第7話 “友達”って言うには、たぶんもう近すぎる
放課後の教室には、独特の静けさがある。
最後のチャイムが鳴ってすぐの時間は、まだ机を引く音や部活へ急ぐ足音が残っていて、完全な静寂とはほど遠い。それでも、授業中のざわめきとは違う。どこか気の抜けた、やわらかい空気が教室全体に広がっている。
その空気が、今日はいつもより少しだけ落ち着かなく感じた。
白石透は自分の席でノートをまとめながら、小さく息を吐く。
理由は分かっている。
最近ずっとそうだ。
放課後になると、妙に玲央の存在を意識してしまう。
朝や昼休みももちろん振り回されているのだが、放課後は特にまずい。教室の人数が減って、声が少なくなって、二人きりになる可能性が少しだけ上がる。その「少しだけ」が、透にとってはやたら大きかった。
「白石ー、先帰るわ」
水城直が鞄を肩に掛けながら言う。
「うん」
「今日、部活の先輩に捕まるから駅まで一緒無理」
「別に毎日一緒に帰ってるわけじゃないだろ」
「そうだけど、今日はなんとなく見届けたかった」
「何を」
「何だろうなあ」
「嫌な言い方すんな」
直はにやっと笑うだけで、それ以上は言わなかった。
その笑い方が、何か知っていて面白がっている時のものなのが腹立たしい。
「じゃ、また明日」
「……おう」
直が教室を出ていく。
その背中を見送りながら、透はなんとなく嫌な予感がした。こういう時の予感は、最近だいたい当たる。
案の定、クラスメイトが一人、また一人と帰っていき、気づけば教室に残っている人数はかなり少なくなっていた。窓際で話していた女子たちも数分後には立ち上がり、廊下へ消えていく。
透は鞄へ教科書を入れるふりをしながら、無意識に後ろを見た。
玲央はまだいた。
自分の席でプリントをまとめている。いつもと変わらない静かな顔。だが、その「まだいる」という事実だけで、透の心拍数は少しだけ上がった。
なんで自分がこんなふうに落ち着かなくならなきゃいけないんだ、と思う。
思うだけで、解決はしない。
帰ろう。
今日こそは変に意識せず、普通に帰ろう。
そう決めて席を立った時だった。
「透」
低い声が背中に落ちる。
もう最近は何度も名前で呼ばれているのに、それでも毎回ちゃんと心臓に悪い。慣れる気配がまるでない。
「……何」
振り向く。
玲央が、席から立ったところだった。
「もう帰る?」
「帰るけど」
「そっか」
いつものやり取り。
いつものはずなのに、今日はなぜかその先が気になった。
玲央は少しだけ間を置いてから、透の方へ歩いてくる。教室の夕方の光が、その横顔に薄く影を落としていた。
「一緒に帰る?」
と玲央が聞く。
「……それ、確認?」
「半分」
「半分は?」
「一緒に帰りたい」
そういうことを普通に言うな、という言葉が喉まで出かかったが、透はなんとか飲み込んだ。
言っても無駄だと、もう分かっているからだ。
「……帰る」
「うん」
玲央の返事が、少しだけやわらかい。
それだけのことで、どうしてこうも気持ちが乱されるのか、本当に分からない。
◇
二人並んで廊下を歩く。
窓の外は夕焼けに染まり始めていて、校庭の端の木々が風に揺れていた。部活の掛け声が遠くから聞こえる。いつもの放課後の景色なのに、玲央と並んでいるだけで妙に意識してしまうから困る。
沈黙は苦手じゃない。
むしろ、透は一人で静かに歩く時間の方が好きな方だ。
なのに、玲央と並ぶ沈黙は、それとは少し違う。嫌ではない。嫌ではないのに、落ち着かない。静かなのに、胸の中だけがやけにうるさい。
「透」
「何」
「今日、昼の英語の時間」
「うん」
「途中で全然聞いてなかったよね」
「……見てたの?」
「見える位置だったし」
またそれだ。
「便利な言葉みたいに使うなよ」
「便利だから」
「認めるな」
「でも本当だし」
玲央は本当に悪びれない。
透は小さく息を吐いた。
