第51話 嫌ではない、が増えすぎて、もう逃げ道になっていない
翌朝、透はいつもの柱の前で玲央を待っていた。
空はよく晴れている。
昨日までの湿った空気はすっかり薄れ、駅前には朝らしいざわめきが戻っていた。改札を抜けていく人、出てくる人、友人同士で眠そうに挨拶を交わす生徒たち。
その中から玲央を見つけるのは、もう難しくなかった。
人混みの中でも、不思議と分かる。
歩き方。姿勢。顔を上げるタイミング。
透を見つけた瞬間に、ほんの少しだけ表情が変わるところ。
分かってしまう。
それが少し悔しい。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
名前を呼ぶ。
玲央が少しだけ笑う。
ここまでが、もう朝の流れになっていた。
「今日も待っててくれた」
「同じ時間って言っただろ」
「うん」
「……何だよ」
「普通に言うようになったなって」
「何を」
「待ってること」
透は一瞬だけ言葉に詰まった。
確かに、最近はもう「早く着いただけ」と言っていない。
待っている。
そう言う方が楽になってきた。
それはつまり、逃げ道を一つ捨てたということでもある。
「……毎回ごまかすのが面倒になっただけだ」
「そっか」
「嬉しそうにするな」
「嬉しいから」
「知ってる」
言ったあとで、透は少しだけ眉を寄せた。
知ってる。
この返しも、もう何度目か分からない。
玲央が嬉しいと言う。
透が知ってると返す。
それが自然になりすぎている。
危ない。
かなり危ない。
けれど、やめる気にはならなかった。
◇
教室に入ると、高城が朝から妙に元気だった。
「おはよう、待ち合わせ組」
「もうそれ挨拶にする気だろ」
「うん」
「認めるな」
透が鞄を置くと、直が前の席から振り返った。
「おはよう。小テスト返ってくるの、今日かもな」
「ああ……そうか」
昨日まであれだけ気にしていた小テストだが、今朝の透の頭の中では少し薄くなっていた。
いや、完全に忘れていたわけではない。
手応えもある。
ただ、それ以上に玲央の言葉が残りすぎていた。
否定したくなかった。
急がせたいわけじゃない。
透の言葉も残る。
それらが小テストより大きな顔をして、頭の中に居座っている。
「白石、また考えてる顔してる」
高城が指摘した。
「してない」
「してる。最近の白石、だいたい榊原絡みで考えてる顔する」
「絡みって言うな」
直が苦笑する。
「でも、昨日の話は残るだろ」
「……まあ」
「おお」
高城が声を上げる。
「否定しない」
「いちいち反応するな」
「だって白石の『まあ』は、わりと大きな肯定だし」
「勝手に翻訳するな」
「いや、最近の白石語録だとそうなんだよ」
高城は指を折り始めた。
「嫌ではない、まあ、別にいい、知ってる。この辺、もうほぼ肯定」
「雑すぎるだろ」
直が横から言う。
「でも『嫌ではない』は、かなり肯定に近いと思う」
「直まで」
「実際、白石の『嫌ではない』は増えた」
透は言葉に詰まった。
増えた。
それは自分でも分かっている。
玲央と待ち合わせるのも嫌ではない。
隣に座られるのも嫌ではない。
名前で呼ぶのも嫌ではない。
写真を大事にされるのも嫌ではない。
そう見られることも、嫌ではない。
嫌ではない。
便利な言葉だった。
逃げ道のつもりだった。
でも、あまりに増えすぎると、それはもう逃げ道ではないのかもしれない。
透は視線を逸らした。
「……便利なんだよ」
「何が?」
「嫌ではない、って言葉が」
高城が黙った。
直も少しだけ表情を変える。
透は自分でも、なぜそれを口にしたのか分からなかった。
「完全に肯定するには、まだ早い時に使えるだろ」
言いながら、少しだけ苦くなる。
そうだ。
完全に肯定するには、まだ怖い。
けれど否定するには、もう遅い。
だから「嫌ではない」と言う。
ただ最近、その言葉が増えすぎた。
増えすぎて、もう自分でも分かってしまっている。
嫌ではない、はもうかなり肯定に近い。
高城が、少しだけ真面目な顔で言った。
「白石、自分でそこまで分かってるなら、だいぶ進んでるんじゃね?」
「進んでるって言うな」
「じゃあ、向き合ってる」
「急にまともな言い方するな」
「たまにはする」
直が静かに頷く。
「いいと思う。白石は逃げながらでもちゃんと見てるから」
「逃げてる前提かよ」
「逃げてないとは言わないだろ」
「……言わないけど」
玲央は少し離れた席で、その会話を聞いていた。
何も言わない。
ただ、静かにこちらを見ている。
目が合う。
透はすぐに逸らしそうになって、少しだけ踏みとどまった。
玲央は、ほんの少し笑った。
それだけで、また胸が落ち着かなくなる。
◇
小テストは三時間目の終わりに返ってきた。
