第十七話 イリアの問いと、ヴィナの秘密
一 イリアが去る前の夜
イリアがヴォルタを去るのは翌朝だった。
視察の最終夜、灰爪亭の食堂は珍しく賑やかだった。ガドルが「せっかくだから」と言って、この世界の名物料理を大量に注文したからだ。骨付き肉の香草焼き、豆の煮込み、麦のパン。テーブルが料理で埋まった。
「すごい量ですね!」ネッサが目を輝かせた。「ガドルさん、全部食べられるんですか!」
「食べる」ガドルはあっさりと言った。「心配するな」
「心配というか感心してます!」
「食が細いより太い方が信頼できる」
「それはそうかもしれないですけど!」
イリアが、その賑やかさを少し羨ましそうに見ていた。側仕えの騎士に「殿下も席を」と勧められて、やや遠慮がちにテーブルの端に座った。
「窮屈にしないでください」アルクが言った。「普通に食べてもらえれば」
「……王女として視察中なので、あまり崩すわけには」
「視察は終わったんじゃないですか」ネッサが言った。にこにこしている。「今夜はただの夕ご飯ですよ!」
イリアが、少しだけ笑った。「……そうですね」
それからイリアは、本当に普通に食べ始めた。所作は上品だが、表情が少しずつ柔らかくなっていく。
「おいしい」イリアは骨付き肉を一口食べて言った。
「ヴォルタの名物です!」ネッサが嬉しそうに言った。「香草の使い方が独特で、他の街とは全然違うんですよ! 私ここの料理が大好きで!」
「あなたは、ここの出身なんですか」
「そうです! 生まれてからずっとヴォルタで、ギルドで働いて、もうずっとここにいて——でも最近は、みんなと一緒に動くこともあって、楽しいなって!」
「楽しい、か」イリアはネッサを見た。「いいですね、そういうの」
「殿下は楽しいことはないんですか?」
「ネッサ」アルクが言った。「王女殿下に失礼では」
「ああ、ごめんなさい!」ネッサが慌てた。「つい!」
「いいえ」イリアは首を振った。「……楽しいことは、あります。でも、立場上、素直に楽しめないことが多くて」
「それは大変ですね……!」ネッサが言った。心から、という顔で。
イリアはネッサを見て、少し驚いたような顔をした。それから、また笑った。「あなたは、素直ですね」
「よく言われます! 損することも多いですけど!」
「損より得の方が多いと思いますよ」
「そうだといいな〜!」
二 ヴィナへの問い
夜が更けて、一人また一人と部屋に引き取っていった。
食堂に残ったのは、アルクとヴィナとイリアの三人だった。
イリアが、ヴィナを見た。
「一つだけ聞いていいですか、ヴィナさん」
「……なんですか」ヴィナはカップを傾けたまま答えた。
「あなたは——アルクさんのそばにいることを、自分で選んだんですね」
ヴィナは少し間を置いた。それから静かに言った。
「選んだというより……気づいたらそうなっていた」
「そういうことって、あるんですね」イリアは少し微笑んだ。
「殿下も似たような経験が?」ヴィナが聞き返した。
イリアは、少しだけ目を逸らした。「……話が変わりましたね」
「変えたのは殿下です」
「そうでしたね」イリアは苦笑した。「公平に答えます。あるかもしれない、と思っています。今日感じたことが、そうかもしれない」
アルクは二人の話についていけていなかった。「何の話だ」
「なんでもありません」ヴィナが言った。
「そうですね、なんでもないです」イリアも言った。
二人の女性が同時に同じことを言って、顔を見合わせた。それから二人とも、静かに笑った。
アルクは首を傾けた。ルミがぴょんぴょん跳ねた。楽しんでいるらしい。
三 ヴィナの首飾り
全員が部屋に引き取った後。
アルクが廊下を歩いていると、外への扉が少し開いていた。港側の出口だ。
出てみると、ヴィナが夜の港を見ていた。月明かりの下で、首元で何かが光っている。
細い銀の鎖に、小さな赤い石がついている。ヴィナは普段、服の中に隠しているが、今夜は外に出ていた。
「それ、いつも持ってるな」アルクは言った。
ヴィナは少し動きを止めた。それから首飾りを手で包むように握った。
「……見てたのか」
「隠してるわけじゃないなら、聞いていいか」
ヴィナはしばらく黙っていた。
「三年前に亡くした、仲間の形見だ」ヴィナは静かに言った。「魔術師だった。あいつが最後に残してくれたもの」
「そうか」
「この石に——封じてある」ヴィナは続けた。「あいつが死ぬ前に、最後の魔力を込めた。使えば、周囲の者を守る結界が展開する。でも」
「でも?」
「一度限りだ。そして——使った者の力を、根こそぎ持っていく。下手をすれば、命まで」
重い沈黙があった。
「それを、なぜ持ち続けているんだ」
「もう誰も死なせたくないから」ヴィナは言った。静かで、でも揺るぎない声だった。「あいつらが死んだとき、あたしだけが逃げた。あのとき、あたしに何かがあれば——みんなを守れたかもしれない。だから、次は違う結末にする。万が一のときに、あたしが使う」
アルクは首飾りを見た。小さな赤い石が、月明かりを受けてかすかに光っていた。
「……使わない方がいい」アルクは言った。
「使う必要がなければ使わない」ヴィナは首飾りを服の中にしまった。「でも、必要なときが来るかもしれない。そのときのために持っている」
「使ったら死ぬかもしれないんだろ」
「あたしの命より、仲間全員の命の方が重い」
「それは違う」アルクは言った。
ヴィナが、アルクを見た。
「何が違う」
「仲間全員の命が大切なら、ヴィナの命も、その仲間全員の中に入ってる」
ヴィナは、しばらくアルクを見ていた。
それから、視線を海に戻した。何も言わなかった。でも、首飾りを握った手が、少しだけ緩んだ気がした。
「……寝ろ」ヴィナは言った。「明日もある」
「ヴィナこそ」
「あたしはもう少しここにいる」
アルクは頷いて、中に戻った。
ルミが、肩の上でふわりと揺れた。
「……ルミ、あの首飾りは危ない」アルクは小声で言った。
ルミは揺れた。「わかってる」というような揺れ方だった。
「使わせたくない」
ぴょん。(うん)
「でも、ヴィナを縛ることもできない」
ぴょん、ぴょん。(だから、一緒にいるんでしょ)
アルクは少し笑った。「……そうだな」




