第5話 相合い傘って、こんなに心臓に悪かったっけ
その日の最後のホームルームが終わった時、教室の空気はいつもより少しだけ重かった。
梅雨にはまだ早いはずなのに、昼過ぎから空の色が鈍くなっていたのだ。窓の外には分厚い灰色の雲が広がっていて、校庭の向こうの木々も、風にあおられてざわざわと落ち着かない音を立てている。
「絶対降るよな、これ」
前の席の男子が窓の外を見ながら言う。
「傘持ってきてねえ」
「俺も」
あちこちで似たような会話が始まる。
透もつられて窓の外を見た。確かに危ない空だ。だが朝の時点ではそこまで怪しくなかったし、天気予報も曖昧だった気がする。
「……やば」
鞄の中を確認する。教科書、筆箱、ノート、スマホ。折りたたみ傘は、ない。
家を出る時に少し迷ったのだ。持つほどでもないかと思って、そのまま置いてきてしまった。こういう時に限って、予感は悪い方に当たる。
「白石、傘ないの?」
声をかけてきたのは水城直だった。
透が顔を上げる前に、その隣から「ないよ」と代わりに答える声がした。
「……何でおまえが知ってるんだよ」
振り向くと、榊原玲央が立っていた。
「朝、持ってなかった」
「見てたの?」
「見れば分かるだろ」
またその言い方だ。
見れば分かる、で済ませるには、相手の持ち物を把握しすぎている気がする。だが今さらそれを指摘しても、玲央はきっと顔色ひとつ変えない。
直が面白そうに二人を見比べる。
「じゃあ白石、終わったな」
「何が」
「何がって、外」
「まだ降ってないだろ」
「今のうちに帰る?」
「いやでも、もうちょっとで委員の紙出さなきゃだし」
そうなのだ。今日中に提出しなければならないプリントがあって、透は帰り支度の前にそれを確認しておきたかった。ほんの数分で終わるはずだが、空の様子を見るとその数分が致命傷になる可能性もある。
そして、そういう不安はだいたい現実になる。
ぱたり、と最初の一滴が窓に当たった。
それを合図にしたみたいに、次の瞬間、雨粒が一気に数を増やす。
「うわ」
「降ってきた」
「結構強くね?」
教室のあちこちから声が上がる。
窓の外はもう完全に雨だった。しかも細い雨ではない。短時間で本気を出してくるタイプのやつだ。校庭の土の色があっという間に濃くなっていく。
透は深く息を吐いた。
「最悪……」
「傘ない人、誰かと帰るしかないな」
「駅までダッシュは無理だろ、これ」
周囲がわいわいする中、透は鞄の持ち手を握ったまま立ち尽くす。
本当に困った。家まではそこまで遠くないが、この雨の中をそのまま出たら確実にびしょ濡れになる。
「白石」
すぐ近くで玲央が呼ぶ。
「……何」
「帰る時、入ればいい」
「何に」
「傘に」
当たり前みたいに言われて、透は数秒遅れて理解した。
「え」
「俺、持ってるし」
「いや、それは分かるけど」
「じゃあ問題ない」
「いやいやいや」
かなり問題がある。
物理的な話ではない。玲央の傘に入れてもらえば、確かに濡れずに帰れるだろう。でも、その状況が問題なのだ。
「別におかしくないだろ」
「いや、おかしいだろ」
「何が」
「色々」
さすがに教室で「おまえと相合い傘は心臓に悪い」とは言えない。言えるわけがない。
直が完全に笑いをこらえている顔で口を挟む。
「白石、助かったじゃん」
「全然助かってない」
「助かってるだろ。濡れずに済むんだから」
「そういう問題じゃ」
「そういう問題だよ?」
玲央まで当然のように言う。
透は反論しかけて、やめた。
ここで必死に拒否すると、それはそれで余計に意識しているみたいで悔しい。
「……駅までだけ」
「うん」
「いや、家の方角一緒だから結局途中までか」
「そうだね」
「なんでちょっと嬉しそうなんだよ」
「そう見えた?」
「見えた」
「気のせい」
絶対気のせいではない。
◇
雨が少しでも弱まらないかと思っていたが、十分ほど待っても勢いは変わらなかった。むしろさっきより強くなっている気さえする。校舎の外は灰色の膜を張ったみたいに霞み、遠くの景色が見えにくい。
もう諦めるしかなかった。
昇降口には、同じように雨宿りをしていた生徒が何人も集まっている。コンビニで傘を買うか迷っているやつ、友達の迎えを待っているやつ、家族に連絡しているやつ。ざわざわした中で、透は自分の上履きをローファーに履き替えながら、妙に落ち着かなかった。
隣では玲央が、ごく普通の顔で折りたたみ傘を開いている。
ぱちん、と小さな音がした。
たったそれだけなのに、なぜか逃げ場がなくなる。
「行く?」
玲央が聞く。
