第61話 本屋ならデートじゃないと言い張れると思っていた
火曜日の朝、透はいつもの柱の前で玲央を待っていた。
もう、そこに立つことに迷いはない。
迷いがない、というより、迷う前に体が動く。
家を出て、電車に乗って、駅に着いて、改札を抜ける。
そして自然に柱の前へ行く。
以前なら考えられなかった。
誰かを待つために、毎朝同じ場所へ向かうなんて。
けれど今は、それが一日の始まりになっている。
改札の向こうに玲央の姿が見えた。
制服姿の玲央が、こちらに気づく。
その瞬間、表情がほんの少しやわらぐ。
その変化を見るたびに、透は胸の奥が少しだけ落ち着く。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
名前で呼ぶ。
玲央が少し笑う。
これももう、朝の形だった。
「今日も待ってた」
「毎朝言うな」
「嬉しいから」
「知ってる」
玲央はまた少し嬉しそうにした。
透はそれを見て、ため息をつくふりをする。
本当に呆れているわけではない。
それが自分でも分かっているから、余計に面倒だった。
二人で学校へ向かって歩き出す。
朝の道はいつも通りだ。
制服姿の生徒たちが同じ方向へ歩き、コンビニの前では誰かが友人を待っている。自転車で通り過ぎる上級生のベルが、少し遠くで鳴った。
その中で、玲央がふいに言う。
「本屋の話」
透は足を止めそうになった。
「……朝から来るか」
「昨日、また行ってもいいって言ってくれた」
「言ったけど」
「うん」
「次の土曜とは限らないって言っただろ」
「覚えてる」
「覚えるな」
「無理」
「だろうな」
透は顔を逸らした。
昨日の帰り道、自分は確かに言った。
また、本屋へ行ってもいい、と。
勉強以外でもいい。
その流れで、本屋なら行ってもいいかもしれないと思ってしまった。
本屋なら自然だ。
参考書ではなくても、漫画でも文庫でも雑誌でも、ただ本を見るだけならそこまで大げさではない。
映画館やカフェよりは、ずっと言い訳が効く。
そう考えている時点で、もうかなり追い詰められている気もするが。
「玲央」
「何?」
「本屋なら、別に変じゃないだろ」
「うん」
「学校帰りに寄ることだってあるし」
「うん」
「休日でも、ただ本見るだけだし」
「うん」
「だから、別に」
そこで言葉が止まる。
だから、別に何だ。
デートではない。
そう言えばいい。
けれど、言おうとした瞬間、自分でも少し苦しくなった。
玲央は隣で静かに待っている。
最近、この待ち方に本当に弱い。
「……本屋なら、行きやすいってだけだ」
透が言うと、玲央はゆっくり頷いた。
「うん。透が行きやすいなら、俺は嬉しい」
「そこで嬉しがるな」
「無理」
「知ってる」
玲央は少しだけ笑った。
透も、ほんの少しだけ口元が緩みそうになって、慌てて前を向いた。
◇
教室に入ると、高城がすぐにこちらを見た。
「おはよう、休日本屋予備軍」
「何だその呼び方」
透が鞄を置くと、高城はにやにやした。
「いや、昨日の流れ的に次は本屋かなって」
「おまえ、本当に余計なところだけ覚えてるな」
「余計じゃないだろ。重要イベントだろ」
「イベントにするな」
直が近くの席から振り返る。
「本屋なら自然だとは思う」
「直までその話かよ」
「昨日、自分で言ってただろ。次は本屋でもいいって」
「そこまで明確には言ってない」
「また行ってもいい、とは言ってたな」
「……おまえら記憶力を他に使え」
高城が笑う。
「いやあ、でもいいんじゃね? 本屋なら白石も行きやすいだろ」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題?」
「……」
透は答えに詰まった。
どういう問題か。
それは自分でもよく分からない。
玲央と休日に会うこと。
勉強ではない理由で会うこと。
それを自分がどこまで受け入れているのか。
そこがまだはっきりしていない。
けれど、嫌ではない。
それだけは分かっている。
高城が少しだけ声を落とした。
「白石、嫌ならやめとけよ」
「……急にまともなこと言うな」
「いや、そこは大事だろ」
「分かってる」
