第4話 それ、嫉妬じゃないって言い張るの無理があるだろ
放課後の教室というのは、昼間とは別の場所みたいだと白石透は思う。
授業中はあれだけ人の気配で満ちているのに、最後のチャイムが鳴って部活組がいなくなり、帰宅組も少しずつ姿を消していくと、教室には妙にやわらかい静けさが残る。窓から差し込む夕方の光は長く伸びて、机の上に置かれた消しゴムやペンの影まで、やけにくっきり見えた。
透は鞄に教科書を詰めながら、小さく息を吐く。
今日は特に予定はない。直と途中まで帰るか、もしくは一人でそのまま駅へ向かってもいい。体育の授業で変に疲れたし、できれば寄り道もせず、まっすぐ帰ってしまいたかった。
「白石ー」
後ろの方から、クラスメイトの男子に声をかけられる。
透が振り返ると、同じクラスの高城が、机に片手をついたままこちらを見ていた。明るくて人当たりがよく、誰にでも気軽に話しかけるタイプだ。透とも普通に話すし、別に苦手ではない。
「今日、駅前寄ってから帰るんだけど、おまえも来る?」
「え?」
「コンビニで新作アイス出たらしくてさ。あと、ちょっと本屋も見たいし」
なんとも高校生らしい、ゆるい誘いだった。
透は一瞬だけ迷う。体育の後で甘いものというのは少し惹かれるし、気分転換にもなるかもしれない。今日はまっすぐ帰るつもりでいたが、断るほどでもない。
「どうしよ……」
「そんな悩むほどじゃなくね?」
「いや、そうなんだけど」
「みんなでちょっと寄るだけだし。気が向いたらでいいよ」
「……じゃあ、少しだけなら」
「よし。じゃ、下駄箱のとこで待ってるわ」
高城は軽く手を上げて、近くの友達のところへ戻っていく。
透も曖昧に頷いてから、机の中をもう一度確認した。ノート、筆箱、スマホ。忘れ物はない。あとは鞄を閉めて立ち上がるだけ——のはずだった。
「白石」
すぐ隣から、落ち着いた声がする。
透が視線を向けると、榊原玲央が立っていた。いつの間に近くまで来ていたのか分からない。相変わらず気配が静かすぎる。
「……何」
「今の、駅前行くの?」
「今のって」
「さっきの話」
玲央の声はいつも通りだった。低くて、平坦で、特に感情の起伏はない。けれど、ほんの少しだけ、温度が低い気がした。
「たぶん」
「たぶん」
「まだ分かんないけど」
「ふーん」
短い返事。
それだけで終わるのかと思ったのに、玲央は透の机の横に軽く手をついたまま動かなかった。視線だけが、さっき高城が立っていた辺りを一瞬なぞる。
「……何」
「別に」
「なんか機嫌悪い?」
「悪くない」
「いや、ちょっと悪いだろ」
「悪くないって」
口調は落ち着いているのに、やっぱり少しだけぶっきらぼうだ。露骨に怒っているわけではない。けれど、さっきまでの自然な空気と比べると、明らかに硬い。
なんだこれ。
透は眉をひそめた。思い当たる節がない。今日の授業中に何かした覚えもないし、さっきだってクラスメイトに誘われただけだ。
——いや、まさか。
そこまで考えて、透は一度思考を止める。そんなわけはない。たかがクラスメイトに帰り道を誘われただけで空気が変わるなんて、そんなの。
「白石ー、行くなら早くしろよー」
教室の出口の方から高城が再び声をかけてくる。もう何人か集まっているらしく、数人分の笑い声も混じっていた。
「あ、うん。今行く」
透が返事をすると、隣にいた玲央がほんの少しだけ目を細めた。
その動きは一瞬だった。気づかない人なら見逃すくらいの変化。でも最近の透は、なぜかそういう小さな違いばかり拾ってしまう。
「榊原、おまえも帰る?」
なんとなく聞いてみる。
すると玲央は数秒だけ沈黙してから、淡々と答えた。
「帰るけど」
「じゃあ途中まで……」
「いや、いい」
被せるように言われて、透は目を丸くした。
「……あ、そう」
「うん」
短い。明らかに短い。さっきまでよりさらに短い。
そこでようやく、透の中に確信めいたものが生まれる。
これ、たぶん本当に機嫌悪い。
しかも原因、今のやり取りじゃないか?
