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おまえ、俺のこと好きすぎない? ――学校では塩対応のイケメンが、放課後だけ距離感おかしい。  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第6話 名前を呼ばれただけで意識するの、ずるい

 翌朝、白石透は目覚ましが鳴るより少しだけ早く目を覚ました。


 カーテンの隙間から差し込む光は薄く、まだ朝の空気は冷たい。雨はもう上がっていた。昨日の帰り道を散々かき回した雲は、夜のうちにどこかへ流れていったらしい。


 布団の中でぼんやり天井を見上げながら、透は小さく息を吐く。


 最悪だった。


 何が最悪って、昨日のことを寝起き一番に思い出した自分が最悪だ。


 相合い傘。

 肩が触れたこと。

 何度も近いと思ったこと。

 最後に玲央が言った「白石、さっきからずっと可愛かったなって」という、思い出した瞬間に枕へ顔を埋めたくなる言葉。


「……何なんだよ、ほんとに」


 小さく呟いて、上半身を起こす。


 あれはたぶん、からかい半分だ。いや、八割くらいはそうだと思いたい。そう思わないと困る。あの顔で、あの声で、あんなことを真面目に言われたのだと考えたら、まともに教室へ行ける気がしない。


 洗面所で顔を洗いながらも、透の頭は全然すっきりしなかった。むしろ水が冷たいぶん、昨日の記憶だけが鮮明になる。自分でも嫌になるくらい、玲央の言葉や表情ばかり思い返してしまう。


 そして、そのたびに少しだけ心臓がうるさくなる。


 制服に着替えて、朝食を食べて、家を出る。

 いつもの通学路。いつもの駅。いつもの学校。


 全部いつも通りのはずなのに、今日に限って透の足取りはわずかに重かった。


 理由は分かっている。


 教室へ行けば、榊原玲央がいるからだ。


 顔を見た瞬間、昨日のことを思い出す。たぶん確実に思い出す。そして思い出した顔を見られたら終わる。玲央はそういうのにやたら気づくし、気づいたら絶対に面白がる。


 最悪だ。

 本当に最悪だ。


 そう思いながらも、教室の前まで来ると一度だけ呼吸を整えてしまう自分が、さらに最悪だった。


 扉を開ける。


 朝の教室は、まだ半分くらいしか埋まっていない。数人のクラスメイトが挨拶を交わし、何人かは席でスマホを見ている。窓際の女子たちが昨日のテレビ番組の話で盛り上がっていて、前の方では男子が眠そうに突っ伏していた。


 そして、いる。


 教室の後ろ。窓際寄りの席。

 玲央はすでに来ていて、いつものように静かな顔で本を読んでいた。


 視線が勝手にそちらへ向く。

 その瞬間、玲央が顔を上げた。


 目が合う。


 透は反射的に視線を逸らしかけたが、ぎりぎりで踏みとどまった。ここであからさまに避けたら、それこそ「何かありました」と言っているようなものだ。


 玲央は一瞬だけ透を見て、それからほんの少しだけ口元を緩めた。


 何その顔。

 昨日のこと覚えてます、って顔にしか見えないんだけど。


 透は何とか無表情を装って自分の席へ向かった。


「おはよ、白石」

 斜め前から水城直が言う。

「……おはよ」

「何その微妙な間」

「別に」

「朝から顔が面白い」


 うるさい、と言い返そうとした時、背後からまた声がする。


「おはよう、透」


 透は固まった。


 思考が一瞬、完全に止まった。


 今、何て言った?


