第49話 小テストより、隣の反応が気になる
小テスト当日の朝、透はいつもの柱の前で玲央を待っていた。
空は晴れている。
雨の気配はもうなく、駅前の空気も昨日より少し乾いていた。通学する生徒たちの声も、どこか普段通りに戻っている。
ただ、透の中だけは少し落ち着かなかった。
理由は分かっている。
小テストがあるから――ではない。
いや、小テストももちろんある。昨日まで放課後に勉強会までして、玲央に説明を受け、苦手なところも潰した。手応えはある。たぶん、悪くはない。
問題は、玲央の方だった。
玲央なら普通に解けるだろう。
それは分かっている。
玲央は成績がいいし、説明もうまい。自分に教えられるくらいなのだから、本人が解けないはずがない。
なのに、昨日まで一緒に勉強していたせいで、今日は玲央の出来まで気になってしまう。
完全に余計な心配だった。
「……小テストくらいで何やってんだ」
小さく呟いたところで、改札の向こうに玲央の姿が見えた。
玲央はいつもの歩き方でこちらへ来る。喉の調子ももう問題なさそうで、顔色も普通だった。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
名前で呼ぶと、玲央の表情が少しだけ柔らかくなる。
もう、そこにもかなり慣れてきた。
慣れてきたが、まったく照れないわけではない。
「今日は小テストだな」
透が言うと、玲央は頷いた。
「うん」
「昨日のところ、見直したか?」
「した」
「符号ミスのとこ」
「そこも見た」
「高城に教えたやつ」
「それも」
「……なら大丈夫だな」
言ってから、透は自分で気づいた。
今の確認は、自分に向けたものではない。完全に玲央へ向けた確認だった。
玲央も気づいたらしく、少しだけ目を細める。
「透、俺の心配してる?」
「……確認しただけだろ」
「俺、小テストでそんなに危なそう?」
「危なそうではない」
「じゃあ?」
「昨日、一緒にやったから」
言ってしまった。
玲央が少しだけ黙る。
「……何」
「嬉しい」
「そこ嬉しがるところか?」
「うん。俺の結果まで気にしてくれてる」
「そこまでは言ってない」
「でも、気にしてる?」
透は前を向いて歩き出した。
「……少しな」
玲央が隣に並ぶ気配がした。
「それ、今日一番嬉しいかも」
「朝から今日一番を出すな」
「でも本当」
「知ってる」
いつもの返し。
けれど、今日は少しだけ緊張をほぐすための言葉みたいになった。
◇
教室に着くと、高城が机に突っ伏していた。
「白石……榊原……俺は今日、戦場へ向かう兵士の気持ちが分かった」
「小テストだろ」
透が鞄を置きながら言う。
「人は小さな紙一枚でここまで追い込まれるんだな」
「昨日、勉強したんだろ」
「した。したけど、覚えたものが朝になったら少し旅立ってた」
「戻せ」
直が横から淡々と言う。
「大丈夫だよ。昨日やったところ、もう一回見れば思い出す」
「水城先生……」
「先生じゃない」
高城は今度は透の方を見た。
「白石先生、最後の一言をください」
「先生じゃない。あと、式を一段飛ばすな」
「それ、昨日も言われたやつだ」
「じゃあ覚えてるだろ」
「そうか。俺、覚えてるのか」
「そこから不安になるな」
玲央が少しだけ笑った。
高城はそれを見て、急に顔を上げる。
「榊原は余裕そうだな」
「余裕ではないけど、昨日確認したから」
「白石と?」
「うん」
「支え合ってるなあ」
「勉強しただけだ」
透がすぐに言う。
高城はにやっと笑った。
「まだ俺、何も言ってないけど」
「言う顔だった」
「白石、顔で分かるようになってきてるじゃん」
「おまえの顔は分かりやすいんだよ」
直が小さく笑う。
「高城は分かりやすいな」
「水城まで」
軽いやり取りのあと、教室は少しずつ小テスト前の空気になっていった。
教科書を開く音。
シャーペンを持つ音。
誰かが小声で用語を繰り返す声。
透も自分のノートを開いた。
昨日、玲央に教わったところ。
自分で解き直したところ。
間違えた符号。
それらを順番に確認する。
少し離れた席にいる玲央を見ると、玲央も静かにノートを見返していた。
その横顔は落ち着いている。
大丈夫そうだ。
そう思った瞬間、透は自分に少し呆れた。
だから、何で玲央の様子を確認して安心しているんだ。
◇
小テストは二時間目の最初に行われた。
先生がプリントを配り、教室の空気が一気に静まる。
「時間は十五分。終わったら見直し。始め」
合図とともに、紙をめくる音が教室に広がった。
透は問題に目を通す。
見覚えがある。