「別に、ちょっとぼーっとしてただけ」
「何考えてたの」
「言わない」
「なんで」
「言いたくないから」
「じゃあ俺のことかも」
「は?」
「図星っぽい顔してる」
「してない」
していたかもしれない。
少なくとも、今の透にはそれを完全否定する自信がなかった。
昇降口で靴を履き替え、校門を出る。
外の空気は少しだけひんやりしていて、夕方特有の匂いがした。
二人の家の方向は途中まで同じだ。だから並んで歩くこと自体は自然なはずなのに、最近はその「自然」が妙に不自然に感じる。
「透」
また呼ばれる。
「何」
「今日、委員会の人と話してたよね」
「……ああ」
数時間前、廊下で図書委員の女子と話した件だとすぐに分かった。たったそれだけのことなのに、なぜそれを今持ち出すのかは分からない。
「何」
「別に」
「いや、その入り方で別に、は無理あるだろ」
「そう?」
「そうだよ」
玲央は少しだけ視線を前に流したまま、しばらく黙っていた。
その沈黙が妙に意味深で、透は勝手に落ち着かなくなる。
「……何か言いたいなら言えよ」
透が促すと、
「透って、ほんと普通に話すよね」
と玲央が言った。
「は?」
「誰にでも」
「いや、そりゃ話しかけられたら話すだろ」
「うん」
「それの何が悪いの」
「悪くはない」
悪くはない、と言いながら、玲央の口調はほんの少しだけ硬かった。
透はそこでやっと気づく。
ああ、これまた、あれだ。
高城の時ほど露骨ではない。
でも、似ている。
玲央は他の誰かと透が話していると、少しだけ空気が変わる。前からそういうところはあった。でも今日は、その変化が前よりずっと近く感じられた。
「……おまえさ」
「何」
「またちょっと機嫌悪い?」
「悪くない」
「それ前も聞いた」
「じゃあ答えも同じ」
「いや、でも今の絶対ちょっと拗ねてるだろ」
「拗ねてない」
「拗ねてる顔してる」
「透にだけそう見えるなら、それでいいかも」
さらっと返されて、透は言葉を失う。
それでいいかも、って何だ。
最近の玲央は、こういう妙に答えになっていないのに心臓には悪い返しをしてくることが増えた。確実に良くない傾向だ。
◇
駅へ向かう途中、小さな公園の前を通る。夕方の時間帯らしく、小学生の姿はもうなく、ベンチの近くに高校生らしい制服のカップルが一組見えた。
透はなんとなくそちらを見て、すぐに視線を逸らした。
その瞬間、隣から声がする。
「透」
「何」
「今、見た?」
「何を」
「カップル」
「……別に、たまたま」
玲央は何も言わなかった。
ただ、その無言が妙に意味ありげに思えて、透は勝手に気まずくなる。
「何だよ」
「いや」
「何」
「透って、そういうの意識するんだなって」
「するだろ普通!」
「そっか」
玲央は少しだけ笑う。
その笑い方が腹立たしいのに、同時に少し安心するのが悔しい。
「おまえはしないのかよ」
「するよ」
「……へえ」
「今もしてる」
足が止まりそうになる。
「今も?」
「うん」
「何を」
「色々」
その「色々」は絶対に便利すぎるだろ、と言いたかったが、言葉が続かなかった。
玲央は一歩ぶんだけ透に近づく。
歩きながらなので、ほんの少し距離が詰まっただけだ。それだけのことなのに、透には十分すぎた。
「透」
「……何」
「聞きたいことある」
「何」
「俺たちって、友達?」
不意打ちだった。
透は完全に反応を失う。
「……は?」
今、何て言った。
友達。
玲央の口から、その単語が出てくるとは思わなかった。
「いや、何その質問」
「そのまま」
「そのままって……」
「透はどう思ってるの」
声は静かだ。
静かなのに、今までで一番真っ直ぐな問い方に聞こえた。
透は答えに詰まる。
友達か、と聞かれれば、たぶん他人ではない。クラスメイトというだけでもない。最近は話す回数も増えたし、一緒に帰ることもある。名前だって呼ばれている。
