第56話 特別が普通になるなら、普通が終わるのが怖くなる
翌朝、透はいつもの柱の前で玲央を待っていた。
もう、それは完全に朝の習慣になっていた。
駅に着く。
改札を出る。
柱の前に立つ。
改札の向こうから来る玲央を探す。
以前なら、こんなふうに誰かを待つ朝なんて考えもしなかった。
友達と偶然会えば一緒に行く。そうでなければ一人で行く。学校までの道なんて、ただの移動時間でしかなかった。
それが今は違う。
玲央が来るまでの数分があって、玲央が来た瞬間に朝が始まる。
それを自分で認めるのはまだ少し照れくさいが、もう否定する方が難しかった。
「おはよう、透」
改札を抜けてきた玲央が、いつものように言う。
「おはよ、玲央」
透も、自然に返した。
名前で呼ぶ。
玲央が少しだけ笑う。
その流れにも慣れた。
慣れた、はずなのに。
慣れてしまったこと自体が、今日は少し引っかかっていた。
「透?」
「何」
「今、少し考えてた」
「朝から人の顔見るな」
「見えるから」
「またそれか」
玲央は隣に並んで歩き出す。
通学路はいつも通りだった。
信号待ちをする学生たち。コンビニの前で友達を待つ女子。自転車で横を抜けていく上級生。朝の冷たい空気。
何も変わっていない。
だからこそ、透はふと思ってしまった。
この朝が、普通になってきた。
駅で待つことも。
玲央と歩くことも。
名前で呼ぶことも。
玲央が嬉しそうにすることも。
最初は全部、特別だった。
一つずつ動揺して、言い訳をして、否定して、結局受け入れてきた。
それが今は、普通になりかけている。
普通になったものは、なくなった時にどれくらい変に感じるのだろう。
「透」
「何」
「また考えてる」
「……何でもない」
「何でもない顔じゃない」
「最近そればっかりだな」
「分かるから」
玲央は静かに言った。
透は少しだけ横を見る。
玲央の表情はいつも通りだった。
でも、こちらをちゃんと見ている。
逃げにくい。
「……普通になってきたなって思っただけだ」
「何が?」
「朝」
「うん」
「待ち合わせとか、名前とか」
言ってから、透は少しだけ顔を逸らした。
「前は一個ずつ変だったのに、今はそうでもない」
玲央はしばらく黙った。
その沈黙が、透には少し意外だった。
いつもならすぐ「嬉しい」と言うところだ。
「……何か言えよ」
「うん」
「うん?」
「俺も、そう思ってた」
玲央の声は、思ったより静かだった。
「特別だったことが、普通になってきた」
「……うん」
「俺は、それが嬉しい」
「言うと思った」
「でも」
玲央が少しだけ目を伏せる。
「普通になってきたから、なくなったら寂しいとも思う」
透は黙った。
まさに、今自分が少しだけ考えていたことだった。
「……朝から重い」
そう言うのが精一杯だった。
玲央は少しだけ笑う。
「でも本当」
「知ってる」
いつもの言葉で返したのに、今日はそれが少しだけ重く聞こえた。
◇
教室に入ると、席替え後の景色にも少し慣れてきていた。
透の席は真ん中より少し前。
玲央は斜め後ろの少し遠い位置。
最初はその距離が妙に気になったが、今は少しずつ見方を覚えてきた。
振り向きすぎず、でも必要な時は名前を呼ぶ。
声で距離を埋める、なんて直が言っていた。
あれはたぶん、かなり正しい。
「白石ー」
高城が少し離れた席から手を振る。
「朝からうるさい」
「まだ何も言ってないだろ」
「言う前からうるさい」
「ひどい」
高城は笑いながら教科書を出した。
直は近くの席で、すでにノートを開いている。
「白石、今日も朝は安定してたな」
「何が」
「榊原確認」
「確認してない」
「いや、教室入ってすぐ一回見た」
「……新しい席に慣れてないだけだ」
「三日目だぞ」
「三日で慣れるとは限らないだろ」
高城が横から口を挟む。
「でもさ、席遠くなってから、白石の玲央呼び増えたよな」
「まだその話するのか」
「だって面白いし」
「面白がるな」
「いや、いい意味で。遠くなったのに近くなってる感じがする」
高城にしては、妙にまともなことを言った。
透は少し返事に詰まる。
直も軽く頷いた。
「高城にしては詩的」
「俺だってたまには言う」
「たまにだから驚いてる」
「水城、俺の扱い雑じゃない?」
「いつも通り」
そのやり取りを聞きながら、透はふと玲央の席を見た。
玲央もこちらを見ていた。
目が合う。
玲央が少しだけ笑う。
透は軽く視線を逸らした。
遠い。
でも、届く。
それが今の距離だった。
◇
一時間目の休み時間、先生から次の週の予定表が配られた。
前の席から回ってきたプリントを受け取り、透は自分の分を抜いて後ろへ回す。
そして、予定表の日付を見た。
土曜日、日曜日。
当然だが、学校は休み。
それを見た瞬間、透の手が少しだけ止まった。
休みの日。
学校がない日。
