第60話 はじめての休日デートなんて、認めたら負けだと思っていた
日曜日の朝、白石透はいつもより遅く起きた。
窓の外は晴れていた。
学校へ行く必要はない。制服に着替える必要もない。駅の柱の前で誰かを待つ必要もない。
何もない休日。
以前なら、それでよかった。
むしろ、そういう休日の方が気楽だった。誰かと予定を合わせる必要もなく、返事を気にする必要もなく、適当に本を読んで、課題をして、気が向いたら外へ出る。それで一日が終わっても、別に寂しいとは思わなかった。
けれど、今日は違った。
昨日、玲央と会った。
図書館で勉強をした。
本屋へ寄った。
駅前まで一緒に歩いた。
そして別れ際に、言ってしまった。
――次は、勉強以外でもいい。
たぶん、と付け足した。
もちろん付け足した。
あれは必要だった。
いきなり「勉強以外でもいい」と断言するには、あまりにも踏み込みすぎている。だから「たぶん」は重要だった。逃げ道であり、緩衝材であり、最後の抵抗だった。
……だったはずなのに。
「……たぶん、って付けても意味なかったな」
布団の中で、透は小さく呟いた。
玲央は、あの「たぶん」ごと嬉しそうにしていた。
大事そうに受け取っていた。
それが透には分かっていた。
だから余計に困る。
スマホを手に取る。
通知はない。
玲央からメッセージが来ているわけではない。
それなのに、何となくメッセージアプリを開いてしまう。
最後のやり取りは昨日の夜だった。
『今日はありがとう』
玲央からの短いメッセージ。
透はそれに、
『勉強進んだからな』
と返した。
すると玲央は、
『勉強も進んだ。でも会えてよかった』
と返してきた。
透はしばらく悩んだ末に、
『知ってる』
とだけ返した。
いつもの言葉。
それで会話は終わった。
終わったはずなのに、透の中では終わっていなかった。
昨日からずっと続いている。
図書館の静けさ。
私服の玲央。
本屋の棚の前で近づいた距離。
駅前の柱。
たぶんでも嬉しい、と言った玲央の声。
全部が、休日の朝になっても残っている。
透はスマホを伏せて、布団から起き上がった。
「……課題やるか」
そう言いながら、たぶん今日は課題に集中できないだろうなと思った。
◇
月曜日。
透はいつもの駅の柱の前に立っていた。
平日の朝が戻ってきた。
制服。
通学鞄。
改札の人の流れ。
眠そうな学生たち。
急ぎ足の会社員。
そして、玲央を待つ時間。
昨日はなかったこの時間が、今日は戻ってきている。
それだけで少し安心した自分に、透はまた少し呆れた。
「……普通になりすぎだろ」
小さく呟いたところで、改札の向こうに玲央が見えた。
玲央は制服だった。
当たり前だ。学校があるのだから。
けれど、土曜日に私服を見たあとだと、その制服姿がまた違って見える。
制服の玲央。
私服の玲央。
どちらも玲央なのに、少しだけ印象が違う。
透を見つけた玲央が、いつものように表情をやわらげた。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
名前で呼ぶ。
それだけで、土曜日から平日の距離へ戻ったような気がした。
「今日も待っててくれた」
「平日だからな」
「うん」
「何だよ」
「平日だから、で済ませようとしてる」
「実際そうだろ」
「でも、昨日は平日じゃなかった」
来た。
透は一瞬だけ顔を逸らした。
「……朝からその話か」
「嫌?」
「嫌ではないけど」
「うん」
「嬉しそうにするな」
「無理」
「知ってる」
いつもの返し。
玲央は少しだけ笑った。
二人で学校へ向かって歩き出す。
休日に会ったあとでも、通学路は変わらなかった。
コンビニの前、信号、少し狭い歩道、いつも自転車が多い角。
同じ道なのに、昨日を挟んだだけで少し違って見える。
「透」
「何」
「昨日、日曜は何してた?」
「課題」
「進んだ?」
「……少し」
「集中できた?」
「聞くな」
玲央が小さく笑った。
「俺もあまり集中できなかった」
「おまえもかよ」
「土曜のこと、考えてた」
「……そういうのを普通に言うな」
「普通に考えてたから」
「返しが強い」
透は前を向いたまま、少しだけ息を吐いた。
「俺も」
玲央がこちらを見る。
「うん?」
「少しは考えてた」
「少し?」
「……かなり」
言ってしまった。
もう、こういう時に嘘をつくのが少し下手になっている。
玲央はすぐには何も言わなかった。
「何か言えよ」
「今、すごく嬉しい」
「言うと思った」
「でも、ちゃんと聞きたかった」
「……知ってる」
通学路の途中で、玲央の表情がやわらかくなる。
それだけで、透は昨日の続きをまだ歩いているような気がした。
◇