「……うん」
声が少しだけ小さくなった。
自分でも分かるくらいに不本意だ。
昇降口を一歩出た瞬間、湿った風が頬をかすめた。アスファルトを打つ雨音が思ったより大きい。玲央が傘を少し高く持ち上げ、自然に透の方へ傾ける。
「入って」
「入ってる」
「もっと」
「いや近いだろ」
「濡れる方が嫌じゃない?」
その言い方があまりにも正論すぎて、透は何も言い返せない。
仕方なく一歩だけ内側へ寄る。
その瞬間、肩が触れた。
「っ」
自分でも分かるくらい露骨に反応してしまい、透はすぐ前を向いた。見られたくない。見られたら絶対何か言われる。
だが玲央は何も言わなかった。
何も言わなかった代わりに、傘をさらに少しだけ透側へ傾けた。
「おまえ、そっち濡れるだろ」
「大丈夫」
「いや濡れてる」
「白石が濡れなきゃいい」
さらっと言うな。
雨音に紛れて小さく息を吐く。
そういうことを、どうしてこんな自然に言えるのか本当に分からない。
二人で並んで歩く。校門を出て、駅へ向かういつもの道。見慣れたはずの景色なのに、今日だけは全部が少し違って見えた。雨に濡れた道路が街灯の光を曖昧に反射していて、行き交う車の音も、普段より近く聞こえる。
そして何より、玲央が近い。
当然だ。一本の傘に二人で入っているのだから。
当然の距離。
当然のはずなのに、透の心臓はまったく納得していなかった。
「白石」
「何」
「歩幅、もう少しゆっくりでいい」
「え?」
「今ちょっと速い」
「……別に速くしてない」
「してる」
指摘されて初めて、自分が微妙に足早になっていたことに気づく。
意識しすぎて逃げるみたいな歩き方になっていたらしい。恥ずかしい。
「別に、普通」
「普通じゃない」
「おまえ基準で言うな」
「白石基準で言ってる」
「なお悪い」
雨のせいで顔が熱いのを誤魔化せると思いたいが、たぶん誤魔化せていない。
少し歩いたところで、車が水たまりを跳ねそうになった。透が反射的に身を引くより早く、玲央が肩を抱くようにして内側へ引き寄せる。
「危な」
「……っ!」
ほんの一瞬。
でも距離はさっきまでよりずっと近くなった。
腕が肩に触れて、制服越しの体温が伝わる。雨の中なのに、その部分だけ妙に熱い。
「だ、大丈夫」
「うん」
「離せ」
「ごめん」
そう言いながら離れるのが少し遅い。
絶対わざとではない。わざとではないはずなのに、間が悪い。
透は前を向いたまま、必死で呼吸を整えた。
相合い傘って、こんなに心臓に悪かったっけ。
もっとこう、少女漫画とかドラマの中のイベントだと思っていた。自分には関係のない、見ている側のものだと。実際にやると、こんなに落ち着かないなんて知らなかった。
「白石」
「……何」
「顔赤い」
「雨で暑いだけ」
「今日そこまで暑くないけど」
「うるさい」
玲央が小さく笑う気配がした。
見なくても分かる。絶対少し楽しんでいる。
「楽しんでるだろ」
「少し」
「認めるな」
「白石が分かりやすいから」
その返し、最近多いな、と透は思う。
そして悔しいことに、否定できない。
◇
駅前まで来ると、屋根のある場所が増えて少しだけ雨音が遠くなった。けれど二人の距離は変わらない。傘の下にいる限り、それは当然だった。
人通りの多い交差点で信号待ちをしている時、透は妙に落ち着かなくて、何となく玲央の方を見た。
玲央は前を向いたまま、片手で傘を持ち、もう片方の手で鞄のベルトを軽く握っている。雨粒が傘の端から落ちて、その肩口をわずかに濡らしていた。
「……だから濡れてるって」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないだろ」
「白石の方が大事」
まただ。
またそういうことを平然と言う。
透は何も返せなくなって、視線を逸らした。
こんなのずるい。普通に返せるわけがない。
信号が青になる。
二人並んで歩き出したところで、透のスマホが小さく震えた。直からのメッセージだった。
『今たぶん相合い傘中だろ』
最悪だ。
透は即座に画面を閉じたが、隣から玲央が覗き込むように聞いてくる。
「誰」
「直」
「何て」
「言わない」
「なんで」
「絶対面白がるから」
玲央は少しだけ黙ってから、納得したように「それはそうかも」と言った。
「おまえも大概だけどな」
「否定しない」
「しろよ」
「今はしたくない」
意味が分からない。
分からないのに、どこか少しだけ嬉しいと思ってしまう自分が悔しい。
◇
駅を過ぎて、家の方向が近づくにつれて、透はなぜか少しだけ焦り始めていた。
