第52話 隣にいないだけで気になるなら、もうだいぶ危ない
翌朝、透はいつもの柱の前で玲央を待っていた。
もう、待っていることに言い訳はしない。
早く着いただけでも、たまたまでもない。
待っている。
玲央が来るのを、普通に待っている。
昨日、帰り道で言ってしまった言葉が、まだ少し残っていた。
――隣、空くと変な感じがする。
口に出した瞬間は、かなり恥ずかしかった。
けれど、不思議と後悔はしていない。
高城がふざけて玲央との間に入っただけで、歩幅が少しずれた。
玲央が隣に戻った瞬間、戻った、と思ってしまった。
それはもう、かなり危ない。
自分でも分かる。
「……分かるから困るんだよ」
小さく呟いたところで、改札の向こうに玲央の姿が見えた。
玲央は透を見つけると、いつものように表情を少しだけやわらげた。
その変化を見るたび、透は朝の中に自分の居場所が一つ増えたような気分になる。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
「今日も待ってた」
「待ってるって言っただろ」
「うん」
「……何」
「言い方が普通になってきた」
「毎回言うな」
「嬉しいから」
「知ってる」
いつものやり取り。
けれど、今日はその「いつもの」が妙に胸に残った。
二人で歩き出す。
駅から学校までの道は、もうすっかり見慣れている。信号、コンビニ、少しひび割れた歩道、朝だけ混む角の横断歩道。
その全部を、玲央と並んで歩く。
特別なことではない。
でも、特別ではないと言い切るには、少し大事になりすぎている。
「透」
「何」
「昨日のこと、覚えてる?」
「どれだよ」
「隣が空くと変な感じがする、って」
「……朝から蒸し返すな」
「嬉しかったから」
「それは昨日も聞いた」
「今日も思ってる」
「毎日思うな」
「無理」
「だろうな」
透は顔を逸らした。
玲央はこういう言葉を大事にする。
透がついこぼした言葉を、逃がさずに拾って、翌日まで持ってくる。
それが恥ずかしい。
けれど、悪い気はしない。
むしろ、自分の言葉をそんなふうに扱われることに、少し安心している。
「……おまえは」
「うん」
「俺が言ったこと、いちいち覚えすぎだろ」
「覚えていたいから」
「そういうのを普通に言うな」
「普通に思ってる」
「返しが強い」
玲央が少し笑った。
朝の光の中で、その笑い方がいつもより近く見えた。
◇
教室に入ると、いつもの席に座る前から違和感があった。
黒板に大きく、こう書かれていた。
『本日六時間目 席替え』
透は、思わず立ち止まった。
「……席替え?」
隣で玲央も黒板を見る。
「席替えだね」
「急だな」
「先生、昨日言ってた?」
「聞いてない」
高城が机から顔を上げる。
「言ってたぞ。ホームルームで」
「本当か?」
「白石、その時たぶん榊原と帰る準備してて聞いてなかった」
「……」
否定できない。
直が前の席から振り返った。
「正確には、担任が『近いうちに席替えする』って言ってた。今日とは言ってなかったけどな」
「じゃあ半分聞いてなくても仕方ない」
「半分は聞いてないことを認めたな」
透は鞄を置きながら、黒板を見た。
席替え。
普通の学校行事だ。
むしろ高校生活ではよくあることだ。席が変わるだけ。机の位置が変わるだけ。
それだけのはずなのに、胸の奥が少しざわついた。
今の席は、玲央と近い。
すぐ隣というわけではない。
でも、目を向ければ見える。休み時間になれば自然に近づける。プリントを回す時も、名前を呼ぶ時も、距離が近すぎず遠すぎない。
それが変わる。
ただ、それだけ。
ただ、それだけなのに。
「白石」
高城がにやにやしながら言う。
「遠距離恋愛始まるかもな」
「始まらない」
透は即座に返した。
