第59話 休日に会ったら、もう学校の延長とは言えない
図書館を出たあとも、透は少し落ち着かなかった。
勉強はした。
ちゃんとした。
予習も進んだし、ノートも埋まった。玲央の説明は相変わらず分かりやすかったし、透も途中からはきちんと集中できていた。
だから今日のこれは、勉強会だった。
そう言える。
言える、はずだった。
けれど、図書館から駅へ向かう道を玲央と並んで歩いていると、その言い訳が少しずつ薄くなっていく。
制服ではない玲央。
学校ではない場所。
休日の午後。
図書館の帰り道。
どれも、平日の朝や放課後とは違っていた。
学校の延長。
そう呼ぶには、今日の時間は少し違いすぎた。
「透」
玲央が隣で呼ぶ。
「何」
「今日、疲れた?」
「勉強したからな」
「うん」
「でも、学校の図書室よりは疲れてないかも」
「そう?」
「静かだったし」
「透、途中から集中してた」
「途中からって言うな」
「最初は私服見てた」
「見てない」
「見てた」
「……少し」
認めると、玲央が小さく笑った。
「俺も見てた」
「見るな」
「見えるから」
「便利に使うな、その返し」
「透の私服、新鮮だったから」
「もう言っただろ」
「もう一回思った」
「思うな」
「無理」
「……知ってる」
いつものやり取りだった。
学校でも、駅でも、図書館でも変わらない。
そのことに、透は少し安心した。
けれど同時に、変わらないからこそ危ないとも思った。
場所が変わっても、玲央との距離は変わらない。
むしろ、学校の外でそれが成立してしまった。
それはもう、かなり大きい。
◇
駅前に着いても、すぐに別れる気にはならなかった。
平日の帰りなら、それぞれ乗る電車の時間がある。
学校帰りという流れがある。
でも今日は休日で、時間もまだ少し早い。
図書館で勉強を終えたあと、すぐ解散する理由もない。
逆に、残る理由もはっきりとはない。
透は駅前の時計を見た。
「……まだ、ちょっと早いな」
言ってから、しまったと思った。
玲央がこちらを見る。
「うん」
「いや、だから何って話だけど」
「少し歩く?」
「勉強終わっただろ」
「うん」
「帰ってもいい時間だろ」
「うん」
「……」
言い訳の材料を自分で潰している。
玲央は何も言わず、待っていた。
その待ち方に、透は本当に弱い。
「……駅の反対側に、本屋あるだろ」
「うん」
「参考書でも見るか」
言った瞬間、透は自分で分かった。
参考書。
また勉強の名目を探している。
けれど玲央は、そこを笑わなかった。
「行きたい」
「参考書見るだけだぞ」
「うん」
「本当に」
「うん」
「……何で嬉しそうなんだよ」
「一緒にもう少しいられるから」
直球だった。
透は顔を逸らした。
「……そういうの、駅前で言うな」
「じゃあ本屋で?」
「場所の問題じゃない」
玲央は少し笑った。
二人は駅の反対側へ歩き出した。
休日の駅前は、制服の生徒ばかりだった平日とは違う。
買い物帰りの人、ベビーカーを押す夫婦、友達同士で笑いながら歩く大学生らしき人たち。
その中を、透と玲央は私服で並んで歩く。
まるで、普通に休日に出かけているみたいだった。
いや。
みたい、ではないのかもしれない。
透はそう思って、すぐに考えるのをやめた。
◇
本屋はそれほど大きくはないが、参考書の棚はそこそこ充実していた。
透はまっすぐ学習参考書の棚へ向かった。
本当に参考書を見る。
それなら嘘ではない。
玲央も隣に立ち、棚の本を眺める。
「次の範囲なら、このあたりかな」
「学校の教科書と合うのはこっちだな」
「透、こういうの選ぶの早い」
「参考書で迷うの嫌なんだよ」
「服は?」
「……何でそこで服の話になる」
「今日、迷った?」
「迷ってない」
嘘だった。
玲央は少しだけ目を細める。
「今のは嘘」
「おまえも直みたいなこと言うな」
「分かるから」
「分からなくていい」
透は適当に参考書を一冊手に取った。
内容を見る。
分かりやすい。
図解も多い。
「これ、使いやすそうだな」
「うん」
玲央が横から覗き込む。
距離が近い。
図書館でも近かった。
でも本屋の棚の前だと、もっと逃げ場がない。
「近い」
透が小声で言う。
「本、見てる」
「理屈で距離を詰めるな」
「今日は透も図書館で使った」
「……そうだったな」
玲央が少し笑う。
透は参考書を棚へ戻した。
勉強の名目で入った本屋なのに、気づけば参考書以外の棚も少し見て回っていた。
文庫本。
漫画の新刊。
雑誌。
文房具コーナー。
玲央は本を選ぶ時も静かだった。
手に取って、少し読んで、戻す。
その仕草が妙に落ち着いていて、透はつい見てしまう。
「透」
「何」
「また見てる」
「見てない」
「見てた」
「……本を見てた」
「俺が持ってる本?」
「そういうことにしとけ」
玲央は小さく笑った。
「嬉しい」
「何でも嬉しがるな」
「透が俺を見てたから」
「……知ってる」
もう、否定しきれなかった。
◇
