第55話 呼びやすくなったって、それはもう特別じゃないのか
翌朝、透はいつもの柱の前で玲央を待っていた。
駅前の空気は少し冷たい。
季節が少しずつ進んでいるのか、朝の光は明るいのに、肌に触れる風だけがひんやりしていた。
透はスマホで時間を確認して、すぐに画面を消した。
待っている。
もう、そのこと自体には慣れてきた。
ただ、今日は少しだけ別のことが頭に残っている。
昨日、自分で言った。
――呼びやすくなった。
玲央の名前を呼ぶこと。
最初は事故だと言い張っていた。勢いだとか、たまたまだとか、そうやって逃げていた。
でも、席が遠くなったことで、逆に呼ぶ機会が増えた。
プリントを回す時。提出物を集める時。授業中に確認する時。
玲央、と呼べば、玲央が返事をする。
それが、少しずつ普通になってきている。
「……普通って、何なんだよ」
小さく呟いたところで、改札の向こうに玲央が見えた。
玲央は透を見つけると、少しだけ表情をやわらげる。
それを見るたびに、透は今日もちゃんと朝が始まったような気になる。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
自然に出た。
玲央が、ほんの少しだけ笑う。
「今日も呼んでくれた」
「朝の挨拶だろ」
「うん」
「そこで嬉しそうにするな」
「無理」
「知ってる」
いつもの流れ。
それなのに、今日はその流れ自体が妙に意識される。
名前を呼ぶ。
返事をされる。
嬉しそうにされる。
それに自分が「知ってる」と返す。
もう、どれも一度や二度ではない。
玲央は隣に並んで歩き出した。
「透」
「何」
「昨日の、呼びやすくなったって言ってくれたこと」
「……朝から来ると思った」
「嬉しかったから」
「知ってる」
「それも言ってくれると思った」
「予想するな」
玲央は少しだけ笑った。
朝の通学路はいつも通りだった。
制服姿の生徒が同じ方向へ歩き、コンビニの前で誰かが友達を待っている。自転車のベルが遠くで鳴って、横断歩道の信号が青に変わる。
何も特別ではない。
でも、玲央の名前を呼ぶことが普通になりかけているせいで、その普通が少しだけ違って見えた。
「呼びやすくなった?」
玲央が聞く。
「蒸し返すな」
「昨日からずっと気になってた」
「気にするほどのことじゃないだろ」
「俺にはある」
「……おまえは、そういうところあるよな」
「透の言葉はだいたい気になる」
「だいたい気にするな」
「難しい」
玲央は真面目に言う。
冗談みたいな言葉なのに、玲央が言うと少し本気に聞こえる。
だから困る。
「……前よりは」
透は前を向いたまま言った。
「うん」
「呼ぶ時に、いちいち考えなくなっただけだ」
「うん」
「必要な時に、名前が出るようになった」
「うん」
「だからって、別に」
そこで言葉が止まった。
だからって、別に何だ。
特別じゃない。
そう言うのは簡単だ。
でも、特別じゃないなら、なぜこんなに意識するのか。
「……別に、軽くなったわけじゃない」
言ってしまった。
玲央が黙る。
透は少しだけ顔を逸らした。
「何か言えよ」
「今、すごく大事なこと言われた気がして」
「大事にするな」
「無理」
「……だろうな」
玲央は静かに笑った。
「呼びやすくなったけど、軽くなったわけじゃないんだ」
「復唱するな」
「覚えたい」
「覚えるな」
「無理」
透はため息をついた。
でも、本気で嫌なため息ではなかった。
◇
教室に入ると、昨日からの新しい席が目に入る。
まだ少し慣れない。
自分の席。
玲央の席。
その間にある机の列。
離れている。
でも、昨日よりはその距離が少しだけ分かってきた。
遠いなら、声を出せばいい。
用があれば呼べばいい。
呼べば、玲央は返事をする。
透は鞄を机に置いた。
その時、近くの席の直が振り返る。
「おはよう、白石」
「おはよ」
「今日も朝から榊原確認?」
「……してない」
「今、席の方見た」
「新しい席に慣れてないだけだ」
「なるほど」
「納得するな」
高城が少し離れた席から声を飛ばしてくる。
「白石ー、今日も玲央呼びイベント開催?」
「そんなイベントはない」
「でも昨日めっちゃ呼んでたじゃん」
「必要だったからだろ」
「今日は必要作ろうぜ」
「作るな」
玲央が自分の席からこちらを見る。
少し離れている。
でも、目は合う。
高城がそれを見て、にやっと笑った。
「ほら、目で会話してる」
「してない」
「今のはしてた」
「高城、席遠いのによく見てるな」
直が冷静に言う。
「俺、こういうのだけは見逃さない」
「授業もそれくらい見ろ」
「それは難しい」
透は教科書を取り出しながら、玲央の方を見ないようにした。
見ないようにしている時点で、かなり意識している。
それがまた腹立たしかった。
◇