いやいやいや、と心の中で自分に言い聞かせる。早まるな。考えすぎだ。勝手に都合のいい解釈をして、あとで自分が恥ずかしくなるだけかもしれない。
だが、そう思っても、玲央の空気の変化はかなり分かりやすかった。
「じゃあ、行ってくる」
透がとりあえずそう言うと、
「……うん」
と玲央は返した。
その「うん」さえ少し硬い。
透は変な気まずさを抱えたまま教室を出た。
◇
駅前へ向かう道は、放課後らしいざわめきに満ちていた。
制服姿の高校生、買い物帰りの主婦、自転車で通り過ぎる中学生。夕方特有の、少しだけ浮ついた空気。高城たちはそんな中でも妙に元気で、コンビニに着く前から「アイス何味がいい」とか「本屋寄ったら漫画の新刊見たい」とか好き勝手に話していた。
透はその輪の中にいながら、どこか上の空だった。
「白石、何にする?」
高城がアイスのケースを覗き込みながら聞いてくる。
「え、あー……どうしよ」
「めっちゃぼーっとしてるじゃん」
「してない」
「してるって。体育で疲れた?」
「まあ、それもある」
嘘ではないが、全部でもない。
頭の片隅にあるのは、やっぱり教室を出る前の玲央の顔だった。怒っていた、というほどではない。けれど明らかにいつもと違った。あれが単なる気のせいで片付くほど、ここ数日の透は鈍くなかった。
「白石ってさ」
高城が笑いながら言う。
「ちょっと話しかけるとすぐ『え?』って顔するよな」
「なんだよそれ」
「いや、なんか面白い」
「褒めてないだろ」
「半分くらいは褒めてる」
そんな軽口を返しながらも、透の視界は何度か無意識に入口のガラスへ向いた。もちろん玲央が来るはずもないのに。
来るはずもないのに、もし来たらどうするんだろう、とか、そんなことまで考えている自分に気づいて、透は内心で頭を抱えた。
重症だろ、これ。
コンビニを出たあと、高城たちはそのまま駅前の小さな書店へ流れた。立ち読みといっても、だいたいは新刊コーナーを覗いて雑談するだけだ。透もそれに付き合いながら、少しずつ平静を取り戻そうとする。
……いや、そもそも何をそんなに気にしているんだ。
玲央が機嫌悪そうに見えたからって、それがどうした。自分には関係ない——と言い切れたら楽だった。
「白石」
「ん?」
「これ好きそうじゃね?」
高城が差し出してきたのは、表紙の柔らかい雰囲気が目を引く青春小説だった。たしかに嫌いじゃなさそうなジャンルだ。
「どうだろ」
「え、好きそうなのに」
「なんで」
「なんか静かな感じ?」
「適当だな」
「でも外れてないだろ」
笑い合う、その何気ないやり取りの途中で、透はふとガラス越しの外を見た。
歩道の向こう側。夕方の薄い光の中に、見覚えのあるシルエットがあった。
黒髪。少し長めの前髪。きっちりした制服の着方。立っているだけで妙に目を引く姿。
「……は?」
思わず声が漏れた。
「何?」
高城が隣で首を傾げる。
「いや、あれ……」
「え、誰?」
「……いや、なんでも」
なんでもよくない。
どう見ても玲央だった。
書店の前を通り過ぎるわけでもなく、少し離れた街路樹のそばに立ってスマホを見ている。けれど、その立ち位置が絶妙だった。こちらを見ているわけではない。見ているわけではないのに、書店の出入口は視界に入る場所。
まるで待っているみたいじゃないか。
いや、違う。偶然だ。偶然ここを通りかかっただけかもしれない。そう思いたいのに、そう思えば思うほど怪しくなる。
「白石、知り合い?」
「……うん、まあ」
「声かける?」
「いや、別に……」
言葉を濁しているうちに、高城が何気なく外へ視線を向けた。
「あ、あの人? 同じ学校っぽいな」
「……うん」
「迎え?」
「違う」
反射的に強めに否定してしまったせいで、高城が少しだけ驚いた顔をする。
「ご、ごめん。そんな強く言うとは思わなくて」
「いや、こっちこそ」
「でも知り合いなんだろ? なら呼べば?」
「いや、ほんと大丈夫」
大丈夫なわけがない。
透は心の中だけでそう呟いた。
その時だった。外にいた玲央が、スマホから顔を上げてこちらを見た。正確には、書店の中を見た。そして透と視線が合う。