でも「友達」と言い切ろうとした瞬間、何かが引っかかった。
それは、玲央の距離感のせいだ。
近すぎる。
言葉も、視線も、空気も、全部が少しだけ近すぎる。
「……分かんない」
透は正直にそう言った。
玲央が少しだけ目を細める。
「分かんない?」
「だって」
「うん」
「友達って言うには、なんか……おまえ、近いし」
「近い?」
「近いだろ」
「どのくらい」
「その聞き方やめろ」
透は思わず顔を背けた。
だが玲央は逃がしてくれない。
「透」
「何」
「俺は、友達ってだけで片付けるにはちょっと無理あると思ってる」
「……は?」
「近いって、透も思ってるんだろ」
「それは……」
「うん」
「……思ってるけど」
言ってしまった。
言ってから、耳まで熱くなる。
でも玲央は笑わなかった。からかうような顔もしない。ただ、少しだけ安心したような息を吐く。
「よかった」
「何が」
「俺だけじゃないんだなって」
「おまえさ」
「何」
「そういう言い方、ほんとずるい」
「知ってる」
知ってるならやめろ、と言いたいのに、やっぱりうまく言葉にできない。
玲央は前を向いたまま、ぽつりと言った。
「透だから」
「……何が」
「近いの」
その返事は、前にも一度聞いた気がした。
——おまえだから。
意味をはっきり説明しないくせに、それだけで全部分かったような気にさせる返し。
「説明になってない」
「分かってる」
「分かってるならちゃんと説明しろ」
「まだしない」
「何で」
「今したら、透、困るでしょ」
図星だった。
透はもう何も言えなくなって、前を向いた。
夕焼けが道路を薄く染めている。通り過ぎる車の音が遠い。隣を歩く玲央の足音だけが妙に近い。
◇
家の方向が分かれる少し手前で、二人は立ち止まった。
最近はここで別れることが多い。
ほんの少し前までは何とも思わなかった場所なのに、今はここへ来ると少しだけ惜しい気持ちになる。
その感覚に自分で気づいて、透は内心で小さく顔をしかめた。
「じゃあ、ここで」
透が言う。
「うん」
玲央は頷く。
それだけで終わるかと思ったのに、今日は少し違った。
「透」
「何」
「さっきの答え」
「さっきの?」
「友達かどうかの話」
「……うん」
「透が分かんないって言ったの、ちょっと嬉しかった」
「何で」
「友達で納得されてたら、嫌だったから」
心臓がどく、と音を立てる。
嫌だった。
それはもう、かなりはっきりした言い方だった。
「……おまえ、それ」
「うん」
「だいぶずるい」
「透にだけだよ」
「だからそういうの」
「やめない」
即答だった。
透はもう笑うしかなくなって、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……“友達”って言うには、たぶんもう近すぎる」
ぼそっと言う。
玲央が、その言葉を聞いて少しだけ目を見開く。
それから、本当に嬉しそうに笑った。
その顔を見た瞬間、透は思った。
ああ、言ってしまったな、と。
でも不思議と後悔はなかった。
「じゃあ、続きはまた今度」
玲央が言う。
「何の続き」
「俺たちが何かって話」
「勝手に続きにするな」
「する」
「強いな」
「透相手だから」
結局またそういうことを言う。
透はため息をついたが、そのため息にはもう、最初の頃みたいな本気の抵抗はあまり混ざっていなかった。
「……じゃあまた明日」
「うん。また明日、透」
最後に名前を呼ばれて、やっぱり少しだけ胸がざわつく。
でもそれをもう完全には隠せない気がした。
玲央が手を軽く上げて、家とは逆方向へ歩いていく。
透はその背中を見送りながら、さっきの会話を頭の中で何度も反芻していた。
友達。
その言葉で片付けるには、たしかに近すぎる。
まだ何かに名前をつけるには早い。
でも、何もないふりをするには、もう遅い。
そのことだけは、はっきりしていた。




