第十八話 出発の朝と、ネッサの一歩
一 イリアの旅立ち
翌朝、イリアが馬車に乗る前に、アルクたちに向き直った。
「また来ますね」イリアは言った。「そのときまでに、お伝えできることが増えていると思います」
「待っています」アルクは言った。
「一つだけ——」
イリアはヴィナを見た。「首飾り、大切にしてください。でも、もっと大切なものもあると思うので」
ヴィナが少し目を細めた。「……よく見てますね、殿下は」
「王女の仕事は、人を見ることです」イリアは微笑んだ。それからネッサを見た。「あなたとも、またお話ししたい」
「ぜひ!」ネッサが元気よく言った。「王都にいつか行けたら、絶対に!」
「待っています」
馬車が動き始めた。ネッサが手を振った。イリアが、窓から小さく手を振り返した。
「……いい人でしたね!」ネッサが言った。「王女様って、もっと怖い感じかと思ってた!」
「人によるんじゃないか」アルクは言った。
「そうですよね! でもなんか、すごく親近感があって! また会いたいな!」
「会えると思う」
「ですよね!」ネッサは笑顔でそう言ってから——少し真剣な顔になった。「あの……アルクさん」
「なに」
「いつか、あたしも王都に行けますか。みんなと一緒に」
「たぶん行くことになる」
「じゃあ——あたしも、ちゃんと戦えるようにならないと、ですね」ネッサは自分の手を見た。「コレンに頼りっぱなしじゃなくて、あたし自身も」
「ネッサは十分やれてる」
「でも、もっとやれるようになりたいんです」ネッサはアルクを見た。「みんなと一緒にいたいから。おいていかれたくないから」
アルクはネッサを見た。ヴォルタの事務員だった少女が、今は自分の言葉で「強くなりたい」と言っている。
「一緒に強くなろう」アルクは言った。「俺も、まだまだ弱い」
「アルクさんが弱いって言ったら、あたし何なんですか!」
「俺より強いものを守れるようになりたい、と言いたかった」
「……なんかそれ、かっこいいんですけど」ネッサが言った。顔が赤い。
「そうか?」
「もうっ、そういうこと自然に言わないでください!!」
コレンがぴょんぴょんと跳ねた。ルミも跳ねた。二体が同じリズムで跳ねていた。
「あ、ルミとコレン、呼吸合ってる!」ネッサが笑った。「仲良しですね〜!」
「お前たちに言われたくないと、思ってそうだ」
「え、あたしとコレンが? ……仲良しですよ、当たり前じゃないですか!」
「そうじゃなくて」
「え? え?」
二 ヴィナとネッサのわちゃわちゃ
その日の午後、ヴィナが中庭で剣の素振りをしていた。
そこへネッサがやってきた。
「ヴィナさん! 少し教えてもらえませんか!」
ヴィナは素振りを止めずに言った。「何を」
「剣の基本! あたし、体を動かすのは苦手じゃないんですけど、武器を使ったことがなくて。いざというとき、コレンだけじゃなくて自分でも戦えるようになりたくて!」
ヴィナが素振りを止めた。ネッサを見た。
「……本気か」
「本気です!」
「剣の稽古は厳しいぞ」
「覚悟してます!」
ヴィナはしばらくネッサを見ていた。それから、溜め息をついた。でもその溜め息は、嫌そうではなかった。
「短剣からにしろ。剣は体格に合ったものを使わないと意味がない」
「短剣でも何でも!」
「走れるか。まず体力からだ」
「走るの得意です! ギルドの帳簿を届けて走り回ってたので!」
「……帳簿の配達で体力をつけたのか」ヴィナは少しだけ口の端を上げた。「変な経歴だな」
「変ですかね!」
「褒めてる」
ネッサがぱっと顔を輝かせた。「ヴィナさんに褒めてもらえた! すごい嬉しい!」
「大げさだ」