つまり、朝の駅で玲央を待つ理由がない日。
その事実に、胸の奥が少しだけ変な感じになった。
「白石?」
直が気づく。
「何」
「予定表見て固まった」
「……別に」
「休日?」
鋭い。
透は予定表を折りたたみながら、少しだけ目を逸らした。
「ただ、もう週末かと思っただけだ」
「ふうん」
「何だよ」
「いや」
直は小さく笑った。
「休日は朝の待ち合わせないなって思った?」
透は黙った。
沈黙が答えになった。
高城がそれを聞きつけて、机越しに身を乗り出す。
「え、何? 休日に会えばいいじゃん」
「何で休日まで」
反射的に言った。
かなり強く。
言った瞬間、少し離れた玲央の肩がわずかに動いたのが見えた。
透はしまったと思った。
高城は軽い調子のまま続ける。
「いや、普通に。勉強会でもいいし、図書館とか」
「小テスト終わっただろ」
「復習とか?」
「無理やりすぎる」
「じゃあ本屋とか」
「何でそうなる」
「だって、朝会えないの寂しいんだろ?」
「寂しいとは言ってない」
「顔が言ってる」
「おまえまで顔で判断するな」
高城は笑っている。
悪気はない。
たぶん、いつもの軽口だ。
けれど透は、玲央の方を見られなかった。
何で休日まで。
その言葉が、少し強すぎた気がした。
休みの日に玲央と会う。
考えたことがなかったわけではない。
ただ、そこには学校という理由がない。
駅で待つのも、登校するから。
昼に来るのも、同じクラスだから。
放課後に帰るのも、同じ方向だから。
勉強会をしたのも、小テストがあったから。
休日に会うのは、その理由が違う。
たぶん、もっとはっきりしてしまう。
直が高城を軽く止めた。
「高城、急に踏み込みすぎ」
「あ、そう?」
「そう」
高城は少しだけ透を見て、珍しく素直に引いた。
「悪い。軽く言いすぎた」
「……別に」
透は予定表を机にしまった。
でも、心の中ではもう「別に」では済まなくなっていた。
◇
昼休み、玲央はいつものように透の席まで来た。
けれど、今日の歩き方は少しだけ静かだった。
「透、ここいい?」
「……うん」
玲央が近くの席に座る。
高城と直もやってきたが、さっきのことがあったせいか、高城は少しだけおとなしかった。
パンの袋を開けながら、ちらちら透と玲央を見る。
「……何だよ」
透が言うと、高城は首を振った。
「いや、さっきは悪かったなって」
「謝るほどじゃない」
「でも、何か空気読めてなかった気がした」
「いつもだろ」
「そこは否定してくれよ」
直が淡々と言う。
「高城は空気を読めないんじゃなくて、読んだあとで踏む時がある」
「もっと悪いじゃん」
「今日は軽く踏んだ」
「やっぱ悪かった」
高城が肩を落としたので、透は少しだけ息を吐いた。
「……本当に怒ってない」
「ならいいけど」
「ただ、急だっただけだ」
自分でも何を言っているのか分からない。
休日に会う話が急だった。
そういうことにしておく。
玲央は隣で静かに弁当を開けていた。
いつもなら何か言うのに、今日は少しだけ黙っている。
それが気になる。
「玲央」
透が呼ぶと、玲央が顔を上げた。
「何?」
「……いや」
「呼んだだけ?」
「そう」
玲央は少しだけ笑った。
けれど、いつものような分かりやすい嬉しさではなかった。
「透」
「何」
「休日の話、困った?」
やっぱり来た。
透は箸を止める。
高城が空気を読んでパンを食べる速度を落とし、直は水筒に視線を落とした。
「……急だった」
「うん」
「学校の日とは違うだろ」
「うん」
「朝は登校があるし、昼は同じクラスだし、放課後は帰る方向が同じだし」
「うん」
「休日は、そういう理由がない」
言ってから、透は自分で気づく。
理由がないから困る。
でも、理由がないだけで、本当に嫌なのか。
そこが分からない。
玲央は静かに頷いた。
「理由がないと、困る?」
「……今は少し」
「そっか」
玲央はそれ以上踏み込まなかった。
その引き方が、逆に胸に刺さる。
「でも」
玲央が小さく言う。
「休みの日も、会いたいって言ったら困る?」
教室のざわめきが、少し遠くなった気がした。
高城が完全に黙る。
直も何も言わない。
透はすぐには答えられなかった。
会いたい。
玲央はそう言った。
勉強したい、でもない。
一緒に帰りたい、でもない。
ただ、会いたい。
学校の予定でも、席の距離でも、テストの名目でもない。
玲央自身の言葉だった。
「……困る」
透は正直に言った。
玲央の表情がほんの少し揺れる。
透はすぐ続けた。
「困るけど」
「うん」
「嫌とは、まだ言ってない」
玲央が黙った。
高城が口を押さえた。
直が少しだけ目を細める。
「……考える」
透は小さく言った。
「今すぐは答えられない」
玲央は、ゆっくり頷いた。
「うん」
「何だよ」
「待つ」
その言葉が、思ったより胸に来た。
待つ。