透は少しだけ玲央の方を見た。
玲央は少し離れた席で、こちらを見ていた。
目が合う。
玲央は何も言わない。
ただ、待っている。
その顔を見ると、透の中にあった迷いの形が少し変わった。
「嫌ではない」
透は小さく言った。
高城と直が同時にこちらを見る。
「……何だよ」
透が睨むと、高城は少し笑った。
「いや、出たなって」
「何が」
「白石の大事なやつ」
「勝手に大事にするな」
直が静かに言う。
「でも、前より声がはっきりしてる」
「分析するな」
「事実確認」
「いらない」
透は教科書を机に置いた。
玲央の方を見ると、まだこちらを見ていた。
その表情が少しだけ柔らかくなっている。
たぶん、聞こえていた。
透はすぐに目を逸らした。
◇
一時間目の休み時間、玲央が透の席へ来た。
「透」
「何」
「さっきの、聞こえた」
「……だろうな」
「嫌ではないって」
「聞こえたなら復唱するな」
「嬉しかった」
「知ってる」
いつもの返し。
けれど、玲央はそこで少しだけ黙った。
「何」
「でも、無理はしなくていい」
透は玲央を見た。
玲央はまっすぐこちらを見ていた。
「俺は会えたら嬉しいけど、透が無理して合わせるのは嫌だ」
「……おまえさ」
「うん」
「そういうところ、ずるい」
「ずるい?」
「押してくるくせに、ちゃんと引くところ」
玲央は少しだけ目を伏せた。
「透が嫌がることはしたくない」
「嫌ではないって言っただろ」
「うん」
「だから、そこは受け取れ」
言ってから、透は自分で少し驚いた。
思ったより強く出た。
玲央も一瞬だけ目を見開く。
「透」
「何」
「今の、かなり嬉しい」
「言うと思った」
「でも言いたい」
「……知ってる」
高城が遠くから見ていたが、何か言う前に直に止められていた。
最近、周囲の扱いまで変わってきた気がする。
◇
昼休み、玲央はいつも通り透の席へ来た。
「ここ、いい?」
「うん」
玲央が座る。
高城と直も自然に集まってきた。
席替えをしたはずなのに、昼の形はあまり変わっていない。
「で、本屋の件だけど」
高城がパンを開けながら言う。
「まだ続けるのか」
「続ける。俺はちょうど新刊買いたいし」
「おまえも来る気か?」
「いや、行かない。そこは空気読む」
「今さら?」
「最近少し覚えた」
直が淡々と言う。
「本当に空気を読むなら、最初からこの話題を出さない」
「水城、厳しい」
「事実だ」
透は少しだけ笑いそうになった。
高城が本気で悪気なく空気を踏みかけ、直が回収する。
その流れも、ずいぶん馴染んできた。
玲央は弁当を開けながら、静かに言う。
「透がいいなら、俺は本屋に行きたい」
高城が口を閉じる。
直も何も言わない。
透は箸を持ったまま、少しだけ固まった。
玲央は続ける。
「勉強じゃなくても、本を見て、一緒に歩けたら嬉しい」
「……そういうの」
「うん」
「昼休みに言うなって、何回」
「言うな?」
「……いや」
透は一度口を閉じた。
いつもなら止める。
照れ隠しで怒る。
でも、今日は少し違った。
「言うな、じゃない」
玲央が目を瞬かせる。
透は視線を弁当に落としたまま言った。
「急に言うな。心臓に悪い」
高城が静かに口を押さえた。
直が水筒を持つ手を止めた。
玲央は、少しだけ息を呑んだようだった。
「透」
「何」
「今の、受け止めてくれた?」
「……知らない」
「知らないって顔じゃない」
「見るな」
「見えるから」
「便利に使うな」
玲央は少しだけ笑った。
透も、顔を逸らしながら弁当を食べる。
完全に受け止められたわけではない。
でも、玲央が本屋に行きたいと言ったことを、突き返したくはなかった。
それだけは分かった。
◇
午後の授業中、透は何度か本屋のことを考えた。
行くなら、どこの本屋か。
駅前の本屋なら、先日も行った。
しかし同じ場所だと、前回の延長になりすぎる気もする。
少し離れた大型書店なら、品揃えも多い。文庫も漫画も参考書もある。文房具コーナーも広い。
ただ、そこへ行くには電車で二駅移動する必要がある。
そこまで行くのは、もう完全に「出かける」になるのではないか。
透はノートに板書を写しながら、ふと我に返った。