昨日やった形式にかなり近い。
最初の問題はすぐに解けた。次の問題も、手順は分かる。
よし。
いける。
そう思ったところで、透はふと斜め前の方を見そうになった。
玲央の席がある方だ。
見てどうする。
テスト中だぞ。
自分で自分に突っ込み、すぐ問題へ視線を戻す。
玲央なら解けている。
心配する必要はない。
分かっているのに、気になる。
昨日まで一緒に確認した問題が出ているから。
玲央が教えてくれたところだから。
玲央がちゃんと解いているか、なぜか気になってしまう。
透は小さく息を吐いた。
集中しろ。
問題に戻る。
条件を分ける。
前の式とつなげる。
符号を確認する。
昨日、玲央が言っていた手順が頭の中で再生される。
――ここ、符号。
玲央の声を思い出して、透は手を止めた。
今書いた式を見直す。
危なかった。
符号を間違えかけていた。
透はそっと書き直す。
玲央の声が頭に残っていてよかった。
そんなことを思って、少しだけ顔が熱くなった。
テスト中に何を考えているんだ。
透は最後まで問題を解き、見直しをした。
手応えはある。
たぶん、大丈夫だ。
◇
小テストが回収されると、教室の空気が一気に緩んだ。
「終わった……」
高城が机に倒れ込む。
「どうだった?」
直が聞く。
「生きて帰ってきた」
「点数の話をしてる」
「それはまだ聞かないでくれ」
透は自分のシャーペンを筆箱にしまいながら、ひと息ついた。
悪くない。
昨日やったところがかなり出た。
その時、玲央がこちらへ来た。
「透」
「何」
「どうだった?」
「たぶん大丈夫」
「そっか」
「おまえは?」
「俺もたぶん大丈夫」
「まあ、おまえはそうだろ」
「でも、昨日一緒にやったところが出た」
「出たな」
「透、符号大丈夫だった?」
「……途中で気づいた」
玲央が少しだけ目を細める。
「よかった」
「おまえの声、思い出した」
言ってから、透は固まった。
余計なことを言った。
玲央も一瞬だけ動きを止める。
「……俺の声?」
「いや、昨日おまえが符号って言ってたから」
「うん」
「それを思い出しただけで」
「うん」
「変な意味じゃない」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「嬉しい顔」
「最悪だ」
玲央は小さく笑った。
高城が横から身を乗り出してくる。
「何、テスト中に榊原の声思い出したの?」
「聞くな」
「それもう勉強の成果っていうか、何か別の成果じゃん」
「勉強の成果だ」
直も少しだけ笑っている。
「でも実際、榊原の説明が残ってたならよかったな」
「それは……まあ」
透は視線を逸らした。
「よかった」
小さく認める。
玲央の表情がまた柔らかくなる。
「透が頑張ってたから、たぶん大丈夫」
静かな声だった。
何気ない励ましのはずなのに、胸の奥にすとんと落ちる。
透は少しだけ黙った。
「……そうかよ」
「うん」
「おまえもな」
「俺?」
「昨日、教えるの頑張ってただろ」
玲央が目を瞬かせる。
「……透」
「何」
「今の、かなり嬉しい」
「知ってる」
もう、それしか返せなかった。
◇
昼休みになっても、小テストの話題は続いていた。
高城は「思ったより書けた気がする」と言い、直に「気がするだけで終わらないといいな」と返されていた。
「水城、追い打ちが冷静すぎる」
「でも昨日よりは書けてたんだろ」
「うん。白石と榊原のおかげだな」
高城は珍しく素直に頭を下げた。
「助かった。マジで」
「結果出てから言え」
透が言うと、高城は笑った。
「白石、そういうところ厳しい」
「点数見ないと分からないだろ」
「榊原は優しく言ってくれそう」
高城が玲央を見ると、玲央は少し考えてから言った。
「昨日よりできたなら、よかったと思う」
「ほら優しい」
「でも間違えたところは見直した方がいい」
「後半が白石寄りだった」
直が小さく笑う。
「二人の教え方が混ざってる」
「混ざるな」
透が返すと、玲央は隣で少しだけ笑った。
玲央は今日も透の隣に座っている。
もうこの席が当たり前になりつつある。
高城がそれを見て、ふいに言った。
「いや、でもさ」
「何だよ」
「おまえら、テスト後の会話まで支え合いカップルみたいだったな」
透は箸を止めた。
玲央も少しだけ動きを止めた。
「……何でそうなる」
透は低く言う。
「だって、どうだった? 大丈夫? 頑張ってたから大丈夫、ってさ」
「小テストの話だろ」
「小テストの話なのに空気が甘いんだよ」
「甘くない」
直が横から言う。
「まあ、支え合ってはいたな」
