第50話 否定したくなかった、の破壊力を本人は分かっていない
翌朝、透はいつもの柱の前に立っていた。
待っている。
もう、そのこと自体には抵抗が少ない。
抵抗が少ないどころか、改札の向こうに玲央の姿を探すことまで、だいぶ自然になってきている。
問題は、そこではなかった。
――否定したくなかった。
昨日の玲央の言葉が、朝になってもまだ頭の中に残っていた。
寝る前にも思い出した。
歯を磨いている時にも思い出した。
今朝、制服に着替えている時にも思い出した。
小テストの手応えよりも、その言葉の方がずっと残っている。
「……本人、分かってるのかよ」
小さく呟いたところで、改札の向こうに玲央が見えた。
今日も喉の調子はよさそうだ。マスクはしていないし、歩き方もいつも通り。透を見つけると、ほんの少しだけ表情が柔らかくなる。
それだけで、朝がいつもの形になる。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
名前を呼ぶのはもう自然だった。
自然なのに、今朝は少しだけ声が硬くなった気がした。
玲央もそれに気づいたのか、隣に並びながら透を見る。
「眠い?」
「別に」
「考えごと?」
「……別に」
「二回目の別に」
「数えるな」
玲央は少しだけ目を細めた。
「昨日のこと?」
直球だった。
透は歩き出しながら、顔を前に向ける。
「……蒸し返すな」
「やっぱり」
「やっぱり、じゃない」
「気にしてる?」
「気にするだろ」
出てしまった。
昨日の放課後にも同じことを言った気がする。
玲央は少しだけ黙った。
責めるような沈黙ではない。むしろ、言葉を選んでいるような間だった。
「困らせた?」
「困った」
「うん」
「でも、嫌だったとは言ってない」
言ってから、透は少しだけ口を閉じた。
昨日も似たことを言った。
また言っている。
結局、自分はそこから先に進めないまま、同じ場所を行ったり来たりしている。
玲央は静かに頷いた。
「うん。覚えてる」
「覚えるな」
「無理」
「だろうな」
玲央が少し笑う。
その笑い方はいつもより控えめだった。
「透の『嫌じゃない』とか『嫌だったとは言ってない』は、俺にとっては結構大事だから」
「……大事にするなって言っただろ」
「それも覚えてる」
「忘れろ」
「それは無理」
朝の通学路に、いつものやり取りが戻ってくる。
でも今日は、その奥に昨日の言葉がまだ残っていた。
否定したくなかった。
たったそれだけで、透の中の足場が少し揺らいでいる。
◇
教室に入ると、高城が昨日の小テストの話をまだしていた。
「俺、夢の中でも式解いてた」
「それはいい傾向じゃないか?」
直が言う。
「違うんだよ。夢の中でも分からなかった」
「最悪だな」
「だろ? 寝ても覚めても分からないって、もう運命だろ」
「運命のせいにするな」
透は鞄を置きながら、そのやり取りを聞いていた。
いつもの教室。
いつもの高城と直。
けれど、今日は少しだけ落ち着かない。
玲央の席を見る。
少し離れた場所で、玲央は鞄から教科書を出していた。
目が合う。
玲央は何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ目元を緩めた。
透はすぐに視線を戻した。
「白石」
直がこちらを見る。
「何」
「今日、ずっと考えてる顔してる」
「朝来てすぐに言うな」
「駅から続いてる感じ?」
「何で分かるんだよ」
「顔」
「本当に最近そればっかりだな」
高城が身を乗り出す。
「え、何? また榊原案件?」
「案件って言うな」
「でもそうなんだろ?」
「……」
沈黙したのがよくなかった。
高城が「あー」と納得した顔になる。
「昨日のあれか。否定したくなかった、のやつ」
「大声で言うな」
「大声じゃないって」
「内容が大声なんだよ」
直が小さく笑った。
「それは分かる」
「分かるな」
高城は机に肘をつきながら言った。
「でもさ、榊原ってああいうこと普通に言うよな」
「普通じゃないだろ」
「本人の中では普通なんじゃね?」
透は少しだけ黙った。
たぶん、玲央の中でも普通ではない。
昨日、玲央の耳が少し赤かったのを思い出す。
平気で言っているわけではない。
それなのに言う。
だから余計に、透は揺らされる。
「……普通じゃないから困るんだよ」
小さく言った。
高城が珍しく一瞬黙った。