いつも自分が駅で玲央を待っている。
玲央もまた、こういう時に透の答えを待つ。
急かさずに。
押しつけずに。
それが、少し苦しかった。
「……そういうところ」
「うん」
「ずるい」
「ごめん」
「謝るな」
玲央は静かに笑った。
「でも、考えてくれるなら嬉しい」
「嬉しそうにするな」
「少しだけ」
「……知ってる」
いつもの言葉だった。
でも今日は、少しだけ声が小さかった。
◇
午後の授業は、あまり集中できなかった。
休日。
その二文字が頭の中に残っている。
土曜日。日曜日。
学校はない。
朝の待ち合わせもない。
昼休みもない。
放課後もない。
普通なら、それでいいはずだった。
休みの日くらい一人で過ごせばいい。
本を読んだり、課題をしたり、適当に家で過ごしたり。今までずっとそうしてきた。
なのに、今は考えてしまう。
玲央と会わない休日。
それは、少し変な感じがするのではないか。
それを認めるのが、怖い。
直が休み時間に声をかけてきた。
「白石」
「何」
「考えるって言ったな」
「……聞こえてたのか」
「近くにいたから」
「そうだったな」
「嫌なら断ってると思う」
透は何も言えなかった。
直は淡々としている。
「白石は、本当に嫌なことにはけっこうはっきり嫌って言うだろ」
「玲央も同じようなこと言ってた」
「じゃあ合ってるな」
「……」
「考えるってことは、迷ってるんだろ」
「そうだな」
「行きたくないから迷ってるのか、行きたいのを認めたくなくて迷ってるのか」
透は直を見た。
「おまえ、本当にたまに嫌なところ突くよな」
「必要そうだったから」
「いらない」
「でも考えるだろ」
「……考える」
直は少しだけ笑った。
「ならいいんじゃないか」
そう言って、席へ戻っていった。
残された透は、しばらく予定表を見ていた。
土曜日。
学校のない日。
玲央と会う理由のない日。
でも、会いたいと言われた日。
◇
放課後、玲央はいつものように透の席まで来た。
「透」
「帰るんだろ」
「うん。一緒に帰りたい」
「……うん」
このやり取りも、もう普通だ。
それが普通になっているから、休日にそれがなくなることが気になる。
二人で教室を出る。
高城が後ろから声をかけた。
「白石」
「何」
「朝のやつ、ほんとに軽く言って悪かった」
「もういいって」
「でも、俺はちょっとだけ応援してるから」
「何を」
「いろいろ」
「雑だな」
「そこは雑にしとく」
高城は笑った。
直も軽く手を振る。
「考えすぎて寝不足になるなよ」
「ならない」
「たぶん、なる」
「決めつけるな」
透はそう返して、玲央と廊下へ出た。
◇
帰り道、二人はいつもより静かだった。
夕方の風が少し冷たい。
駅へ向かう道には、部活帰りの生徒がぽつぽつ歩いている。
玲央は、休日の話を蒸し返さなかった。
それがありがたくもあり、少しだけ落ち着かなかった。
「……聞かないんだな」
透がぽつりと言う。
玲央が横を見る。
「何を?」
「休日のこと」
「考えるって言ったから」
「うん」
「待つって言った」
「……そうだったな」
玲央は静かだった。
急かさない。
でも、なかったことにもしていない。
その距離感が、本当にずるい。
「透」
「何」
「普通になってきたことが、なくなるのが怖いって話」
「朝の?」
「うん」
「……うん」
「休日に朝の待ち合わせがないの、俺も少し寂しい」
玲央は前を向いたまま言った。
透は何も返せなかった。
「でも、だから会いたいって言った」
「……そうかよ」
「うん」
「正直すぎる」
「透には、なるべく正直に言いたい」
「心臓に悪い」
「ごめん」
「謝るな」
玲央は少しだけ笑った。
透は前を向いた。
休日に会うかどうか。
答えはまだ出せない。
でも、出せないと言いながら、頭の中ではもう考え始めている。
どこで会うのか。
何をするのか。
勉強という理由をつけるのか。
それとも、理由なしで会えるのか。
その時点で、たぶんもうかなり負けている。
「……ちゃんと考える」
透は小さく言った。
「うん」
「すぐ答えられないけど」
「待つ」
「またそれか」
「透が駅で待ってくれるから、俺も待つ」
透は顔を逸らした。
「……そういう返し、本当にずるい」
「ごめん」
「謝るなって」
「うん」
駅が近づいてくる。
いつもの別れ道。
明日の朝はまた会う。
けれど、週末の朝はどうなるか分からない。
普通になってきたものが、普通に途切れる。
それが少し怖いと思っている自分がいる。
透はそれを、まだ玲央には言えなかった。
「じゃあ、また明日」
透が言う。
「うん。また明日、透」
「……また明日、玲央」
名前を呼んで別れる。
それもまた、普通になってきた。
普通になってきたからこそ、終わるのが怖くなる。
透は駅へ向かいながら、そんなことを考えていた。