数秒。
たったそれだけで、なぜか逃げ場がなくなる。
玲央は何の表情も浮かべなかった。ただそのまま書店の入口の方へ歩いてくる。
「……え」
高城が小さく声を上げる。
「白石、知り合い来るじゃん」
「見れば分かる……」
玲央は店の中へは入らず、入口の手前で立ち止まった。中にいる透へ向けて、静かな声で言う。
「白石」
「……何」
「まだかかる?」
「え?」
「帰るの」
それは一見、ただの確認だった。
けれど透には分かる。言葉の表面は穏やかでも、空気が少しだけ張っている。高城に向けるでもなく、透にだけ向けた低い声。
「いや、もうそろそろ……」
「そっか」
玲央は短く頷く。そこで終わるかと思ったら、高城が人懐っこい調子で口を挟んだ。
「白石の友達?」
「同じクラス」
と透。
「へえ。じゃあ一緒に帰る感じ?」
その何気ない一言で、空気が変わった。
本当に、分かりやすいくらいに。
玲央は高城を見た。別に睨んだわけじゃない。ただ視線を向けただけだ。それなのに妙に冷たく見える。
「……どうだろ」
玲央が答える。
声は静かだ。静かなのに、明らかにさっきより温度が低い。
高城もそれを感じ取ったのか、「あ、そっか」と少しだけ笑みを引っ込めた。
透はたまらず二人の間に割って入るように言った。
「俺、もう帰る」
「え、まじ?」
高城が目を瞬かせる。
「うん。なんか、ちょっと疲れたし」
「そっか。じゃあまた明日な」
「うん、また」
高城に手を振って、透は書店の外へ出た。
ドアが閉まる音と同時に、外の空気が少しだけひんやり感じる。隣には玲央が立っていた。夕方の光がその横顔を薄く照らしている。
「……何してんの」
透は小声で言った。
「何が」
「いや、こっちの台詞じゃなくて」
「帰り道」
「それは見れば分かる」
そこで玲央は、ほんの少しだけ口元を動かした。笑ったのかどうか分からないくらいの変化だ。
「白石も、今それ言うんだ」
「誰のせいだと思ってる」
「俺かも」
前にも聞いたやり取りなのに、今日は妙に落ち着かなかった。
「なんであそこにいたの」
「本屋寄ろうと思って」
「……ほんとに?」
「半分は」
「半分?」
「白石、いるかなって思った」
さらっと言う。
透は足を止めそうになった。
「……おまえさ」
「何」
「そういうこと、普通に言うなよ」
「本当のことだから」
それももう聞いた。聞いたのに全然慣れない。むしろ毎回きっちり効いてくるのだから、たちが悪い。
二人で駅前を歩き出す。少しだけ沈黙が落ちる。透はその間に、自分の中でさっきから引っかかっているものの正体を整理しようとした。
教室で機嫌が悪そうだったこと。高城の話が出たあたりから空気が変わったこと。書店の前で、玲央が妙に低い声を出したこと。
そこまで揃えば、さすがに鈍い透でも思う。
それ、もしかして——。
「榊原」
「ん?」
「さっき、機嫌悪かった?」
「悪くない」
「いや、教室でも今も、ちょっと悪いだろ」
「気のせい」
「気のせいじゃないと思う」
玲央は返事をしなかった。
その沈黙が逆に答えみたいで、透は少しだけ強気になる。
「高城といたから?」
「……なんでそう思うの」
「だって明らかにその辺から空気変わったし」
言いながら、透は自分で顔が熱くなっていくのを感じた。こんなこと、普通聞かない。聞かないのに、聞かずにいられなかった。
玲央は前を見たまま、しばらく黙っていた。
「白石」
「何」
「他のやつと楽しそうにしてるの、あんまり好きじゃない」
「……は?」
思考が止まる。
好きじゃない。
今、そう言ったか。
「え、何それ」
「そのまま」
「そのままって……」
玲央はそこでようやく透を見た。夕方の光の中で、その目はいつもより少しだけ感情が出ている気がした。落ち着いているのに、どこか不機嫌。いや、不機嫌というより拗ねているに近いのかもしれない。
「……あんまり、他のやつと距離近いの好きじゃない」
また言う。
今度はさっきよりはっきりと。
透は何も言えなくなった。
