだ。前世では、夜働いたあとによく飲んでいた」
「仕事のあとに……」ヴィナはカップを両手で持った。「確かに、こういう感じのものが飲みたい気分だった。昨夜は眠れなかったから」
「眠れなかったのか」
「少しな」ヴィナはアルクを見た。「よく眠れる方がおかしい」
カインが厚焼き玉子を一口食べた。「……甘い。玉子がこんなに甘くなるとは」
「砂糖を入れて焼く。前世では子供が好む料理だが、大人も好んで食べる」
「なるほど……」カインは二口目を食べた。「なるほど、これは好きになる」
アルファが、フレンチトーストの皿の横でぐるぐると回っていた。
『——なあ!! うちも!! うちにも何か!!』
「あとで出す」
『今!! 今食べたい!!』
「順番がある」
『順番!? 守り手に順番があるんか!?』
「ルミが先だ」
ルミが、カップの縁にちょこんと止まった。小鳥の姿で、カフェオレを一口飲んだ。
「……あったかい」ルミは言った。「あたし、これ好き」
『ルミ先輩ずるい!! 先輩扱い使っとる!!』
「使ってない。アルクが順番を決めた」
『アルク!! うちにも!!』
「わかった」アルクはアルファのために小さな皿にメープルシロップを少し出した。
アルファが飛び込んだ。すぐ出てきた。
『——あまっ!!! なにこれ!!! めちゃくちゃ甘い!!! 最高や!!!』
全員が笑った。
ルミが小さく「甘いものに飛び込むの、コレンみたい」と言った。
「コレンにも、後で分けよう!」ネッサが言った。
昨日の疲れが、少しだけ薄れた朝だった。
二 オークキングの出現
その日の昼過ぎ、ルーエの北部に向かって歩いていると、前方で爆発音がした。
轟音が響き、木々が揺れた。地面がびりびりと震える。
「なんだ」ヴィナが即座に剣を抜いた。
次の瞬間、木立の向こうから巨大な影が現れた。
高さ四メートルを超える、緑色の皮膚を持つ巨体。人型だが、両腕が異常に発達していて、握りしめた拳が岩のように硬い。赤く濁った目が六つ。頭部には折れた角の跡が二本。
《オークキング》。
Aランクの魔物だ。オークの群れを率いる王種で、通常のオークの十倍以上の魔力と体躯を持つ。その後ろに、普通のオークが十体以上ついてきていた。
「Aランク……」カインが息を呑んだ。
「しかも群れ連れだ」ヴィナが言った。声が落ち着いている。「正面からは無理だ。作戦を考える」
「でも」ネッサが言った。村の方角を見た。「このまま進んだら、村に——」
「わかってる」ヴィナは言った。「だから、ここで食い止める」
オークキングが、こちらを見た。赤い目が、アルクたちを認識した。
鼻を鳴らした。一歩、踏み出した。地面が揺れた。
「アルファ」アルクは言った。
『——うち、準備できてる』
「今の俺の付与と、お前の付与を重ねられるか」
『やってみる。でも、制御が崩れたら言って。まだ完全じゃないから』
「わかった」アルクはヴィナを見た。「ヴィナ、付与をかける。今日は俺のとアルファの両方だ。いつもより強くなる。体に無理がかかるかもしれない」
「かまわない」ヴィナは言った。「どのくらい強くなる」
「わからない。初めてだから」
「正直でいい」ヴィナは剣を構えた。「やってみよう」
三 二重付与の初陣
オークキングが咆哮した。
腹の底から絞り出すような低い叫び。周囲の木々が揺れた。後ろのオークの群れが一斉に動き始めた。
「まず群れを止める」ヴィナが言った。「ネッサ、コレンを出して。群れのオークを引きつけてくれ。カインは後方で俺たちの動きを見ていてくれ」
「わかりました!」ネッサが札を出した。コレンが炎の姿で現れた。
コレンが群れのオークへ向かって飛んだ。オーク十体の注意が、コレンに向いた。
「アルク、今だ」ヴィナが言った。
アルクは集中した。ヴィナを見る。その体の中を流れる魔力の線を感じる。「速く、強く、正確に」——そこにアルファの流れが乗った。
今まで感じたことのない感触だった。アルクの付与が川なら、アルファの付与は炎だ。川の流れに炎が混ざって、熱い奔流になった。
「——っ」
ヴィナの体から、光が散った。
ヴィナが一歩踏み出した。その一歩が、普通の三歩分の距離を飛んでいた。
オークキングが腕を振る。直径一メートルはある拳が、ヴィナを狙った。
ヴィナが、その軌道の外に出た。ぎりぎりではない。余裕を持って、かわした。
「速い……」ヴィナは自分の動きに驚きながら、剣を振った。オークキングの脇腹を狙う。剣が弾かれた。硬い。皮膚が岩のように硬い。
「皮膚が厚い。刃が通らない」ヴィナが叫んだ。
「弱点は?」アルクが言った。
「関節だ。皮膚の薄いところ——脇の下、膝の裏、首の後ろ」
「届けるには?」