透の点数は、思っていたより良かった。
符号ミスをしそうになったところも、きちんと直せていた。
昨日までの勉強会の成果だ。
玲央の点数は、やはり高かった。
高城は予想よりは取れていて、答案を見た瞬間、机に突っ伏して「俺、生きてる」と呟いた。
「よかったな」
直が言う。
「白石と榊原のおかげです」
高城はわざとらしく手を合わせた。
「先生、ありがとうございました」
「先生じゃない」
透と玲央の声が重なった。
高城が顔を上げる。
「息ぴったり」
「うるさい」
直が答案を見ながら言った。
「でも実際、二人の説明は効いたな。高城がここまで取れるなら」
「水城、それ褒めてる?」
「褒めてる」
「微妙に傷つく褒め方だな」
玲央が透の答案を見た。
「透、ここ合ってた」
「符号のところだろ」
「うん」
「おまえの声、思い出したからな」
言ってから、透はしまったと思った。
昨日も似たようなことを言った。
また言っている。
玲央は少しだけ嬉しそうにする。
「透の中に残ってた?」
「……勉強の話としてな」
「うん」
「そこで嬉しそうにするな」
「無理」
「知ってる」
高城がすかさず言った。
「出た」
「何が」
「知ってる」
「それを拾うな」
「いやもう、その『知ってる』も肯定だろ」
透は答案をしまいながら、顔をしかめた。
「何でも肯定にするな」
「でもそうじゃん。榊原が嬉しいのを白石が知ってる。しかも毎回ちゃんと返してる」
「……」
「黙った」
直が笑う。
「高城、今日はやけに鋭いな」
「テスト返却で脳が覚醒した」
「点数良かったからか」
「生還したから」
透は何も言い返せなかった。
高城の言うことが、少しだけ当たっていたからだ。
玲央が嬉しいことを知っている。
そして、それを知っていると返すことが、自分の中で当たり前になっている。
それもまた、逃げ道ではない。
◇
昼休み。
玲央はいつものように透の隣へ来た。
「ここ、いい?」
「うん」
もう、ほとんど迷わず答えた。
玲央が座る。
高城が向かいで購買パンを開ける。
直が弁当を出す。
完全にいつもの形だった。
「そういえばさ」
高城がパンをかじりながら言う。
「白石の『嫌ではない』問題」
「まだ続いてたのか」
「続くよ。今日のテーマだから」
「勝手にテーマにするな」
「でもさ、榊原はどう受け取ってるの?」
高城が玲央を見る。
透は一瞬、止めようとした。
しかし玲央は、少し考えてから答えた。
「大事に聞いてる」
静かな声だった。
透は何も言えなくなった。
高城も少しだけ口を閉じる。
直が柔らかく聞いた。
「どういう意味で?」
「透は、本当に嫌なことは嫌って言うと思う」
「まあ、それはそうだな」
「だから、嫌ではないって言ってくれる時は、少なくとも拒まれてはいない」
玲央は透を見た。
「それに、透の嫌ではないは、少しずつ変わってる」
「……変わってる?」
透は思わず聞いた。
玲央は頷く。
「最初は逃げ道みたいだった」
「……」
「でも最近は、残してくれてる感じがする」
「何を」
「俺が入ってもいい場所」
言葉が出なかった。
高城がパンを持ったまま固まった。
直も静かに視線を落とした。
昼休みの教室のざわめきが、少し遠くなる。
「……おまえさ」
透はようやく声を出した。
「うん」
「そういうことを、昼休みに」
「言うな?」
「……いや」
いつものように止めようとして、少しだけ言葉が変わった。
「急に言うな」
玲央が瞬きをする。
透は視線を逸らした。
「心臓に悪い」
言ってしまった。
高城が口を押さえる。
直が軽く咳払いをした。
玲央は、少しだけ目を伏せる。
「ごめん」
「謝るな」
「でも、言いたかった」
「知ってる」
返した声は、いつもより少しだけ低かった。
玲央は嬉しそうにする。
でも、今日はそれを茶化せなかった。
「……そんなに大事にするなよ」
透が小さく言う。
玲央は首を横に振った。
「無理」
「だろうな」
「透の言葉だから」
「……それがずるいんだよ」
玲央は否定しなかった。
高城がようやく小さく言う。
「いや、榊原、今日も破壊力高いな」
「高城」
直が軽く止める。
「分かってる。これ以上は黙る」
「本当に?」
「努力する」
「信用できないな」
そのやり取りで、少しだけ空気が戻った。
けれど、玲央の言葉は透の中にしっかり残っていた。
俺が入ってもいい場所。
嫌ではない、という言葉が、そんなふうに聞こえていたなんて思わなかった。
逃げ道のつもりだった言葉が、玲央にとっては入り口になっている。
それは、かなりまずい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
◇
放課後、透はいつも通り帰り支度をした。