教室に入ると、高城がすぐに反応した。
「おはよう、休日図書館組」
「その呼び方は何だ」
透が鞄を置きながら言うと、高城はにやにやしていた。
「いや、土曜どうだったのかなって」
「勉強した」
「それは聞いた」
「じゃあそれで終わりだろ」
「終わるわけないじゃん」
直が近くの席から振り返る。
「高城、朝から飛ばしすぎるな」
「でも気になるだろ。学校外で二人だぞ?」
「言い方」
透は眉を寄せる。
玲央は自分の席へ鞄を置いていたが、高城の言葉は聞こえていたらしい。少しだけこちらを見る。
高城はその視線に気づいて、少しだけ声を落とした。
「で、実際どうだったんだよ」
「だから勉強したって」
「白石、それ以外は?」
「本屋寄った」
「ほら!」
高城が勢いよく反応した。
「ほら、じゃない。参考書見ただけだ」
「買った?」
「買ってない」
「じゃあ何をしたんだよ」
「見ただけ」
「参考書を?」
「参考書を」
「だけ?」
「だけ」
高城は直を見た。
「水城、判定は?」
「勉強会の延長に見せかけた休日外出」
「やっぱり!」
「直」
透が低く呼ぶと、直は軽く笑った。
「でも勉強はしたんだろ?」
「した」
「なら半分は勉強会だな」
「半分?」
「残り半分は知らない」
「そこが問題なんだろ」
高城が楽しそうに言う。
透は頭を抱えたくなった。
玲央が静かに近づいてくる。
「透」
「何」
「土曜、勉強はちゃんとした」
「そうだろ」
「でも、それだけじゃなかった」
教室の空気が一瞬止まった。
高城が口を押さえる。
直が少しだけ目を細める。
透は玲央を見た。
「……おまえさ」
「うん」
「それを朝の教室で言うな」
「ごめん」
「謝るな」
「でも、嘘にはしたくなかった」
玲央の声は静かだった。
透は何も言えなくなる。
そうだ。
勉強はした。
でも、それだけじゃなかった。
それを透も分かっている。
だから困る。
「……嘘には、しなくていい」
透は小さく言った。
玲央が少しだけ目を見開く。
「ただ」
「うん」
「人前で全部言うな」
玲央は少しだけ笑った。
「分かった」
高城が小声で言う。
「今の白石、かなり素直だったな」
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ってないけど、聞こえたなら仕方ない」
「仕方なくない」
直が苦笑していた。
◇
一時間目の授業中、透はノートを取りながら、少しだけ昨日ではなく土曜日のことを思い出していた。
玲央が言った通り、嘘にはしたくない。
勉強だけだったと言い張るのは簡単だ。
けれど、それでは土曜日の時間の半分くらいを消してしまう気がした。
図書館で集中した時間。
休憩スペースで水を飲んだ時間。
本屋で参考書を見た時間。
駅前で「次は勉強以外でもいい」と言ってしまった時間。
それらは、確かにあった。
勉強会だった。
でも、それだけではなかった。
先生の声が少し遠くなる。
その時、後ろの方から玲央の声がした。
指名されたらしい。
玲央は落ち着いて答えた。
いつものように短く、分かりやすく。
透は少しだけ振り向きそうになって、やめた。
席が遠くなってから、玲央の声に反応することが増えた。
名前を呼ぶ回数が増えた。
声で距離を埋めるようになった。
そして休日に会ったことで、その距離は教室の外まで伸びてしまった。
もう、学校の中だけに収まらない。
そのことに気づいて、透はシャーペンを持つ手に少し力を入れた。
◇
昼休み、玲央はいつものように透の席まで来た。
「透、ここいい?」
「うん」
それも、もう日常だった。
高城と直も集まってくる。
昨日までと同じ昼休み。
でも、高城はまだ土曜日のことを諦めていなかった。
「で、次は?」
「何が」
「勉強以外でもいいって言ったんだろ?」
透は箸を止めた。
「……何で知ってる」
「榊原の顔」
「顔で何でも読むな」
「いや、今のは半分勘」
「最悪だ」
玲央が隣で少しだけ黙った。
直が高城を見る。
「高城、そこは踏み込みすぎ」
「あ、悪い」
高城はすぐに引いた。
だが、もう言葉は出てしまっている。
勉強以外でもいい。
透が言った言葉。
玲央が大事に受け取った言葉。
透は少しだけ弁当を見つめたあと、口を開いた。
「……言った」
高城が固まった。
直も少し驚いた顔をした。
玲央が透を見る。
「透」
「何」
「言ってくれるんだ」
「言ったのは事実だろ」
「うん」
「……たぶん、も付けたけど」
「覚えてる」
「覚えるな」
「無理」
「だろうな」
高城がそっとパンを置いた。
「白石、今日どうしたの。素直すぎない?」
「俺にも分からない」
「本人にも分からないのかよ」
直が少し笑う。