「懐に入る必要がある」
オークキングが両腕を振り上げた。地面叩き。全体に衝撃が広がる技だ。
「伏せろ!!」ヴィナが叫んだ。
全員が伏せた。地面が波打つように揺れた。アルクは地面に手をつきながら、付与を維持した。消耗が急激に進んでいる。アルファの流れが混じっている分、いつもの倍以上消耗している。
『——アルク、無理したらあかん』アルファが言った。声が、いつもより静かだった。『うちが絞れば、アルクの消耗を減らせる気がする。少し待って』
「大丈夫か」
『やってみる』
アルファの流れが、少し絞られた。代わりに——精度が上がった。同じ強さなのに、消耗が半分になった感覚がした。
「アルファ、今のは」
『——うちが付与の量を調整した。力の量じゃなくて、届け方を変えた。ヴィナさんの体に合わせた』
「対象に合わせて調整できるのか」
『できる気がしてきた!! やってみたらできた!!』
ヴィナが立ち上がった。オークキングが、また腕を振る。
「——今度は、懐に入る」ヴィナは言った。「アルク、最大まで上げてくれ。一瞬だけでいい」
「消耗が——」
「一瞬でいい。あたしが脇の下に入る。その間だけ、全力で」
アルクはヴィナを見た。
「わかった」
「アルファ」
『——全力、出す。アルクと一緒に』
オークキングが踏み込んだ。ヴィナが同時に動いた。
アルクとアルファが、同時に全力の付与をかけた。
ヴィナの体が、光をまとった。橙色と白の光が混ざった、初めて見る色だった。
ヴィナが、オークキングの懐に飛び込んだ。脇の下——皮膚が薄い部分に、剣を深く突き入れた。
オークキングが、のけ反った。
初めて、痛みに顔をゆがめた。
「もう一度!」ヴィナが叫んだ。
「無理だ」アルクは言った。膝をついた。「消耗した。もう——」
『——アルク、うちが補助する。アルクが出せない分、うちが出す』
「お前は大丈夫か」
『やってみなわからんけど——やる』
アルファの光が、強くなった。
ヴィナへの付与が、維持された。
ヴィナが二度目に踏み込んだ。今度は首の後ろを狙った。剣が、深く入った。
オークキングが、崩れた。
地響きを立てて、倒れた。
後ろのオークの群れが、王を失って動揺した。コレンが追い立て、群れが散り始めた。
四 戦闘後
静寂が戻った。
ヴィナが剣を鞘に収めた。息が上がっている。付与の反動が出ているらしく、手が少し震えていた。
「大丈夫か」アルクが言った。
「問題ない」ヴィナは言った。「ただ——あれは、消耗する。倍以上の力が出る代わりに、体への負担も大きい」
「次からは段階的にかける。一気に全力は危険だ」
「わかった」ヴィナは頷いた。それからアルクを見た。「アルファの付与が加わると、質が変わるな」
「どう変わった」
「お前の付与は——体が軽くなる感じだ。でも今日は、それに加えて、剣が吸い込まれるように入った。刃の通り方が変わった気がする」
「攻撃強化か」アルクが言った。「アルファの付与は、攻撃そのものを強める特性があるらしい」
「そういうことか」ヴィナは少し考えた。「なら——使い方によっては、皮膚の硬い魔物にも有効だ」
アルファが、アルクの周りをくるくると回った。いつもの元気だが、少し揺れ方が大きかった。消耗しているらしい。
『——疲れた……』
「無理をしたな」
『でも、やれた。アルクの代わりに付与を維持できた』
「ありがとう」
『——えへへ』
「えへへ?」
『嬉しかったら出てきた。しゃあない』
ルミが、アルファの隣に止まった。「お疲れ、アルファ」
『先輩……うち、よかった?』
「よかった」ルミははっきりと言った。「十分よかった」
『やったー!! 先輩に褒めてもらった!!』
「褒めた」ルミは認めた。「今日だけ」
『今日だけでも嬉しい!!』
ネッサが「よかったよかった!!」と言いながらコレンを撫でた。コレンがぴょん、と跳ねた。カインが倒れたオークキングを観察していた。「Aランクの素材が取れますね。かなりの値になります」
「亜空間に入れよう」アルクは言った。
「入りますか、これだけ大きいもの」
「ルミ、頼めるか」
「やってみる」ルミは翼を広げた。光の粒になって、アルクの手の上に集まった。
亜空間の扉が開いた。前より大きい扉だ。
オークキングの体が、ゆっくりと吸い込まれていった。
「入った……」カインが目を丸くした。「本当に入った」
「ルミの空間が、少しずつ大きくなってる」アルクは言った。
「あたしも、少しずつ慣れてきた」ルミは小鳥の姿に戻って言った。「でも——大きいものを入れると、扉を開けるのに力がいる」
「無理はしなくていい」
「わかってる」ルミは言った。「でも、やれることはやる」