直は少しだけ目を細める。
「白石も、だいぶ正直になってきたな」
「なってない」
「今のは正直だった」
「聞かなかったことにしろ」
「無理」
「おまえもそれか」
直は笑って前を向いた。
高城は何か言いたそうだったが、授業開始のチャイムが鳴ったので、ぎりぎり黙った。
◇
午前の授業中、透は何度か玲央の方を見た。
席が少し離れたせいで、以前より視界に入りにくい。
それなのに、気づけば探している。
名前で呼ぶようになって。
朝、待つようになって。
勉強会をするようになって。
昨日、あんなことを言われて。
それでも学校の授業は普通に進む。
先生の声。
チョークの音。
ノートを取る音。
透は板書を写しながら、ふと自分のノートの字を見た。
――字も、やっぱり好き。
今度はそれまで思い出した。
「……」
だめだ。
今日の自分はかなりだめだ。
授業が終わると、直がすぐ振り返った。
「白石、今日は重症だな」
「何が」
「ノートの同じところ、二回なぞってた」
「……気のせいだろ」
「あと、今たぶん榊原見た」
「見るな」
「おまえが見てたから」
「その返しやめろ」
直は軽く笑う。
「榊原が変なこと言うから?」
「……変なことっていうか」
透は少しだけ言葉を探した。
「たぶん、普通なら茶化せることなんだろうけど」
「うん」
「あいつ、本気で言うから」
「うん」
「こっちが冗談にできない」
直は真面目な顔で聞いていた。
「それ、嫌なのか?」
聞かれて、透はすぐには答えられなかった。
嫌ではない。
それはもう、何度も言っている。
でも、嫌ではないだけでもない。
「……分からない」
結局、そう答えた。
直は少しだけ頷いた。
「まあ、分からないなら考えればいいんじゃないか」
「簡単に言うな」
「考えるのは得意だろ」
「玲央のことだと、そうでもない」
言ったあとで、透は固まった。
直がゆっくり笑う。
「今、名前」
「……もうそこは突っ込むな」
「いや、そこじゃなくて」
「何だよ」
「玲央のことだと、って自然に言ったなって」
透は何も言えなかった。
直はそれ以上からかわず、ただ静かに言った。
「もうだいぶ馴染んでるよ。良くも悪くも」
「……そうかよ」
透はノートを閉じた。
馴染んでいる。
その言葉は、思ったより胸に残った。
◇
昼休み、玲央はいつものように透の隣へ来た。
「ここ、いい?」
「うん」
返事に迷わなくなってきている。
玲央が隣に座る。
高城が購買パンを開け、直が弁当を出す。
いつもの形。
でも、今日は玲央が座った瞬間、少しだけ沈黙が落ちた。
昨日の昼休みの続きが、まだそこにある気がした。
高城がそれを感じ取ったのか、あえて明るく言う。
「そういや小テスト、返却いつだっけ?」
「たぶん明日か明後日」
直が答える。
「怖いな……でも昨日よりは書けた。これは事実」
「ならいいだろ」
透が言う。
「白石と榊原のおかげだな」
「結果出てから言えって昨日も言っただろ」
「厳しい。でも助かったのは本当」
高城はそう言ってから、ふと透と玲央を見た。
「で、昨日のあれから二人は大丈夫?」
「何が」
透の声が少し低くなる。
「いや、否定したくなかった発言」
「だから蒸し返すな」
「気になるだろ」
「気にするな」
直が高城の腕を軽く叩いた。
「高城、雑に聞くな」
「ごめん。でもさ、白石が今日ずっと考えてる顔してるし」
「……おまえら全員、俺の顔を観察しすぎだろ」
高城は少しだけ真面目な声になった。
「いや、まあ、茶化してるけどさ。嫌な感じだったら言わない方がいいかなって思って」
透は意外で、少し言葉に詰まった。
高城も一応、そこは見ているらしい。
「……嫌な感じではない」
透は小さく言った。
玲央が隣で静かにこちらを見る。
高城が少し安心したように笑う。
「ならいいけど」
「でも、面白がりすぎるな」
「はい」
「返事だけいいな」
「努力する」
直が苦笑した。
「全員、努力するしか言わないな」
「約束できないことが多いんだよ」
高城のその言葉に、透は少しだけ笑いそうになった。
少し空気が軽くなる。
玲央は隣で弁当を開けながら、静かに言った。
「透」
「何」
「昨日のこと、困らせたのは分かってる」
「……うん」
「でも、言ったことを取り消したいとは思ってない」
高城が黙った。
直も何も言わなかった。
透は箸を持つ手を止める。
「……そういうの」
「うん」