「土曜で少し進んだんだろ」
「進んだって言うな」
「じゃあ、変わった」
「それも似たようなもんだろ」
玲央は隣で静かに聞いている。
透は少しだけ視線を落とした。
「でも、まだ何をするかは決めてない」
「うん」
「勉強以外って言っても、急にどこか行くとか、そういうのは」
言いながら、自分でも何を言っているのか分からなくなる。
高城がそこで遠慮がちに手を上げた。
「本屋とかでいいんじゃない?」
「また本屋かよ」
「いや、白石も榊原も本屋なら行きやすいだろ。参考書じゃなくてもいいし」
直も頷く。
「映画とかカフェは急にデート感が強いかもしれないしな」
「デートって言うな」
「じゃあ休日外出」
「それも硬い」
「本屋なら自然だろ」
自然。
それは確かにそうかもしれない。
昨日も、図書館帰りに本屋へ行った。
参考書という名目だったが、文庫や雑誌の棚も少し見た。
あの時間は、嫌ではなかった。
「……本屋なら」
透が言うと、玲央がこちらを見る。
「うん」
「まあ、行けなくはない」
「うん」
「ただし、まだ考える」
玲央はゆっくり頷いた。
「待つ」
「またそれか」
「うん」
「……ずるいな」
高城が小声で言う。
「榊原、待つの強いな」
直が頷く。
「白石に効く」
「分析するな」
透は顔を逸らした。
◇
放課後、玲央はいつも通り透の席へ来た。
「透」
「帰るんだろ」
「うん。一緒に帰りたい」
「……うん」
そのやり取りも、もうあまり迷わない。
教室で遠いぶん、放課後に近くなる。
それも日常になりつつある。
二人で廊下へ出る。
今日は図書室へは寄らない。
小テストも終わっているし、急ぎの勉強もない。
だから、まっすぐ帰る。
まっすぐ帰るだけでも、玲央と一緒なら少し違う。
「透」
「何」
「昼の話」
「本屋の?」
「うん」
「まだ決めてない」
「うん」
「急かすなよ」
「急かさない」
「……分かってる」
玲央は本当に急かさない。
それが透にはよく分かっている。
「でも」
透は階段を降りながら、少しだけ声を落とした。
「考えるとは言ったけど」
「うん」
「……たぶん、嫌ではない」
玲央は足を止めそうになった。
「止まるな」
「今の」
「いつもの言葉だろ」
「でも、今日のは少し違う」
「勝手に違わせるな」
「違うと思う」
玲央の声が少しだけ嬉しそうだった。
透は顔を逸らす。
「……知ってる」
「透」
「何」
「次、勉強以外でもいいって言ってくれたの、本当に嬉しかった」
「それはもう聞いた」
「でも、もう一回言いたかった」
「……そうかよ」
玲央は静かに笑った。
◇
帰り道、二人はいつもより少しゆっくり歩いた。
夕方の空は淡く曇っていたが、雨は降りそうにない。
風は少し冷たく、街路樹の葉がかすかに揺れている。
透はしばらく黙っていた。
玲央も無理に話さない。
その沈黙が、もう苦しくない。
「……土曜」
透が口を開く。
「うん」
「学校の延長じゃなかった」
玲央が静かにこちらを見る。
「うん」
「でも、学校の時とまったく違うわけでもなかった」
「うん」
「おまえはおまえだったし」
言ってから、透は少しだけ恥ずかしくなった。
だが、もう言葉は止まらなかった。
「図書館でも、本屋でも、駅でも」
「うん」
「結局、同じように俺を困らせてた」
玲央が小さく笑った。
「困らせたかったわけじゃない」
「知ってる」
「でも、困ってた?」
「困った」
「嫌だった?」
「……嫌ではない」
いつもの言葉。
けれど、今日は逃げ道としてだけではなく、少しだけ本音に近い形で出た。
玲央はそれを分かっているように、静かに頷いた。
「透の嫌ではない、好き」
「その言い方やめろ」
「でも本当」
「知ってる」
駅が近づいてくる。
土曜日に二人で通り過ぎた駅前の柱が、今日はいつもの帰り道の景色として見えた。
平日の朝に透が玲央を待つ場所。
休日に二人で戻ってきた場所。
そして今日も、別れ道へ向かう場所。
同じ場所なのに、少しずつ意味が増えていく。
「本屋」
透はぽつりと言った。
「うん」
「次の土曜とは限らないけど」
「うん」
「……また、行ってもいい」
玲央が黙った。
「何か言えよ」
「今、嬉しいって言うと、透が困るかなって」
「もう遅い」
「嬉しい」
「知ってる」
玲央の笑顔が、夕方の光の中でやわらかく見えた。
はじめての休日デートなんて、認めたら負けだと思っていた。
だから勉強会にした。
図書館にした。
参考書を見た。
けれど、次は本屋でもいいと言ってしまった。
勉強以外でもいいと、一度言ってしまった。
負けかどうかは分からない。
ただ、透はもう、完全に逃げ切る気がなくなっているのかもしれなかった。




