第十話 帰還と、ヴォルタの夜
一 ヴォルタへ
ヴォルタが見えてきたのは夕暮れどきだった。
いつもと違うのは、街の雰囲気だった。門の前に騎士が二人立っており、通行人を確認している。街の中から、何か慌ただしい声が聞こえる。
「変だな」ヴィナが言った。「警備が増えてる」
「先の手紙より、事態が進んでるかもしれない」
門を通ると、通りを走る冒険者の姿があった。ギルドの方向だ。アルクとヴィナも急いだ。
灰爪亭に飛び込むと、ギルドの中が静かだった。でも、静かさの種類が違う。誰もが疲れた顔をして、小声で話している。
ネッサがカウンターから顔を上げた。その目が、アルクを見た瞬間に、ほっとした表情になった。
「アルクさん……! 帰ってきてくれたんですね」
「手紙を見た。何があった」
「三日前から、霧牙の森の周辺で魔物が急増しています。今日だけで、街道で二件の遭遇がありました。怪我人が六人。うち二人は重傷です」
「重傷者はどこに」
「ギルドの奥の部屋に。治癒師が来ていますが、薬草が足りなくて……」
アルクは迷わなかった。「案内してくれ」
「でも、アルクさんは公式な治癒師じゃないので、ギルドとしては——」
「後で怒られるなら後でいい。今は見せてくれ」
ネッサは一瞬だけ迷って、頷いた。
二 回復の力、広がる
奥の部屋には、簡易寝台が六つ並んでいた。若い冒険者が二人、重傷で横たわっている。腕に深い裂傷、一人は肋骨が数本折れているらしく、呼吸が浅い。
治癒師が二人いたが、どちらも疲弊した顔をしていた。「薬草は使い果たしました。今できることに限りがあって……」と一人が言った。
アルクは肋骨が折れている方の冒険者のそばに膝をついた。手を胸に当てた。ルミの力を、ゆっくりと送り込む。
今日は付与で消耗していた。でも——焦らず、丁寧に。
光が、じわりと広がった。
冒険者の呼吸が、少しずつ深くなった。顔色が、わずかに戻った。折れた骨が完全に治ったわけではない。でも、生命の危機は遠のいた。
「……なんだ、この感じ」治癒師の一人が呟いた。「私たちの治癒と全然違う。薬草なしで、これだけの……」
アルクは次の冒険者へ手を移した。裂傷。深いが、血管は無事だ。光を送る。少しずつ、傷が落ち着いていく。
六人全員に手を当て終えたとき、アルクはどっと疲れて床に手をついた。
「……大丈夫か」ヴィナが後ろから支えた。
「大丈夫。ただ……今日は付与も使ったから、限界に近い」
「今日はここまでにしろ。明日また動けばいい」
治癒師の一人がアルクに近づいた。「……あなた、職業は何ですか」
「鑑定不能です」
「鑑定不能で、これだけの回復ができるんですか」
「なぜかできます」
治癒師は黙った。何かを言おうとして、やめた。でも、その目に敵意はなかった。
三 タークとゴウダ
ギルドに戻ると、タークが待っていた。腕を組んで、難しい顔をしている。
「……帰ってきたか」
「ただいま」
「遅い」
「ネッサさんの手紙を受け取ってすぐ戻った。これでも急いだ」
タークはアルクをしばらく見た。それから、ため息をついた。
「奥の連中、少し楽になったか」
「少しは」
「そうか」タークは視線を外した。「……ネッサが、毎日お前のことを心配してたからな」
「タークさんは心配しなかったのか」
「俺は荷運びの心配はしない」タークはぷいと向こうを向いた。「ただ、雑用の手が減るのは困ると思っていただけだ」
アルクは笑わなかった。でも、タークが少し耳を赤くしているのは見えた。
ヴィナが隣でぼそっと言った。「……あの人も、心配してたな」
「そうだな」「でも素直に言えない」「そういう人だ」
ルミがぴょんぴょん跳ねた。楽しそうだった。
その夜、ゴウダが灰爪亭にやってきた。まだ完全には回復していないが、歩けるようになっていた。
「アルク、戻ったか」ゴウダはアルクの顔を見て、少し安堵した。「魔物の異常出没は、俺たちが霧牙の森から帰った翌日からだ。最初はCランクが街道に出る程度だったが、日に日に増えて、今日はBランクが街道付近まで来た」
「森の奥で、何かが起きてる」ヴィナが言った。
「間違いない。でも調査に行ける冒険者が——俺たちはまだ動けない。他のAランクはヴォルタにいない。Bランク以下では深部には入れない」
「……一つだけ、気になることがある」アルクは言った。「王都でも魔物の異常が報告されていた。霧丘でも、本来いないはずのBランクが出た。ヴォルタもそうだ。範囲が広すぎる」
「どういう意味だ」
「一つの原因で、広い範囲の魔物が動いている可能性がある。局所的な異常じゃなく……もっと大きな、何かが動いてるのかもしれない」
ゴウダが眉をひそめた。ルミが、アルクの肩でふわりと揺れた。同意しているような揺れ方だった。
四 ネッサと、ルミの一言
その夜遅く、ネッサがアルクの部屋の扉をノックした。
「夕食を食べていないと思って……」小さな鍋を持っていた。「シチューを作りました。大した物じゃないですけど」
アルクは受け取った。温かかった。「……ありがとう」
「お礼なんて」ネッサは顔を赤くして視線を外した。「あの、帰ってきてくれて、よかったです。本当に」
「手紙が届いたから」
「手紙のためだけじゃないと……思いたいですけど」ネッサはまたもじもじして「おやすみなさい」と言って足早に去った。
アルクは廊下を見送って、部屋に戻った。シチューを食べながら、ルミを見た。ルミが楽しそうにぴょんぴょんしている。
「……何がそんなに楽しいんだ」
「……たのしい」かすかな声だった。「ネッサ、いい子」
「そうだな」
「……アルク、気づいてる?」
「何を」
「……ネッサが、好きって言ってた」
「食事の話だろ」
「……ちがう」
アルクは黙った。
「……鈍い」
「守り手に言われるとは思わなかった」
ルミはぴょん、と跳ねた。それから、光の粒に戻った。疲れたらしい。
アルクはシチューの最後の一口を食べて、窓の外を見た。夜の海が、月明かりに揺れていた。
ヴォルタに帰ってきた。これが自分の場所だと、今日初めてそう思った。