玲央が来る。
「透」
「帰るんだろ」
透が先に言うと、玲央は少しだけ嬉しそうにした。
「うん。一緒に帰りたい」
「……それも毎回ちゃんと言うよな」
「言いたいから」
「知ってる」
教室の後ろで高城が小さく「安定」と言い、直が笑っていた。
透は振り返らなかった。
二人で廊下へ出る。
夕方の校舎は、テスト返却のざわめきが少し残っていた。高城のように安堵している生徒もいれば、答案を見て肩を落としている生徒もいる。
小テストは終わった。
勉強会をする理由も、ひとまずなくなった。
そのことに気づいて、透は少しだけ黙った。
「透」
「何」
「小テスト、終わったね」
「……うん」
玲央も同じことを考えていたらしい。
「勉強会の理由、なくなったな」
透が言う。
玲央はすぐには答えなかった。
「うん」
「……何」
「理由がなくなったら、誘ったら困るかなって考えてた」
胸の奥が、少しだけ鳴った。
透は前を向く。
「……小テストの見直しがあるだろ」
「返ってきたし?」
「間違えたところ、確認しないと」
「透、ほとんど間違えてない」
「高城の分がある」
「高城?」
「どうせ見直し必要だろ」
かなり無理のある理由だった。
自分でも分かる。
でも、玲央は少しだけ笑った。
「理由、探してくれてる?」
「……うるさい」
「嬉しい」
「言うと思った」
「うん」
「でも、まあ」
透は少しだけ歩く速度を落とした。
「勉強会自体は、嫌ではない」
言った。
玲央はすぐには返事をしなかった。
透は続ける。
「……分かってる。これも便利な言葉だって」
「うん」
「でも今は、これくらいが限界」
玲央は静かに頷いた。
「十分」
「十分?」
「うん。透の嫌ではないは、俺にとって十分大事だから」
まただ。
またその言い方。
透は顔を逸らした。
「……本当に、大事にしすぎだ」
「無理」
「知ってる」
◇
帰り道、夕方の風は穏やかだった。
テストが終わったせいか、二人の歩く速度も少しゆっくりだった。
駅へ向かう途中、高城と直が前方から歩いてくるのが見えた。
「あれ」
高城がこちらに気づいて手を振る。
「お、白石、榊原」
「何で前にいるんだよ」
透が聞くと、高城は笑った。
「部活が今日は早く終わった。水城は委員会終わり」
「偶然合流した」
直が言う。
「じゃあ駅まで一緒に行くか」
高城が自然に透と玲央の間へ入ろうとした。
ほんの冗談だったのだろう。
いつものノリで、軽く肩を滑り込ませるように。
けれど、その瞬間、透は妙に落ち着かなくなった。
玲央が隣にいない。
ただそれだけなのに、歩幅が変な感じになる。
玲央も、ほんの少しだけ表情を変えた。
不満というほどではない。
でも、何かがずれたような顔。
直がそれにすぐ気づいた。
「高城」
「ん?」
「こっち。さっきの点数の話、聞きたい」
「え、今?」
「今」
直は自然に高城の肩を引いて、自分の横へずらした。
高城は最初きょとんとしていたが、直の視線を見て何か察したらしい。
「あー、はいはい。俺の奇跡の生還話ね」
「奇跡ってほどではない」
「そこは乗ってくれよ」
二人が前へ出る。
結果として、透の隣にはまた玲央が戻った。
透は何も言わなかった。
玲央も何も言わない。
けれど、歩幅が戻る。
それが分かってしまった。
「……今の」
玲央が小さく言う。
「何」
「直、気づいた」
「たぶんな」
「高城も気づいたかも」
「……最悪だ」
でも本当に最悪かというと、少し違った。
高城は茶化さなかった。
直は自然に空気を整えた。
それがありがたかった。
しばらく四人で歩いたあと、高城と直は別の話で盛り上がり、少し前を歩いた。
二人きりではない。
でも、隣は玲央だった。
「透」
「何」
「さっき、高城が間に来た時」
「うん」
「少し変だった」
透は前を向いたまま、数秒黙った。
それから、小さく言った。
「……俺も」
玲央がこちらを見る。
「隣、空くと変な感じがする」
言ってしまった。
かなり、素直だった。
玲央は、しばらく何も言わなかった。
「何か言えよ」
「今、すごく嬉しい」
「言うと思った」
「でも、言いたい」
「……知ってる」
玲央は静かに笑った。
「俺も、隣が透じゃないと変な感じがした」
「……そうかよ」
「うん」
前を歩く高城がちらっと振り返ったが、何も言わなかった。
直も気づいているだろうに、何も言わない。
それが今はありがたい。
嫌ではない、が増えすぎて、もう逃げ道になっていない。
待つことも。
名前を呼ぶことも。
隣にいることも。
玲央とそう見られることも。
否定できないものが増えている。
そして今日、透は思ってしまった。
隣が空くと変な感じがする。
それはもう、「嫌ではない」よりも少し先の言葉だった。




