第二十六話 ルーエの国
一 国境を越えて
翌日、ルーエの国境を越えた。
国境といっても、簡単な関所があるだけだ。騎士が二人、通行人を確認している。アルクたちが冒険者証を見せると、あっさりと通してもらえた。
ルーエに入った瞬間、空気が変わった気がした。
「きれい……」ネッサが言った。声が、珍しく小さかった。
広い平原に、黄色い花が咲いていた。麦畑が広がっている。遠くに小さな村が見える。煙が上がっていて、夕食の準備をしているらしい。
「穏やかな国だな」カインが言った。「軍事力が弱い理由が、少しわかる気がします。争う必要を感じない雰囲気がある」
「だから狙われやすい」ヴィナが言った。
アルファが、アルクの周りをゆっくりと回った。いつものくるくるより、ゆっくりだった。
「どうした、アルファ」アルクが言った。
『……ここ、知ってる気がする』アルファは言った。『来たことはないはずやけど——なんか、懐かしい』
「守り手として、縁のある土地なのかもしれない」
『アルクの中にいたのに、この場所を知ってる気がするのは——なんでやろ』
「祭壇があるらしい。賦活師にゆかりのある場所が」
『……その祭壇、絶対そこや。懐かしい場所』
ルミが、アルクの肩でぱたぱたと翼を揺らした。
「アルファが覚えてる、ということは——その祭壇で何かが起きたはず」ルミは言った。「賦活師と守り手の、古い記録が残ってるかもしれない」
「行く価値がある」アルクは言った。
二 ルーエの村で
最初の村に着くと、村人たちが温かく迎えてくれた。
宿はないが、納屋を使っていいと言われた。夕食も一緒にどうぞ、と言われた。
大きなテーブルを囲んで、村人たちと食事をした。素朴な料理だったが、温かかった。野菜のスープ、焼いたパン、蜂蜜。
「旅の方は、どちらから?」村長らしい老人が聞いた。
「東の港町から」アルクが言った。「この辺りに、古い祭壇があると聞いて」
老人の顔が、少し変わった。
「……祭壇、ですか」老人は言った。「村の北の丘に、確かにあります。でも、最近は——あまり近づかない方がいいと言われていて」
「なぜですか」ヴィナが言った。
「一週間ほど前から、祭壇の周りに魔物が集まり始めていて。何かを守るように、動かない魔物が」
全員が顔を見合わせた。
「人が入ろうとすると、攻撃してくるんですか」カインが聞いた。
「いえ」老人は首を振った。「攻撃はしない。ただ——じっと、守るように立っていて。それが気味悪くて、誰も近づけないんです」
アルファが、アルクの耳元でそっと言った。
『……その魔物ら、祭壇を守っとったんかもしれへん』
「守っていた?」
『そういう気がする』
ルミが、小鳥の姿でアルクの肩に降りた。「……それは、女神様が手配したのかもしれない」
「女神?」
「賦活師を転生させた、あの声」ルミは静かに言った。「あの方が、祭壇を守らせていた。——そういうことが、できる方だと思う」
アルクは窓の外を見た。夜の平原に、丘の影が見える。
その丘の上に、祭壇がある。
三 丘への道
翌朝早く、全員で北の丘へ向かった。
丘の麓まで来ると、村人が言っていた「魔物」が見えた。
五体の魔物が、丘の斜面に立っていた。Cランク相当の魔物だが——確かに、攻撃する気配がない。ただ、立っている。丘の上を守るように。
「近づいてみる」アルクは言った。
「気をつけて」ヴィナが言った。剣に手をかけながら、でも抜かずに。
アルクがゆっくりと丘に近づいた。
魔物たちが、アルクを見た。
動かなかった。
アルクがさらに近づいた。それでも動かない。
一体が、道を——開けた。
「……道を開けた」ネッサが言った。「通っていい、ってことですよね!?」
「そう見える」カインが言った。
アルファが言った。
『——行こ、アルク。うちらを呼んでる』
四 祭壇の前で
丘の頂上に、石造りの祭壇があった。
円形の台座。中央に、古い文字が刻まれた石板。石板の表面が、うっすらと光っていた。
アルクが近づくと、光が強くなった。
「これが——」カインが石板の文字を読んだ。「賦活師と守り手の、契約の場。守り手が目覚めるとき、この場所で力が安定する、と書いてあります。
アルファが、祭壇の上に浮かんだ。
橙色の光が、石板の光と共鳴し始めた。
『……なんか、わかる気がしてきた』アルファは言った。声が、少しだけ落ち着いていた。『うちが何をすべきか。付与って、こういうことやったんや、って』
「アルファ」アルクが言った。「急がなくていい」
『うん。でも——もう少しで、はっきりする気がする』
ルミが、アルファの隣に並んだ。光の粒の状態で。
「一緒にいる」ルミは言った。「先輩として」
『先輩……』アルファは、少し静かになった。『……ありがとう』
「礼はいらない」
『ツン——』
「今は黙って」
『……はい』
光が、強くなった。
アルファの形が、少しだけはっきりした。球体の中に、何かの輪郭が見え始めた。耳のような。尻尾のような。
まだ定まっていない。でも——確実に、何かになろうとしていた。
「アルファ」アルクは言った。「名前の意味、さっき言っていたな。最初の一番、と」
『そうや』
「俺にとっても、お前は大切な一人だ。ルミと同じように」
アルファが、揺れた。