「大げさじゃないですよ! ヴィナさんってなかなか褒めないじゃないですか!」
「……そうか?」
「そうです! だからすごく嬉しくて!」
ヴィナは何も言わなかった。でも視線が、少し逸れた。
「じゃあ、走るぞ。港の端から端まで三往復」
「えっ、いきなり!?」
「嫌なら帰れ」
「やります!!」
ネッサが走り出した。ヴィナもそれに並んだ。
途中、ネッサが息を切らしながら言った。「ヴィナさんって——走るの——速いですね——!」
「剣士だからな」
「あたし——もっと——頑張ります——!」
「ペースを落とせ。速さより距離だ」
「はい——! ヴィナさん——優しいですね——!」
「優しくない」
「優しいです——!」
ヴィナは黙った。少しだけペースを落とした。ネッサが気づいて「ほらー!」と言った。
「うるさい。走れ」
「はい——!」
港の風が、二人の間を通り過ぎた。
三 夜の付与の稽古
その夜、アルクは一人で中庭に出て、付与の練習をしていた。
壁に木の板を立てかけて、そこに向かって「動け」「重くなれ」「軽くなれ」と意識を向けてみる。物に付与をかけるのは人に比べて難しい。でも、少しずつ感覚が掴めてきている気がした。
「何をしてる」
背後から声がした。ヴィナだった。
「付与の練習だ」
「板に向かって?」
「物にかけるのと、人にかけるのは感覚が違う。物の方が難しい」
「なぜ物に練習する必要がある」
「将来、仲間以外の物にもかけられるようになると便利かと思って」アルクは言った。「たとえば、倒れている者に届けたい何かがあるとき」
ヴィナは少し考えた。「……人を助けたい、与えるものの発想だな」
「前世が医師……治癒師みたいなものだったから」
「そうだったのか……」ヴィナは板の隣に立った。「あたしに向けてかけてみろ」
「今?」
「稽古の時間がない。実戦の方が早い」
アルクは頷いた。ヴィナが剣を構えた。素振りを始める。
アルクは集中した。「速く」と思う。
ヴィナの動きが上がった。
「……もっと」ヴィナが言った。
「消耗する」
「消耗しながら維持するのが稽古だ。もっとかけろ」
アルクはさらに強くした。頭の奥が熱くなる。でも、ヴィナの動きがさらに洗練されていく。
五分ほど続けたとき、アルクは片膝をついた。
「限界か」ヴィナが剣を止めた。
「今日は、これが限界だ」
「前より長く続いた」ヴィナは剣を鞘に収めた。「毎日やれば、伸びる」
「そうするつもりだ」
ヴィナがアルクの隣にしゃがんだ。「水を持ってくる」
「いい」
「黙ってろ」
ヴィナが立ち上がって水の入った器を持って戻ってきた。アルクに渡した。
「ありがとう」
「礼はいらない」
二人で中庭の空を見上げた。星が出ている。
「……あたしも、強くなりたい」ヴィナはぽつりと言った。
「剣士として、か」
「それもある。でも——」ヴィナは首元に手をやった。首飾りのある場所。「あれを使わなくて済む力が、欲しい」
「使わなくて済む力」
「仲間全員を守れる力。あの石に頼らなくて済む力」
アルクはヴィナを見た。三年間、一人で旅をしてきた剣士が、「守りたい」と言っている。
「一緒に強くなろう」アルクは言った。さっきネッサに言ったのと同じ言葉。
ヴィナは少し目を細めた。「……ネッサにも同じことを言ったか」
「言った」
「そうか」ヴィナは空を見上げた。それから、小さく笑った。珍しい笑い方だった。「同じ言葉で二人に言うのか」
「そうなるな」
「……まあ、いい」ヴィナは立ち上がった。「寝ろ。明日も稽古する」
「ヴィナも休め」
「わたしは大丈夫だ」
「無理するな」
「……」ヴィナは少し間を置いた。「わかった」
それだけ言って、中に戻った。
ルミが肩の上で、温かく揺れた。