一時間目の前、先生が教室に入ってきて、連絡事項をいくつか話した。
「昨日の小テストの見直しプリント、まだ出していない者は今日中に出せよ。あと、配布物があるから列ごとに回すように」
またプリント。
透は前から回ってきた紙を受け取り、自分の分を取る。
そのあと、斜め後ろの列へ視線を向けた。
「玲央、そっち回して」
「うん」
玲央がすぐに手を伸ばす。
普通のやり取りだった。
教室の中で、何人かは何も気にしていない。
ただプリントを回しただけだ。
けれど、高城は当然のように反応した。
「一回目」
「数えるな」
「まだ一回って言っただけ」
「言うな」
直が小さく笑う。
「呼びやすくなったな」
「直まで」
「昨日、自分で言ってただろ」
「だからって毎回確認するな」
玲央はプリントを回し終えたあと、少しだけこちらを見た。
嬉しそうにするな、と言おうとしたが、距離があるので口には出さなかった。
かわりに軽く睨む。
玲央は、目元だけで少し笑った。
通じている。
それがまた、困る。
◇
二時間目の休み時間、高城が透の机までやって来た。
「白石、昨日の見直しプリント、ここ確認していい?」
「珍しく真面目だな」
「テスト返ってきて現実を見た。俺は変わる」
「三日続けばいいな」
「一日目から厳しい」
高城はプリントを広げる。
直も近くへ来て、横から覗き込んだ。
「ここ、昨日玲央が言ってたやつだな」
透は自然に言った。
少し離れた席の玲央が顔を上げる。
高城も直も、同時に透を見た。
「何だよ」
透が言うと、高城はにやにやした。
「いや、いないところでも玲央って言ったなって」
「いるだろ。教室に」
「距離あるじゃん」
「同じ教室だ」
直が少しだけ口元を緩める。
「呼ぶ必要がなくても名前が出たな」
「……説明の流れだろ」
「そうだな」
「その顔やめろ」
「どの顔だ」
「分かってる顔」
「分かってるからな」
透は返す言葉に詰まった。
玲央がこちらへ近づいてくる。
「俺が言ってたやつ?」
「……たぶん」
「見る」
玲央が透の机の横に立つ。
さっきまで遠かったのに、近くに来ると少しだけ教室が狭くなる。
玲央はプリントを見て、静かに説明した。
「ここは、条件を先に分けた方が分かりやすい」
「昨日のやつか」
高城が頷く。
「うん」
玲央は短く説明を続ける。
透は横で聞きながら、やっぱり分かりやすいと思った。
それを口に出すと玲央が喜ぶので、今は言わない。
だが、玲央が説明を終えたあと、高城が先に言った。
「榊原、やっぱ説明うまいな」
「うん」
透が相槌を打ってしまった。
玲央がこちらを見る。
「何」
「透もそう思ってくれた?」
「……まあ」
「嬉しい」
「だから、その顔するな」
「無理」
「知ってる」
高城が「はい安定」と言い、直が軽く笑った。
◇
昼休み。
玲央は今日も透の席へ来た。
昨日より、その移動を見るのに慣れた。
けれど、来る姿を見つけると、やっぱり少しだけ胸の奥が落ち着く。
「透、ここいい?」
「うん」
玲央が座る。
高城も少し遅れてパンを持ってやってきた。直も弁当箱を持って集まる。
「結局、席替えしても昼はここなんだよな」
高城が言う。
「空いてるからだろ」
透は弁当を開けながら返す。
「いや、榊原が来るからだろ」
「……」
「黙った」
「高城」
「はい、黙ります」
最近、このやり取りも早い。
玲央は弁当を開けながら、静かに言った。
「透の近くで食べたいから来てる」
「玲央」
「何?」
「黙らせたそばから言うな」
「高城は黙った」
「おまえも少しは黙れ」
「難しい」
「難しくない」
直が笑う。
「榊原の方が正直だからな」
「正直すぎるんだよ」
高城がパンをかじりながら、ふと思い出したように言った。
「そういえば、白石の玲央呼びってさ」
「またその話か」
「いや、昨日よりさらに自然になってない?」
「そんなに変わらないだろ」
「変わる。呼びやすくなったって言った後だから、こっちも聞こえ方が変わる」
「おまえの聞こえ方はどうでもいい」
直が少しだけ頷く。
「でも、確かに名前が日常の中に入ってきた感じはある」
「詩的に言うな」
「そうか?」
「そうだろ」
玲央は黙って透を見ている。
透はその視線に気づいて、箸を止めた。
「何」
「呼びやすくなったこと、俺は嬉しい」
「……知ってる」
「でも、名前が軽くなったとは思ってない」
朝、自分が言ったことを返された。
透は少しだけ動きを止める。
「透がそう言ってくれたから」
「……覚えすぎだろ」
「大事だから」
「昼休みにそういうのやめろ」
「ごめん」
「謝るな」
「でも、嬉しかった」
玲央の声は静かだった。
透は顔を逸らした。
「……ならいいけど」
高城が口を押さえた。
直が小さく息を吐くように笑った。
「白石の『ならいいけど』も、だいぶ肯定だな」
「もう何でも肯定にする気か」