「直まで」
「カップルかは置いといて」
「置くな。捨てろ」
高城はにやにやしている。
「榊原はどう思う?」
聞くな。
透はそう思ったが、止める前に玲央が口を開いた。
「否定は、したくない」
教室のざわめきが、一瞬だけ遠くなった気がした。
透は玲央を見る。
玲央はいつものように静かだった。
けれど、その声は冗談ではなかった。
高城が「うわ」と小さく声を漏らす。
直も少しだけ黙った。
「……玲央」
透の声は思ったより小さくなった。
「何?」
「そこは否定しろよ」
やっと出た言葉がそれだった。
玲央は少しだけ透を見る。
「ごめん」
「謝るな」
「でも、否定したくなかった」
その言葉は、さっきよりさらに深く胸に入ってきた。
否定したくなかった。
それはつまり、そう見られることを嫌がっていないということだ。
玲央は、透とそう見られることを否定しなかった。
透は箸を持ったまま、何も言えなくなった。
高城が何か言いたそうにしていたが、直が静かに肘で止めた。
「今は黙っとけ」
「……おう」
珍しく高城が素直に黙る。
教室の他の場所では、普通に昼休みの会話が続いている。
誰かが購買のパンの話をしている。
誰かが小テストの愚痴を言っている。
その中で、透の周りだけ少し空気が違った。
「……小テスト」
透はようやく言った。
「うん」
「返ってきたら、見直しするぞ」
話を逸らした。
自分でも分かった。
でも、それ以外に何を言えばいいのか分からなかった。
玲央は、優しく頷いた。
「うん。一緒に」
「……勉強だからな」
「うん」
「そこ、嬉しそうにするな」
「無理」
「……知ってる」
声が少しだけ揺れた気がした。
◇
放課後、透は少しぎこちなかった。
朝から小テストのことを考えていたはずなのに、昼休み以降、頭の中を占めているのは玲央の言葉だった。
否定したくなかった。
何度も思い出してしまう。
玲央がいつものように近づいてくる。
「透」
「……何」
「帰る?」
「帰る」
「一緒に?」
「うん」
いつものやり取り。
でも今日は、少しだけ間ができた。
玲央もそれに気づいたらしい。
「さっきのこと、気にしてる?」
「……気にするだろ」
ごまかせなかった。
玲央は静かに頷いた。
「ごめん」
「謝るなって言った」
「でも、透を困らせた」
「困ったけど」
透は鞄を肩に掛けた。
「嫌だったとは言ってない」
言ってから、自分でも驚いた。
玲央が目を見開く。
「……透」
「何」
「今の」
「うるさい」
「まだ何も言ってない」
「言う前に止めた」
玲央は少しだけ笑った。
教室の後ろで高城が何か言いたそうにしていたが、直に肩を押さえられていた。
「高城、耐えろ」
「俺、今めっちゃ喋りたい」
「耐えろ」
「分かった……」
透は聞こえないふりをして、玲央と教室を出た。
◇
帰り道、夕方の空は穏やかだった。
小テストが終わったせいか、少しだけ肩の力が抜けている。
けれど透の胸の中には、まだ昼休みの言葉が残っていた。
しばらく歩いてから、透は口を開いた。
「……否定したくなかったって」
「うん」
「あれ、本気で言ったのか」
「うん」
「即答するな」
「本気だから」
玲央はまっすぐ前を向いていた。
「俺は、透とそう見られるの、嫌じゃない」
また言った。
昼休みよりもはっきり。
透は足を止めそうになった。
「……そういうの」
「うん」
「簡単に言うな」
「簡単じゃない」
玲央は静かに言った。
透は横を見る。
玲央の表情は落ち着いていた。
でも、その耳がほんの少し赤い気がした。
玲央も、平気で言っているわけではない。
そう分かると、透は少しだけ胸が痛くなった。
「……俺は」
透は言葉を探した。
まだ、玲央と同じところまでは言えない。
言えないけれど、完全に否定することももうできない。
「俺はまだ、そこまで言えない」
「うん」
「でも」
「うん」
「……嫌ではない」
玲央が静かに息を吐いた。
「透の嫌ではない、好き」
「またそういう言い方」
「でも、本当に大事に聞いてる」
「……そんなに大事にするな」
「無理」
「知ってる」
二人でまた歩き出す。
小テストより、隣の反応が気になる。
今日一日、透はずっとそうだった。
テスト中も玲央が解けているか気になった。
テスト後も玲央の言葉に救われた。
昼休みには、玲央が否定しなかったことに動揺した。
勉強会をしたから。
小テスト前だったから。
理由は色々つけられる。
でも、理由を全部外しても、玲央が気になることだけは残る。
透はもう、それをごまかしきれなかった。