 ゆっくり振り向く。

 玲央がすぐ後ろに立っていた。昨日と同じ整った顔で、でも昨日より少しだけやわらかい空気をまとっている。


「……は?」

 思わず、間抜けな声が出る。


 玲央は不思議そうに首を傾げた。


「何」

「いや、何じゃなくて」

「おはよう」

「それは聞こえた」

「じゃあいいじゃん」

「よくない」


 よくない。全然よくない。


 今まで玲央はずっと「白石」と呼んでいた。

 それが普通だった。そういう距離感だと思っていた。


 それなのに、今、何の前触れもなく「透」と呼んだ。しかもあまりにも自然に。まるで前からそうだったみたいな顔で。


 直が、机に突っ伏して肩を震わせ始める。

 最悪だ。聞かれていた。


「ちょ、ちょっと待って」

 透は小声で言う。

「何を」

「今……」

「うん」

「名前」

「呼んだけど」


 分かってる。

 分かってるけど、確認の仕方が雑すぎる。


「なんで」

「なんでって?」

「いや、だから、なんで急に……」


 言っている途中で、自分の声が少し裏返っていることに気づいてさらに恥ずかしくなる。直はもう露骨に笑っていた。


「白石、おまえ今日だめだな」

「うるさい」


 透が睨むと、直は「ごめんごめん」と全然悪びれずに言いながら玲央の方を見た。


「榊原くん、急に攻めるじゃん」

「攻める?」

「いや、名前呼びはだいぶでしょ」

「そう?」


 玲央は本気で分かっていなさそうな顔をする。

 絶対うそだ。


「……そうだよ」

 透が小さく言う。

「嫌だった?」

 玲央が聞き返す。


 嫌か、と問われると困る。


 嫌ではない。

 嫌ではないが、困る。

 めちゃくちゃ困る。


 その答えをうまく言葉にできずにいると、玲央は少しだけ目を細めた。


「じゃあ問題ない」

「何でそうなるんだよ」

「嫌じゃないなら」

「そういう雑な理屈やめろ」


 朝から心臓に悪すぎる。


     ◇


 一時間目が始まっても、透は落ち着かなかった。


 教科書を開き、ノートを取っているつもりなのに、頭の片隅ではさっきの「おはよう、透」が何度も繰り返されている。たったそれだけのことなのに、妙に耳に残るのだ。


 名前で呼ばれただけ。

 それだけ。

 それだけなのに、どうしてこんなに意識してしまうのか。


 いや、理由は分かっている。


 玲央が、今までそうしなかったからだ。


 ずっと苗字だった相手が、突然名前で呼んでくる。その変化を「ただのこと」と流せるほど、透は器用ではなかった。


「白石、ノート」


 小声で直に言われて、透ははっとする。

 先生が黒板に書いた内容から一行分遅れていた。


「やば」

「やばいのは知ってる」

「何」

「さっきから完全に上の空」

「うるさい」


 直は前を向いたまま、肩だけ小さく揺らした。笑っているのだろう。


 その後ろには玲央が座っている。

 見なくても存在を感じるのがまた困る。


 結局、一時間目は授業の三割くらいしか頭に入らなかった。


 休み時間になると、すぐに直が振り返る。


「で?」

「何が」

「名前呼び」

「……知らない」

「知らないわけないだろ」

「ほんとに知らない」

「いや絶対、昨日の続きだろ」

「昨日の続きって何だよ」

「相合い傘して、最後あんな感じで別れて、翌朝から名前呼びとか、もうどう見てもそうじゃん」

「どう見ても、の中身が雑すぎる」

「でも否定しきれてない」


 図星だった。


 透は言い返せなくなって、机の上の消しゴムをいじる。

 その時、真上から声が降ってきた。


「透」


 まただ。


 今度はもっと自然に呼ばれた。

 振り向く動作すら半拍遅れる。


「……何」

「次、移動教室だっけ」

「……理科室」

「そっか」


 それだけ言って玲央は席を離れる。


 たった一往復の会話。

 なのに透の心拍数だけがやたらと上がる。


「おい」

 直が小声で言う。

「何」

「もう慣れろよ」

「無理」

「即答」

「無理なもんは無理」


 だっておかしいだろ、と透は心の中で叫ぶ。


 名前で呼ばれるたびに、まるで自分だけに向けられたみたいな感じがする。実際そうなのだから困る。玲央が他のやつを名前で呼んでいるところなんて、少なくとも透はあまり見たことがない。