本屋を出ると、外の空は夕方に近づいていた。
図書館を出た時より、少し冷えている。
歩道に伸びる影も長くなっていた。
透は手ぶらだった。
参考書は結局買わなかった。
玲央も何も買っていない。
「……参考書、見るだけだったな」
「うん」
「本当に見るだけ」
「でも楽しかった」
「参考書が?」
「透と見たから」
「……おまえ、本当に」
透は言葉を止めた。
言い返す気力がなくなったわけではない。
ただ、今日はもう何度も同じところで引っかかっている。
透とだから。
一緒にいられるから。
会えたから。
玲央はそういうことを、今日ずっと言っている。
そして透は、そのたびに困りながら、嫌ではないと思っている。
駅へ戻る道で、二人は少しだけ黙って歩いた。
沈黙は苦しくない。
学校帰りの沈黙とも違う。
休日の街の音が周りにあって、その中で二人だけが少し静かに歩いている。
「透」
「何」
「今日、学校の延長じゃなかったね」
透は足を止めそうになった。
玲央が、また考えていたことをそのまま言った。
「……そういうところだぞ」
「何が?」
「俺が考えてること、先に言うところ」
「同じこと考えてた?」
「……少し」
玲央は静かに頷いた。
「勉強はした」
「したな」
「図書館にも行った」
「行った」
「参考書も見た」
「見ただけだけどな」
「でも、それだけじゃなかった」
透は返事をしなかった。
それは、その通りだった。
今日の時間は、勉強だけではなかった。
待ち合わせた。
私服を見た。
図書館で並んで座った。
休憩スペースで水を飲んだ。
本屋へ寄った。
並んで歩いた。
全部、休日に玲央と会ったから起きたことだった。
「……俺は」
透は少しだけ言葉を探した。
「まだ、そういうのに慣れてない」
「うん」
「学校がある時とは違う」
「うん」
「理由をつけないと、たぶんまだ落ち着かない」
「うん」
「でも」
玲央が待っている。
いつものように。
透は小さく息を吐いた。
「今日、来てよかったとは思ってる」
玲央の表情が、ゆっくり柔らかくなる。
「うん」
「嬉しいって言うなよ」
「言いたい」
「知ってる」
「でも、今は言わない」
意外だった。
透が横を見ると、玲央は少しだけ笑っていた。
「大事に聞きたいから」
「……それはそれで心臓に悪い」
「ごめん」
「謝るな」
透は顔を逸らした。
言わない優しさまで覚えられると、本当に逃げ場がない。
◇
駅前に戻ると、夕方の人の流れが増えていた。
休日の午後が、夜へ向かい始めている。
親子連れ、買い物帰りの人、学生たち。平日の通学時間とは違う人の波。
いつもの柱が見えた。
平日の朝、透が玲央を待つ場所。
今日はそこを、二人で通り過ぎる。
それだけで、少し不思議な気がした。
「ここ」
玲央が言う。
「うん」
「いつも透が待ってる場所」
「……そうだな」
「今日は一緒に帰ってきた」
「帰ってきたって言うな。図書館から来ただけだろ」
「でも、ここに二人でいる」
透は柱を見た。
朝とは違う光の中にある、いつもの場所。
ここで玲央を待つことが、いつの間にか普通になった。
今日はそこに、休日の約束まで重なった。
「……変な感じだな」
「うん」
「でも」
透は少しだけ黙った。
「悪くはない」
玲央がこちらを見る。
「透」
「何」
「今の、かなり」
「嬉しいって言うな」
「言わない」
「……本当に?」
「顔には出るかも」
「もう出てる」
「無理だった」
「知ってる」
いつもの言葉で、二人とも少し笑った。
◇
別れ際、玲央は少しだけ迷うように口を開いた。
「透」
「何」
「また休日に会いたい」
まっすぐだった。
今日一番、まっすぐだったかもしれない。
透はすぐには答えられなかった。
でも、前ほど驚かなかった。
もう、完全に想像の外ではない。
今日、会った。
休日に。
学校の外で。
その時間が嫌ではなかった。
むしろ、来てよかったと思った。
だから次の言葉は、前より少しだけ早く出た。
「……次は」
「うん」
「勉強以外でもいい」
言った瞬間、玲央が完全に止まった。
透は慌てて顔を逸らす。
「たぶん」
付け足した。
逃げ道みたいに。
けれど、その逃げ道はもう、ずいぶん細かった。
「たぶんでも」
玲央の声が少しだけ揺れていた。
「嬉しい」
透は前を向いたまま、小さく返す。
「知ってる」
玲央は笑った。
今度は、隠しきれないくらい嬉しそうに。
透はそれを見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
休日に会ったら、もう学校の延長とは言えない。
勉強という名目をつけても。
図書館へ行っても。
参考書を見ても。
玲央と会うために家を出て、玲央と並んで歩いた。
その事実は、もう消せない。
そして、次は勉強以外でもいいと言ってしまった。
たぶん。
まだ、たぶん。
でも玲央は、その「たぶん」すら大事に受け取るのだろう。
それが分かっていても、透は撤回しなかった。