「まだ席も決まってないだろ」
「でもさ、離れたら寂しいんじゃないの?」
「席替えごときで寂しがるか」
言った瞬間、玲央がほんの少しだけこちらを見た。
透は気づいてしまった。
しまった、と思う。
別に玲央のことを否定したわけではない。
でも、自分の中の動揺をごまかすために、少し強く言いすぎた。
玲央は何も言わず、自分の席へ向かった。
その背中が、いつもより少し遠く見えた。
◇
午前中の授業は、妙に落ち着かなかった。
まだ席替えはしていない。
玲央の席も、透の席も、いつも通りだ。
それなのに、「今日変わる」と分かっているだけで、教室の見え方が少し違う。
今の配置で過ごすのは今日まで。
そう思うと、板書を写していても、休み時間になっても、つい玲央の方を見てしまう。
一時間目の休み時間。
玲央は自分の席で教科書をしまっていた。
透がそちらを見ると、玲央も顔を上げる。
目が合った。
いつもなら、そこで何か言える。
「喉は」とか、「小テストの見直し」とか、「帰りどうする」とか。
でも今日は、少しだけ言葉が出なかった。
玲央も何も言わない。
高城がそれを見て、直に小声で言った。
「なあ、水城。もう始まってない?」
「何が」
「席替え前の遠距離恋愛」
「まだ席替えしてない」
「じゃあ遠距離恋愛予告編」
「言い方が雑」
透は聞こえていたので、低く言った。
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言った」
「なお悪い」
高城は笑っているが、直は少しだけ真面目な顔で透を見ていた。
「白石、席替え嫌なのか?」
「別に」
「別に、って顔ではない」
「おまえまで玲央みたいなこと言うな」
言ってから、また名前が自然に出たことに気づく。
高城がすぐに反応しそうになったが、直が止めた。
「今はそこじゃない」
「そこじゃないのか」
「そこじゃない」
直は透を見る。
「席が離れるのが嫌なら、嫌っていうより、変な感じなんだろ」
変な感じ。
昨日、自分が言った言葉に近い。
隣が空くと変な感じがする。
席が離れることも、たぶん同じなのだ。
「……席が変わるだけだろ」
「そうだな」
「なのに気になるのが、面倒なんだよ」
言ったあと、透は少しだけ後悔した。
また正直すぎた。
直は軽く笑う。
「じゃあ、気になるんだな」
「……そういう言い方するな」
「事実確認」
「いらない」
高城が口を挟む。
「でも白石、気になるって言っただけ進歩じゃん」
「進歩って言うな」
「じゃあ成長」
「同じだろ」
高城は笑ったが、それ以上は茶化さなかった。
たぶん、昨日のこともあるから少し加減しているのだろう。
それが分かるから、透も強く言い返せなかった。
◇
昼休み。
玲央はいつものように透の隣に来た。
「ここ、いい?」
「……うん」
そのやり取りも、今日で少し意味が変わるのかもしれない。
席替えをしたら、玲央が昼休みにここへ来るまでの距離も変わる。
遠くなるかもしれない。近くなるかもしれない。
そんなことを考えてしまって、透は少しだけ黙った。
玲央が隣に座る。
「透」
「何」
「席替え、気にしてる?」
直球だった。
透は弁当を開ける手を止める。
「……してない」
「今のは嘘」
「嘘って言うな」
「気にしてる顔」
「最近みんな顔で判断しすぎだろ」
「分かるから」
玲央は静かに言う。
高城がパンをかじりながら身を乗り出しかけたが、直に止められた。
「高城、少し待て」
「はい」
素直だった。
透は少しだけ息を吐いた。
「……席替えくらいで気にするのが、自分でも面倒なんだよ」
「うん」
「別に、おまえと話せなくなるわけじゃないし」
「うん」
「朝は待ち合わせしてるし、昼も来ようと思えば来られるし、帰りも一緒だろ」