この時間が終わることに、ではない。
いや、たぶん少しはそうなのかもしれない。
でもそれを認めるには、まだ早すぎる。
「この辺でいい」
透が言う。
「まだ先でしょ」
「でもおまえんち、逆方向寄るだろ」
「少しくらい平気」
「少しくらいじゃない」
「白石」
「何」
「俺が送りたいだけ」
そう言われると、もう反論の形が難しい。
透は数秒黙ってから、諦めたように小さく息を吐いた。
「……じゃあ、ほんとに途中までだけ」
「うん」
返事が少しだけ柔らかい。
たぶん、今の「うん」は結構機嫌がいい時のやつだ。
その事実に気づく自分も、だいぶどうかしている。
住宅街に入ると、人通りが一気に減った。雨音と、二人の足音だけが続く。街灯の明かりに照らされた雨粒が、傘の外側で細く光っていた。
静かだった。
静かなのに、嫌な沈黙ではなかった。
「……おまえさ」
透がぽつりと言う。
「何」
「こういうの、他のやつにもするの」
「何が」
「相合い傘とか」
「しない」
「即答」
「白石だから」
またそれだ。
「何でもそれで済むと思うなよ」
「結構済んでる」
「済んでない」
「じゃあ今のもだめ?」
「だめっていうか……」
「うん」
「……反則っぽい」
「何が」
「言い方が」
玲央はそこで、小さく息を吐くみたいに笑った。
笑われたこと自体は悔しい。でも、さっきまでの自分の言葉を思い返すと、たしかにかなり正直すぎた気もする。
「白石」
「何」
「今、ちゃんと俺のこと意識してる?」
「……してない」
「嘘」
「してないって」
「してる顔してる」
図星すぎて腹が立つ。
透は思わず一歩ぶん玲央から離れかけた。
その途端、傘の外に肩が出て、冷たい雨粒が制服に落ちる。
「ちょ、濡れる」
「おまえのせいだろ」
「戻って」
「……おまえほんと」
「うん」
「ほんと、距離感おかしい」
「知ってる」
知ってるのかよ。
心の中でだけそう叫ぶ。
でもその「知ってる」が少し嬉しそうに聞こえてしまったのが、また悔しかった。
◇
家の近くの角まで来たところで、透は足を止めた。
「ここでいい」
「ここ?」
「うん。もうすぐだから」
「送る」
「いや、さすがにそれはいい」
「そう」
「……十分送ってもらったし」
「白石」
「何」
「ほんとに風邪ひくなよ」
玲央の声は、ここまで来る間で一番静かだった。
からかう感じもなく、意地悪く笑う感じもなく、本当にそれだけを気にしているみたいな声。透はその声に弱い。最近、特に。
「……ひかない」
「ならいい」
「おまえこそ、肩濡れてたし」
「平気」
「平気じゃなくても知らないからな」
「知ってる」
絶対知ってないだろ、と思ったが、口には出さなかった。
玲央は傘を少し上げて、透が雨の中に出やすいように角度を変える。
その気遣いが自然すぎて、また困る。
「じゃあ」
透が言う。
「うん」
「……ありがと」
それは今日一番、ちゃんと素直に言えた言葉だった。
玲央は少しだけ目を見開いて、それから柔らかく笑う。
「どういたしまして」
その笑い方が思ったより優しくて、透は一秒だけ固まった。
まずい、と思った時にはもう遅い。たぶん顔に出た。
「何」
「いや」
「何か言いたそう」
「言わない」
「なんで」
「今は無理」
玲央がまた少し笑う。
「分かった」
「じゃあ帰れ」
「帰る」
「ちゃんと」
「ちゃんと帰る」
ようやく傘の下から出る。
雨が肩に触れて少し冷たい。振り返ると、玲央はまだそこに立っていた。
「……何」
「いや」
「だから何」
「白石、さっきからずっと可愛かったなって」
心臓が止まるかと思った。
「は!?」
「じゃあまた明日」
「待て、今の撤回しろ!」
「無理」
玲央はそう言って、雨の中を歩き出す。
背中はすぐに街灯の薄い光と雨に溶けていった。
一人残された透は、その場でしばらく動けなかった。
相合い傘。
たったそれだけ。
たったそれだけの帰り道だったはずなのに、心臓は最初から最後までずっと忙しかった。
制服の肩は少しだけ濡れている。
でも、それ以上に熱い場所が胸の奥に残っていた。
玄関に駆け込んで、扉を閉めて、ようやく壁にもたれる。
「……相合い傘って、こんなに心臓に悪かったっけ」
誰に聞くでもなく呟く。
返事なんてあるはずもない。
ただ、明日教室で玲央の顔を見たら、今日のことを思い出してたぶんまた落ち着かなくなるだろう、ということだけははっきり分かった。
それが少し嫌で、かなり困って、でもほんの少しだけ待ち遠しいと思ってしまった自分に、透はまだ気づかないふりをした。