授業中に何を真剣に考えているのか。
隣の直が小声で言った。
「白石、また消えてた」
「……消えてない」
「本屋?」
「何で分かる」
「分かりやすい」
「おまえまで言うな」
直は少し笑った。
「どこの本屋にするか考えてた?」
「……」
「当たりか」
「もう黙れ」
「駅前か、大型書店か」
「本当に黙れ」
「大型書店の方が自然に時間は潰せるな」
「助言するな」
直はノートに視線を戻しながら、小さく言った。
「行く方向で考えてるな」
透は返せなかった。
その通りだったからだ。
◇
放課後、玲央が透の席へ来た。
「透」
「帰るんだろ」
「うん。一緒に帰りたい」
「……うん」
いつものやり取り。
でも、今日はそのあと透から言った。
「本屋」
玲央が少しだけ目を見開く。
「うん」
「駅前のところでもいいけど」
「うん」
「少し離れた大型書店もある」
「うん」
「品揃えはそっちの方がいい」
「うん」
「……何で全部うんなんだよ」
「透が考えてくれてたから」
透は顔を逸らした。
「考えてただけだ」
「うん」
「決定じゃない」
「うん」
「でも」
言葉を選ぶ。
教室にはまだ人がいる。
高城も直も、きっと聞いている。
それでも、言う。
「行くなら、そっちの方がいいかもな」
玲央はしばらく何も言わなかった。
「……何か言えよ」
「今、すごく嬉しい」
「知ってる」
「でも、声に出したい」
「出してるだろ」
「うん。嬉しい」
「二回言うな」
玲央は笑った。
高城が後ろで小さくガッツポーズをしていたので、透は睨んだ。
「何してる」
「いや、進展を見守ってる」
「見守るな」
直が笑う。
「白石、もうほとんど決めてるな」
「……まだ日程は決めてない」
「じゃあ、そこだけか」
「詰めるな」
透は鞄を肩に掛けた。
けれど、心の中ではもう分かっていた。
行く。
たぶん。
いや、かなり。
◇
帰り道、二人はいつものように並んで歩いた。
夕方の空は薄く雲がかかっていたが、雨の気配はない。
駅へ向かう生徒たちの中で、二人の歩幅は自然に揃っている。
「透」
「何」
「大型書店」
「まだ決めたわけじゃない」
「うん」
「でも、行くならそこがいいと思っただけだ」
「うん」
「……日曜より土曜の方がいい」
言ってから、透は目を閉じたくなった。
自分で日程まで進めている。
玲央が隣で静かになる。
「何」
「透が、土曜の方がいいって」
「言ったけど」
「うん」
「……何だよ」
「嬉しい」
「知ってる」
玲央は少しだけ笑った。
「俺も土曜がいい」
「なら土曜」
「うん」
「昼過ぎ」
「うん」
「駅集合で、そこから電車」
「うん」
「……だから何で全部うんなんだよ」
「透と決めてるのが嬉しいから」
透は顔を逸らした。
夕方の風が少し冷たい。
その冷たさで、熱くなりかけた顔をごまかせればいいと思った。
「本屋だからな」
「うん」
「本を見るだけ」
「うん」
「……デートとかじゃない」
言った瞬間、少しだけ胸が痛んだ。
なぜ痛んだのかは分からない。
玲央はすぐには答えなかった。
「……ごめん」
透が先に言った。
玲央がこちらを見る。
「何で?」
「今の言い方、少し強かった」
「うん」
「別に、そういうつもりで否定したわけじゃない」
「うん」
「ただ、まだ」
「うん」
「その言葉は、落ち着かない」
デート。
自分で言った言葉なのに、重かった。
玲央は静かに頷いた。
「じゃあ、本屋に行く」
「うん」
「透と本屋に行く」
「……それなら」
「うん」
「それなら、まあ」
言葉が途中で消える。
玲央は待っていた。
透は小さく息を吐いた。
「嫌ではない」
玲央の表情がやわらぐ。
「うん」
「大事にするなよ」
「無理」
「知ってる」
二人で歩く。
本屋ならデートじゃないと言い張れると思っていた。
けれど、場所の問題ではないのかもしれない。
誰と行くのか。
何を見たいのか。
一緒にいる時間を、どう受け取るのか。
たぶん、そこが問題なのだ。
透はまだ、それをうまく言葉にできない。
でも、次の土曜に玲央と本屋へ行くことは決まった。
その事実が、胸の奥で静かに熱を持っていた。