 それなのに、自分だけ。


 その事実を意識した瞬間、頬の辺りが熱くなる。


     ◇


 昼休み、透は弁当を広げながらもまだ少し落ち着かなかった。


 今日のメニューが何だったか、半分くらい味が分からない。朝の名前呼びだけでここまで引きずる自分もどうかしていると思うのだが、どうしようもないものはどうしようもない。


「白石」

 直が言う。

「何」

「おまえ今、自分で思ってるより分かりやすいぞ」

「分かりやすくない」

「玲央が名前呼ぶたびに固まってる」

「だからうるさい」


 そこで、ちょうどタイミングを見計らったみたいに玲央が隣へ来た。


「透、ここ座る」

「……は?」


 今、何て。


 だが玲央は気にした様子もなく、空いていた隣の席を引いて腰を下ろす。

 直がとうとう吹き出した。


「もうだめだろこれ」

「何が」

「いや全部」

「全部って雑だな」

「榊原くんも言うようになったな、それ」


 玲央は少しだけ首を傾げる。


「透の影響かも」

「俺のせいにするな」

「半分くらいそうじゃない?」

「何で」

「話しやすくなったし」


 何気ない一言だった。

 でもその言葉に、透は一瞬だけ呼吸を止める。


 話しやすくなった。


 それはつまり、前より距離が近くなったと玲央も思っているということだ。

 そんなの、言われたら意識するに決まっている。


「……おまえ」

「何」

「普通にそういうこと言うな」

「本当のことだけど」

「最近そればっかりだな」

「便利だから」


 便利じゃない。全然便利じゃない。


 透はそう言い返したかったが、その前に玲央が箸の先で透の弁当箱を示した。


「それ卵焼き?」

「見れば分かるだろ」

「今日はそれ返す日?」

「少しだけ」


 言ったあとで、何だかいつものやり取りに少し戻れた気がして、透はほんのわずかに安心する。安心してしまった自分にすぐ気づいて、また複雑な気持ちになるのだが。


 玲央はそんな透の表情を見て、少しだけ笑った。


「透」

「何」

「今ちょっと安心した?」

「してない」

「した顔だった」

「してないって」

「そういうところ、分かりやすい」


 自分の台詞をそのまま返されて、透は言葉を失う。


 直はもう完全に観客席の顔で二人を見ていた。


「ねえ白石」

「何」

「おまえもう諦めた方がよくない?」

「何を」

「榊原に振り回される生活」

「嫌な言い方するな」

「でも合ってる」

「……否定できないのが腹立つ」


     ◇


 五時間目の後の休み時間。

 透は職員室へ提出するプリントを持って席を立った。


 教室を出て廊下を歩く。窓の外は昨日の雨が嘘みたいに晴れていて、春の光が校舎の白い壁を明るく照らしていた。


 職員室で用件を済ませ、戻ろうとしたその時だった。


「白石くん?」


 後ろから声をかけられる。

 振り返ると、同じ学年の女子だった。クラスは違うが、委員会関係で何度か話したことがある。たしか図書委員の子だ。


「今度の掲示物なんだけど、白石くんのクラスの分、ちょっと確認したくて」

「あ、うん」


 透は立ち止まり、彼女の話を聞いた。

 本当にただの確認だ。数分で終わるような内容で、特別どうということはない。


 だから、まさかその場面を見られているとは思わなかった。


「……透」


 少し離れたところから聞こえた声に、透はびくっとした。


 そっちを見る。

 廊下の角の辺りに玲央が立っていた。


 なんでいるんだ、と一瞬思う。すぐに、次の授業の準備か何かで移動していたのかもしれないと気づく。だがそれにしても、呼び方が良くない。今この場でその名前呼びは良くない。