言ってから、しまったと思った。
帰りも一緒だろ。
完全に前提になっている。
玲央がほんの少しだけ目を見開く。
「何」
「帰りも一緒って、透が言った」
「……言ったけど」
「うん」
「嬉しそうにするな」
「無理」
「知ってる」
いつもの返し。
でも、今日はそれで少しだけ空気が柔らかくなった。
玲央は弁当を開けながら言う。
「俺も、席替えは少し気になる」
「おまえも?」
「うん。透が見えにくくなったら、たぶん少し寂しい」
高城が口を押さえた。
直が静かに水筒を開ける。
透は箸を持ったまま固まった。
「……そういうの、本当に」
「うん」
「昼休みに言うな」
「でも、今言いたかった」
「知ってる」
玲央が小さく笑う。
透は顔を逸らした。
玲央も気にしている。
そのことが、胸の奥に残った。
◇
六時間目のホームルームで、席替えが始まった。
担任が箱を持って教壇に立つ。
「くじ引きで決めるぞ。文句は後で言うなよ。言っても聞かないが」
教室に笑いが起きる。
高城が小声で言った。
「くじの神様、俺を窓際へ」
「おまえ、前もそれ言って廊下側だったな」
直が返す。
「今回は違う。俺は信じてる」
「何を」
「風」
「意味が分からない」
透は前の列から順番にくじを引く生徒たちを見ていた。
玲央がくじを引く。
番号を見て、少しだけ眉を動かした。
どこだ。
どこの席だ。
そう思った自分に、透は内心でため息をつく。
自分の番が来た。
箱から紙を引く。
番号を見る。
教室の座席表と照らす。
窓側でも廊下側でもない。真ん中より少し前。
玲央の席は――。
少し離れていた。
見えないわけではない。
でも、今より遠い。
斜めに視線を向けないと顔が見えない位置。
高城が後ろから座席表を覗き込んだ。
「あー……これは遠距離恋愛開始だな」
「違う」
「いや、今までより遠いじゃん」
「席が少し離れただけだろ」
そう言いながら、透は座席表を見続けていた。
玲央もこちらを見る。
目が合う。
玲央は少しだけ笑った。
平気だと言うように。
でも、その笑い方がほんの少し寂しそうに見えた。
透は胸の奥がぎゅっとなるのを感じた。
◇
机を移動する時間は、教室中が騒がしくなった。
椅子を引く音、机を持ち上げる音、誰かが「通るぞ」と言う声。
高城は結局、廊下側の後ろ寄りになって大げさに天を仰いでいた。
「くじの神様、俺に厳しすぎる」
「風、来なかったな」
直が淡々と言う。
「廊下風なら来るかもしれない」
「前向きだな」
透は新しい席へ机を運んだ。
そこから玲央の席を見る。
遠い。
いや、教室内だ。
遠いと言っても数メートル。話そうと思えば話せるし、休み時間に行けばいいだけだ。
それなのに、視界の中で玲央が少し遠くなっただけで、教室が少し広くなったように感じる。
「白石」
直が近くに来た。
直の席は、透から少し近い。
「何」
「思ったより分かりやすい顔してる」
「もうそれ聞き飽きた」
「榊原、遠いな」
「……少しだけだろ」
「少しだけ、って言う時点で気にしてる」
「うるさい」
直は笑った。
「休み時間に行けばいい」
「それはそうだけど」
「でも授業中に見えにくいのは、違う感じがする?」
透は言葉に詰まった。
本当に、直はたまに嫌なところを突く。
「……まあ」
「なるほど」
「納得するな」
直はそれ以上言わなかった。
ただ、軽く肩をすくめて自分の席へ戻った。
◇
席替え後の最後の短い連絡時間、透は集中できなかった。
担任が明日の持ち物や提出物について話している。
聞かなければならない。
なのに、玲央が今どこに座っているのかが気になる。
見ようとすれば見える。
だが、前の席の生徒の肩越しになる。視線を少し動かさないといけない。
それが妙に落ち着かない。
玲央も同じなのか、何度かこちらを見た。