「最近の白石語録だとそうなる」
「その語録を捨てろ」
◇
午後の授業中、透は何度か玲央の名前を呼んだ。
というより、呼ぶ場面があった。
グループ作業の発表順を確認する時。
「玲央、そっち何番目?」
「三番」
先生から追加プリントを受け取った時。
「玲央、これ一枚余ってる?」
「ある」
高城が提出物をなくしたと騒いだ時。
「玲央、さっき高城の机の下に何か落ちてなかったか?」
「あった。たぶんそれ」
「高城、机の下」
「マジであった! 榊原ありがとう! 白石もありがとう!」
「落とすな」
そんなふうに、必要があるたびに名前が出た。
そしてそのたびに、玲央が返事をする。
だんだん、透自身も気づいてきた。
名前を呼ぶことが、距離を測る方法になっている。
遠くなった席。
見えにくくなった位置。
その間に、玲央の名前を投げる。
返事が返ってくる。
それだけで、少し安心する。
直が授業後に言った。
「白石、今日はかなり呼んだな」
「必要だったから」
「それはそうだけど」
「何だよ」
「必要な時に自然に名前が出るのは、もうだいぶ馴染んでる」
「……おまえ、今日ずっとそれ言うな」
「観察結果」
「いらない」
高城が後ろから割って入る。
「俺、白石が玲央って呼ぶたびに榊原が嬉しそうにするの、ちょっと分かってきた」
「分かるな」
「いや、名前で呼ばれるってやっぱ強いんだな」
高城は意外と真面目な顔で言った。
「苗字だとクラスメイトだけど、名前だとちょっと近い感じするし」
透は黙った。
その通りだったからだ。
玲央。
そう呼ぶ時、ただのクラスメイトを呼んでいる感じはもうない。
高城が少し慌てたように笑った。
「あ、何か俺、今まともなこと言った?」
「言ったな」
直が答える。
「白石、褒めて」
「調子に乗るな」
「はい」
でも、透の中には高城の言葉が残った。
苗字だとクラスメイト。
名前だと、少し近い。
では、自分たちは今、どのくらい近いのだろう。
◇
放課後、玲央はいつものように透の席へ来た。
「透」
「帰るんだろ」
「うん。一緒に」
「……うん」
少しだけ返事が柔らかくなった気がして、透は自分で気づかないふりをした。
高城が後ろから声をかける。
「白石、今日の玲央呼び回数、過去最高じゃない?」
「知らない」
「榊原、数えてた?」
玲央は少し考えた。
「数えてないけど、覚えてる」
「それ絶対多いやつだ」
透は鞄を肩に掛けながら、玲央を見た。
「覚えるな」
「無理」
「だろうな」
「でも今日は、たくさん呼んでくれた」
「必要だったからだ」
「うん」
「……でも、まあ」
透は少しだけ目を逸らした。
「昨日より、呼びやすかった」
玲央の表情が静かに変わった。
「透」
「何」
「それ、昨日より嬉しい」
「嬉しさを更新するな」
「する」
「するな」
「無理」
「知ってる」
高城が小さく「このやり取りも更新されてるな」と言ったので、直が「黙っとけ」と止めた。
◇
帰り道、二人はいつものように並んで歩いた。
教室で遠い時間が長かったぶん、隣に戻った時の感覚が前よりはっきりしている。
透はそれを言葉にするか迷った。
迷っていると、玲央が先に言った。
「今日、いっぱい呼んでくれて嬉しかった」
「まだ言うのか」
「うん」
「……名前呼ぶくらいで」
「くらいじゃない」
玲央は静かに言う。
「透に呼ばれると、遠くても返事できる」
透は足を止めそうになった。
玲央は前を向いたままだった。
「教室で席が遠くなっても、名前を呼ばれると近くなる気がする」
まただ。
玲央は時々、透がぼんやり感じていたことをそのまま言葉にしてしまう。
それがずるい。
「……それ」
「うん」
「俺も少し思った」
言った。
玲央がこちらを見る。
「透も?」
「少しな」
「うん」
「声で距離を埋める、みたいなことを直が言ってた」
「うん」
「あれ、ちょっと分かる気がした」
玲央は静かに聞いている。
透は続けた。
「名前呼んで、返事があると、少し戻る感じがする」
「戻る?」
「距離が」
玲央の目元が柔らかくなる。
「透」
「何」
「今の、すごく大事」
「大事にするな」
「無理」
「……知ってる」
夕方の道で、透は少しだけ顔を逸らした。
呼びやすくなった。
それはもう、ただ便利になったという意味ではないのかもしれない。
名前を呼ぶことが、二人の距離を戻す方法になっている。
遠くなった教室の中で、玲央を近く感じるための声になっている。
それは、かなり特別だ。
けれど、特別なのに、日常になりかけている。
「……玲央」
透はふいに呼んだ。
「何?」
「別に」
「呼んだだけ?」
「そう」
玲央は少しだけ笑った。
「嬉しい」
「知ってる」
透は前を向いたまま歩く。
名前を呼ぶだけ。
それだけで、夕方の道が少し近くなる。
もう、特別じゃないとは言えなかった。