 女子が「え?」と小さく瞬く。

 そりゃそうだ。普通にそうなる。


「どうしたの?」

 透がなるべく平静を装って聞くと、玲央はいつもの顔で近づいてきた。


「次、移動だよ」

「あ、うん。分かってる」

「そう」


 会話はそれだけ。

 それだけなのに、妙な圧があった。


 女子の方は状況を察したのか、「じゃ、また後で!」と少しだけ早口で言って去っていく。透はその背中を見送り、それから玲央を振り返った。


「……何」

「何が」

「いや、今の」

「呼びに来ただけ」

「別に呼びに来なくてもよかっただろ」

「来たかったから」


 またそれだ。

 また、言い切る。


 透は額を押さえたくなった。


「おまえ、さっきの人に変なふうに思われるだろ」

「別に」

「別にじゃない」

「透」

「何」

「名前で呼ばれたくないならやめるけど」


 不意に、少しだけ静かな声になる。


 透は言葉に詰まった。


 嫌ではない。

 嫌ではないのだ。むしろ、その逆だ。


 ただ、あまりにも効きすぎるだけで。


「……別に、嫌じゃない」

 小さくそう言うと、玲央は一拍だけ黙った。


「そっか」

「……うん」

「じゃあやめない」

「何その確認」

「大事だから」

「ずるい」

「よく言われる」

「俺が言ってる」


 さっきも同じやり取りをした気がする。

 でもその繰り返しが、嫌じゃないと思ってしまった時点で、たぶん少し負けている。


     ◇


 放課後。

 教室には夕方の光が差し込んでいた。


 透は鞄をまとめながら、今日一日を思い返していた。朝から何度名前を呼ばれたか分からない。そのたびにいちいち反応して、勝手に疲れて、勝手に落ち着かなくなっている。


 なのに、完全にやめてほしいとは思わない。

 そこが一番厄介だった。


「透」


 まただ。


 もう呼ばれすぎて、振り向く前から心臓が反応する。


「……何」

「帰る?」

「帰るけど」

「途中まで一緒に行く」

「それ、もう確認じゃなくて決定だろ」

「うん」

「素直かよ」

「透相手だし」


 名前で呼ばれたあとにそういうことを言われると、本当にずるい。


 透は小さくため息をつきながら立ち上がった。


 二人で教室を出る。廊下には夕方特有の静けさがあって、窓の外の色だけが少しずつ柔らかく変わっていく。


「……榊原」

「何」

「今日、ずっと名前で呼んでたな」

「うん」

「何で」

「昨日、呼んでみようと思ったから」

「昨日?」

「相合い傘の時」

「……っ」


 急にそこへ戻すな。


 透は思わず歩く速度を乱した。玲央はそれに気づいているくせに、何でもない顔で続ける。


「白石って呼ぶより、透の方がしっくりきた」

「その理由で急に変える?」

「だめ?」

「だめっていうか……」

「うん」

「……意識するだろ」


 言ってしまってから、しまったと思った。


 だが玲央は驚いた顔ひとつせず、むしろ少しだけ柔らかい目になる。


「よかった」

「何が」

「ちゃんと意識してるんだなって」

「おまえな……」

「俺ばっかりじゃないって分かると安心する」


 その一言は、思ったよりずっと静かで、思ったよりずっと真っ直ぐだった。


 透は返す言葉を失った。


 結局ずるいのだ。

 玲央はこうやって、肝心なところだけ不意打ちみたいに本音を混ぜてくる。


 名前を呼ばれただけ。

 本当なら、それだけのはずだ。


 でも、その「それだけ」がこんなにも特別に感じるのは、呼んでいる相手が玲央だからで、呼ばれているのが自分だからだ。


 その事実を認めたくなくて、透は少しだけ顔を背けた。


「……名前呼ばれただけで意識するの、ずるい」

 ぽつりと漏らす。


 すると玲央はすぐ隣で、ほんの少しだけ笑った。


「知ってる」

「知ってるならやめろ」

「無理」

「即答」

「透がそういう顔するから」


 そういう顔って何だよ、と言い返したかったのに、たぶん今の自分は本当に何か顔に出ていたのだろう。言葉が続かなかった。


 夕方の風が、二人の間をすり抜けていく。

 隣に並ぶ距離は、初めて名前で呼ばれた朝より少しだけ自然だった。


 透はまだ、その変化を素直に喜ぶ気にはなれない。

 でも、嫌ではない。


 そのことだけは、もう誤魔化せなくなりつつあった。

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