目が合うたび、すぐにどちらかが逸らす。
ただそれだけなのに、授業より疲れた。
ホームルームが終わると、教室がざわつく。
新しい席の周りで話す生徒たち。
前より近くなった友人同士で喜ぶ声。
遠くなって文句を言う声。
透は鞄をまとめながら、少しだけ息を吐いた。
すると、玲央がこちらへ来た。
遠い席から、まっすぐ。
「透」
「何」
「遠かった」
第一声がそれだった。
透は一瞬、返す言葉を失った。
「……席の話だろ」
「うん。席の話」
玲央はそう言った。
けれど、その声は席だけの話ではないように聞こえた。
「そんなに遠くないだろ」
「見えにくい」
「授業中に見る必要ないだろ」
「ある」
「ない」
「ある」
玲央は静かに言った。
透は顔を逸らす。
「……俺も、ちょっと変だった」
小さく言う。
玲央がこちらを見る。
「本当?」
「席の話だ」
「うん」
「席の話だからな」
「うん。席の話」
玲央は少しだけ笑った。
それが妙に優しくて、透はまた胸の奥が落ち着かなくなる。
高城が後ろから声をかけてきた。
「遠距離恋愛、一時間で再会」
「高城」
透が低く呼ぶと、高城は両手を上げた。
「悪い悪い。でも、榊原が白石のところにまっすぐ来るの、ちょっと面白かった」
「面白がるな」
直が横から言う。
「高城、そこは茶化すより記録しておくところだ」
「記録もするな」
「白石、ツッコミが忙しいな」
透はため息をついた。
それでも、玲央が近くに来たことで、さっきまでの落ち着かなさが少し減っている。
それがまた悔しかった。
◇
放課後、二人はいつものように並んで廊下を歩いた。
教室では遠くなった。
でも廊下に出れば、隣に戻る。
たったそれだけで、透の中の何かが少し整った気がした。
「透」
「何」
「今日、席替えしてから、何回か見てた」
「……おまえも見てただろ」
「うん」
「なら言うな」
「でも、目が合った」
「授業中だぞ」
「うん」
「集中しろ」
「透も」
「……そうだな」
二人で校舎を出る。
夕方の風が少し冷たい。
校庭では部活が始まっている。ボールを蹴る音や、掛け声が遠くから聞こえる。
「明日から」
玲央が言う。
「うん」
「教室では少し遠い」
「席だけだろ」
「うん」
「朝はいつも通りだし、昼は来ればいいし、帰りも……」
そこで透は少し止まった。
昨日も言った。
帰りも一緒だろ、と。
今、それをまた言いそうになった。
玲央が静かに待っている。
透は顔を逸らしたまま、言い直した。
「……帰りも、どうせ一緒に帰るだろ」
玲央の表情がやわらぐ。
「うん」
「嬉しそうにするな」
「嬉しい」
「知ってる」
「透」
「何」
「席が遠いぶん、放課後が少し近く感じる」
「……そういうの」
「うん」
「言い方」
「でも、本当」
「知ってる」
もう、抵抗する気力が少し減っていた。
席が遠いだけで気になるなら、もうだいぶ危ない。
透は今日、そのことを思い知った。
教室の中で数メートル離れただけ。
それだけで落ち着かない。
目で探す。
見えにくいと、少し変な感じがする。
でも放課後に隣へ戻ると、ちゃんと戻ったと思う。
それが何を意味するのか、もう考えないふりをするのは難しくなっていた。
「明日の朝」
玲央が言う。
「うん」
「待ってる?」
「待ってる」
透はもう迷わなかった。
「教室で遠くなったからって、朝まで変える必要ないだろ」
玲央が少しだけ目を見開いた。
「何」
「今の、すごく嬉しい」
「言うと思った」
「でも、言いたい」
「……知ってる」
二人は駅へ向かって歩いた。
教室では遠くなった。
でも、それ以外の場所で近いことを、透は今日これまで以上に意識してしまった。
席替えは、ただ席を変えただけ。
それなのに、二人の距離をまた少しだけ浮かび上がらせた。