それは、友達相手に言うには少し重すぎる言葉だった。少なくとも、ただのクラスメイトに向ける温度ではない。
「それって」
透がやっと声を出す。
「それ、嫉妬みたいじゃん」
「みたいじゃなくて、たぶんそう」
あっさり認めた。
認めるんだ。
透は本気で驚いて、足を止める。玲央も数歩先で止まって振り返る。通り過ぎる自転車のベルが遠くで鳴った。
「……いや、待って」
「何」
「待って、ちょっと整理させて」
「うん」
「嫉妬って、何に対して」
「白石に決まってる」
当然みたいに言うな。
叫びたかったが、実際に出たのは小さく息を飲む音だけだった。
玲央はそこで少しだけ視線を逸らす。珍しく、自分の言葉に自覚があるみたいな顔だ。
「……自分でも分かってる。面倒くさいこと言ってるの」
「分かってるなら言うなよ」
「でも嫌だったから」
「嫌、って」
「白石が、ああいう感じで他のやつと帰るの」
透の胸の奥で、何かが変な音を立てた。
困る。かなり困る。
なのに、嫌じゃない。むしろその逆に近いのがもっと困る。
「おまえさ」
「うん」
「俺がそれ聞いて、どう返せばいいと思ってる?」
「別に」
「別に?」
「困ればいいかなって」
「最悪」
思わずそう言うと、玲央がようやく少しだけ笑った。
その笑い方を見た瞬間、透は思う。ああ、やっぱりさっきまでの不機嫌は本物だったんだ、と。しかもその原因は、本当に高城と自分のやり取りだったのだ、と。
それ、嫉妬じゃないって言い張るの無理があるだろ。
心の中でそう突っ込みながら、透はようやく歩き出した。玲央も何も言わず隣に並ぶ。
沈黙が落ちる。けれど、その沈黙はさっきまでとは全然違った。少し熱を持っていて、少しだけ居心地が悪くて、それでも妙に落ち着く。
「……もう高城たちとは合流しない」
透が小さく言う。
「うん」
「別におまえのためじゃないから」
「知ってる」
「絶対分かってない」
「どうだろ」
またその返しだ。
透はため息をつきながら、ちらっと隣を見る。玲央はいつもの落ち着いた顔に戻っていた。でも、さっきより少しだけ空気がやわらかい。分かりやすすぎる。
「榊原」
「何」
「機嫌、直った?」
「最初から悪くない」
「いや絶対悪かった」
「……今は少しいいかも」
「認めるんだ」
「白石がこっち来たから」
だから、そういうことを普通に言うな。
透はもう何度目か分からない動揺を抱えたまま、前を向いた。夕方の風が少しだけ頬を冷やしてくれる。
高城と寄り道したのは、たった数十分だった。なのに、その短い時間だけでこんなに心がかき回されるなんて思わなかった。
玲央が自分に対して特別だということは、もう薄々分かっていた。
でも、その特別が「嫉妬」という形で出てくるとは思っていなかった。
しかも本人がそれをあっさり認めるなんて。
ずるい。
ずるすぎる。
そんなふうに一歩だけ踏み込んでくるくせに、肝心なところはまだ言わないのだから。
駅へ続く道の途中で、玲央がふと口を開いた。
「白石」
「何」
「今度、帰りに寄るなら」
「うん」
「先に言って」
「なんで」
「……また機嫌悪くなるかもしれないから」
自覚あるんだ。
透はもう笑うしかなくなった。小さく吹き出すと、玲央が少しだけ眉を上げる。
「何」
「いや」
「何だよ」
「おまえ、ほんと分かりやすい時あるなって」
「白石にだけだと思う」
「そういうのやめろ」
「無理」
即答だった。
透は顔を逸らした。たぶんまた少し赤くなっている。夕方の光のせいにできるうちに、前を向いて歩く。
隣に玲央がいる。
その事実が、今日はやけに大きかった。
嫉妬なんて、普通はもっと面倒で厄介な感情のはずだ。なのに、玲央のそれは面倒なはずなのに、どこか少しだけ嬉しいと思ってしまった自分がいる。
それを認めたら終わりな気がして、透はまだ言葉にしなかった。
ただ、はっきり分かったことが一つだけある。
榊原玲央は、やっぱりおかしい。
少なくとも、自分に対してはかなりおかしい。
そして、そのおかしさが少しずつ心地よくなってきている自分も、たぶんかなりおかしい。