『——それ、恥ずかしいこと言うなや』
「本当のことだ」
『……うちも、アルクのこと、大切に思っとる』アルファは言った。『ずっと見てたから。ルミ先輩と同じくらい、大切や』
「ルミより大切じゃないのか」アルクが言った。
『それは——』アルファが少し考えた。『先輩より大切とかいう順番じゃない。みんな同じくらい、大切や』
ルミが、光を少し強めた。「……いいことを言う」
『でしょ!!』急に戻った。『うちって賢いやろ!!』
「賢い、とは少し違う」
『なんでや!!』
光が、穏やかになった。
祭壇の石板が、静かに輝いた。
アルファの覚醒が、始まった。
光が、強くなった。
橙色の光が、祭壇の石板から立ちのぼる古い光と溶け合って、丘の頂上を温かく染めた。アルクは、その光の中心に浮かぶアルファを見ていた。
アルファの輪郭が、ゆらいだ。
いつもの、くるくると忙しなく動く光の球ではなかった。今は、静かだった。まるで——長いあいだ探していた何かを、ようやく思い出そうとしているように。
『……アルク』アルファの声がした。いつもの元気な響きとは違う、深いところから出てくるような声だった。『うち、わかってきた』
「何がだ」アルクは言った。
『付与って、力を"足す"ことやと思ってた』アルファは言った。『剣を鋭くする。体を丈夫にする。そういう、上から塗り重ねるようなもんやと』
「違うのか」
『ちゃう』アルファは言った。『そうやない。——引き出すんや』
光が、脈打った。
『その人が、もともと持ってる力。眠ってる力。それを、表に引っぱり出してやる。うちがしてるのは、それや。だから——その人によって、引き出し方が変わる。ヴィナにはヴィナの、ネッサにはネッサの、ちゃんと合うた引き出し方がある』
「だから、相手に合わせて付与を変えられるのか」
『そういうことや』アルファの声が、少しだけ笑った。『うち、ずっとそれを感覚でやってた。でも今——はっきりわかった。なんでそうするんか、わかった』
ルミが、アルファのそばで静かに光った。
「……それが、付与の守り手の本質」ルミは言った。「あたしの回復が"戻す"力なら、アルファのは"引き出す"力。二つで、ひとつ」
『二つで、ひとつ』アルファが繰り返した。『——なんか、ええ言葉やな、それ』
「先輩だから」
『出た、先輩風』
「本当のことを言っただけ」
『はいはい』
光が、ふっと収束した。
祭壇の石板の光が、応えるように、いっそう明るく輝いた。古い文字のひとつひとつが、橙色の光をなぞって浮かび上がる。
アルクは、その文字の意味はわからない。だが——伝わってくるものがあった。
ここで、かつて、同じことがあったのだ。賦活師と、付与の守り手が、出会い、力を確かめ合った。何百年も前か、それよりもっと前か。アルクのような誰かが、アルファのような誰かと、ここに立った。
「アルファ」アルクは言った。「お前は、ずっと気づかないうちに、俺を助けてくれていた。
『……うん』
「これからも、隣にいてくれ。気づいたうえで、一緒に戦いたい」
光が、揺れた。大きく、ゆっくりと。
『——アルク』アルファの声が、少し震えていた。『うちな、ずっと不安やってん。ちゃんと役に立てるんか。ルミ先輩みたいに、優しくできるんか。うち、うるさいだけちゃうんかって』
「そんなこと——」
『でも、今わかった』アルファは言った。『うちはうちのやり方で、アルクを助けられる。引き出す力で、みんなを強くできる。それが、うちの役目や』
光が、まっすぐに伸びた。
『だから——もう、不安ちゃう』
その瞬間、橙色の光が、はじけた。
丘の頂上いっぱいに、温かい光が広がった。ネッサが小さく声をあげ、ヴィナが目を細め、カインが息をのんだ。痛くも、まぶしすぎもしない、ただ——心の奥が温かくなるような光だった。
光が、おさまった。
祭壇の上に、アルファがいた。
まだ、はっきりとした姿ではない。けれど、さっきまでのただの球体とは違った。光の中に、大きな耳のような突起と、くるんと丸まった尻尾のような光の尾が、たしかに見てとれた。
『——なんか、すっきりした!!』
いつもの、元気な声だった。
「覚醒が進んだのか」アルクが言った。
ルミが言った。「もっと経験を積むと、さらに完全になる。わたしも、戦いを重ねてはっきりしてきたから」
『じゃあ、もっとアルクと一緒に動けば、もっとはっきりするってこと!?』
「そういうこと」
『よっしゃ!! ほな、これからもっともっと働くで!! うち、本気出すからな!!』
「ほどほどにな」アルクは笑った。
『ほどほどて何や!! 全力でいくって言うてるやろ!!』
ルミが、ぱたぱたと翼を揺らした。「……にぎやかになった」
『先輩、それ褒めてる?』
「さあ」
『さあ、てなんや!!』
祭壇の石板の光が、ゆっくりと鎮まっていった。役目を終えたように、静かに。
丘の斜面を見下ろすと、守り手のように立っていた五体の魔物たちが——一体、また一体と、霧が晴れるように消えていくところだった。アルファが目覚めたことを、まるで見届けたかのように。
『……ありがとうな』アルファが、その方へ小さくつぶやいた。『守っててくれて』
最後の一体が、穏やかに光に溶けて、消えた。
丘の上に、朝の風が吹いた。