「昼休みに言うなって、何回言えば分かるんだよ」
「ごめん」
「謝るな」
いつもの返し。
けれど、声は少しだけ柔らかかった。
玲央は小さく頷いた。
「俺は、透とそう見られるの、嫌じゃない。昨日言ったことは本当」
「……うん」
「でも、透がすぐ同じこと言えないのも分かってる」
透は顔を上げた。
玲央は穏やかな顔をしていた。
「だから、急がせたいわけじゃない」
「……おまえ」
「うん」
「それ、先に言えよ」
玲央は少しだけ目を丸くし、それから笑った。
「今言った」
「遅い」
「ごめん」
「だから謝るな」
胸の奥にあった引っかかりが、少しだけほどけた。
玲央が否定しなかったこと。
それを自分に突きつけられたように感じていた。
でも玲央は、透に同じ速さで答えろと言っていたわけではない。
ただ、自分は否定したくなかった。
そう伝えただけ。
その重さは変わらない。
でも、少し受け取りやすくなった気がした。
◇
放課後、透はいつものように帰り支度をしていた。
玲央が来る前に、高城が近づいてきた。
「白石」
「何」
「今日、俺ちょっと余計だったな。悪い」
「……急にまともになるな」
「俺だってなる時はなる」
高城は少しだけ笑った。
「でも、二人が変な感じじゃなくてよかったわ」
「変な感じではあるだろ」
「まあ、それはずっとそう」
「おい」
「でも嫌な変さじゃないっていうか」
高城は言葉を探すように少し考えた。
「見てるこっちも、何か応援したくなる変さ」
「意味分からない」
「俺も分からん。でもそんな感じ」
透は少しだけ黙った。
「……ありがとな」
小さく言うと、高城は目を丸くした。
「え、白石が礼言った」
「やっぱり今の取り消す」
「いやいや、受け取った。今のは保存した」
「するな」
直が横から笑っていた。
「高城、保存先の容量足りるか?」
「白石の素直発言フォルダ作るわ」
「作るな」
そんなことを言っていると、玲央が近づいてきた。
「透」
「帰るんだろ」
透が先に言った。
玲央が少しだけ止まる。
「……うん。一緒に帰りたい」
「そう言うと思った」
「言わなくても分かった?」
「最近、少しな」
玲央の表情がやわらぐ。
高城が何か言いたそうにしたが、直に止められていた。
◇
帰り道、二人はいつもより少しゆっくり歩いた。
夕方の風は冷たすぎず、校門から駅までの道には部活帰りの生徒たちがちらほらいる。
しばらく何も言わなかった。
けれど、沈黙は重くない。
「玲央」
「何?」
「昨日のこと」
「うん」
「まだ全部整理できてない」
「うん」
「でも、昼に言ってたことは分かった」
玲央は黙って聞いている。
「急がせたいわけじゃないってやつ」
「うん」
「……それ聞いて、少し楽になった」
玲央は少しだけ息を吐いた。
「よかった」
「でも」
「うん」
「破壊力あること言ってる自覚は持て」
玲央が瞬きをする。
「破壊力」
「あるだろ。否定したくなかった、とか」
「……ある?」
「ある」
「透に効いた?」
「聞くな」
「効いたんだ」
「聞くなって言ってるだろ」
玲央は少しだけ笑った。
その笑い方が、昨日より少し安心しているように見えた。
「……本人は分かってないんだよな」
透が呟く。
「何を?」
「自分の言葉がどれだけこっちに残るか」
言ってから、透は少しだけ後悔した。
また素直なことを言った。
でも玲央は、からかわなかった。
「透の言葉も残るよ」
「俺の?」
「うん」
「何か言ったか?」
「嫌ではない、とか」
「便利だからな」
「待ってる、とか」
「それは事実だろ」
「玲央って呼んでくれることも」
「……名前だろ」
「俺には、残る」
透は何も言えなくなった。
夕方の道を、二人で歩く。
足音が並ぶ。
自分だけが振り回されているわけではない。
玲央も、透の言葉をちゃんと受け取っている。
そう思うと、少しだけ胸が温かくなった。
「……じゃあ、お互い様か」
透が言うと、玲央は静かに笑った。
「うん」
「嬉しそうにするな」
「無理」
「知ってる」
いつもの言葉で、今日も終わっていく。
でも今日は、その「知ってる」が少しだけ違って聞こえた。
玲央が何を大事にしているのか。
自分が何に弱いのか。
そして、二人の言葉がもう軽く流せないものになっていること。
透は、少しずつ知ってしまっている。
それが怖くないわけではない。
でも、嫌ではなかった。




