第48話 安心してると言われる方が、たぶんまずい
翌朝、透は駅の柱の前で玲央を待ちながら、昨日のことを思い出さないようにしていた。
思い出さないようにしている時点で、完全に思い出している。
空き教室。
夕方の光。
小テスト前の勉強会。
机に伏せて、ほんの数分だけ寝てしまったこと。
そして、起きた時に玲央が言った言葉。
――安心してる顔だった。
「……忘れろ」
小さく呟く。
玲央に向けた言葉ではない。
自分に向けた言葉だ。
しかし、忘れられるはずがなかった。
写真を見られるのも恥ずかしかった。
名前を呼ぶのも照れくさかった。
弁当の卵焼きを分けるのも、心配して保健室へ連れて行くのも、どれもそれなりに逃げ道がなかった。
けれど、寝顔を見られたのは別だった。
自分が意識していない時の顔を見られた。
しかも、それを「安心してる顔」と言われた。
あれは、かなりまずい。
改札の向こうに玲央が見えた。
今日もいつも通りの歩き方で、透を見つけるとほんの少し表情をやわらげる。
もう喉の調子はよさそうだった。マスクもないし、顔色も悪くない。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
名前で呼ぶ。
そこまでは自然になってきた。
玲央はいつものように隣に並んだ。
「昨日、ちゃんと寝た?」
言われて、透は一瞬だけ固まった。
「……それ、俺が聞く側じゃなかったか?」
「透、昨日少し寝たから」
「蒸し返すな」
「空き教室で」
「場所まで言うな」
「安心してる顔で」
「玲央」
透は低い声で名前を呼んだ。
玲央は少しだけ笑う。
「ごめん」
「絶対悪いと思ってないだろ」
「少し思ってる」
「少しかよ」
いつもの返しだった。
でも、透の胸の中は少し落ち着かなかった。
「……あれは、疲れてただけだ」
「うん」
「小テスト前で、勉強して、夕方だったから」
「うん」
「別に、おまえの前だからとかじゃない」
「そう?」
「そうだろ」
玲央はすぐには答えなかった。
朝の通学路を二人で歩く。
いつもの道。
制服姿の生徒たち。
まだ少し冷たい空気。
その中で、玲央が静かに言った。
「でも、俺は嬉しかった」
「だから、何で」
「透が気を抜いてくれた気がしたから」
逃げ道がない。
その一言で、昨日の空き教室の空気が戻ってくる。
シャーペンの音。
部活の声。
机に伏せた時の眠気。
隣に玲央がいたこと。
「……勉強で疲れてただけだって言ってるだろ」
「うん」
「納得してない返事だな」
「少し」
「しろ」
「難しい」
玲央は困ったように笑った。
「透が俺の前で少しでも楽にしてくれるなら、それは大事にしたい」
「……朝から重い」
「でも本当」
「知ってる」
返してから、透は顔を逸らした。
知っている。
玲央が本気で言っていることも。
自分がそれに弱いことも。
もう、だいぶ知ってしまっている。
◇
教室に入ると、高城が机の上で教科書を開いていた。
昨日よりは少しだけ勉強する気があるらしい。
ただし、その顔は完全に追い詰められていた。
「白石、榊原……俺は昨夜、人間の限界を知った」
「勉強しただけだろ」
透が鞄を置きながら言う。
「小テスト範囲って、見れば見るほど増えるんだな」
「増えない。最初からそこにある」
直が冷静に返す。
「やめろ、水城。真実は時に人を傷つける」
「現実見ろ」
「見た結果がこれだよ」
高城はノートを差し出した。
ところどころ空白だらけだった。
「……おまえ、何を勉強したんだ?」
透が言うと、高城は真顔で答えた。
「危機感」
「点につながらないやつだな」
直がため息をつきながら、高城のノートを覗き込む。
「でも昨日よりはまし。用語は少し入ってる」
「だろ?」
「式が死んでるけど」
「そこを助けてください」
高城が手を合わせる。
透はちらっと玲央を見た。
「玲央、昨日のところ、説明できるか?」
「うん」
自然に名前を呼んだ。
玲央も自然に返事をする。
そのやり取りに、高城がすぐ反応した。
「今の、すごい普通だったな」
「何が」
「白石が玲央って呼んで、榊原が普通に返事したところ」
「いちいち実況するな」
「いや、もう定着したんだなって」
直も少し笑った。
「名前呼び、普通になったな」
「……普通になったなら、もう突っ込むな」
「それもそうか」
直があっさり引いた。
高城も「まあ、それどころじゃないしな」とノートへ視線を戻した。
少し拍子抜けする。
からかわれないと、それはそれで落ち着かない。
いや、からかわれたいわけではない。
本当に面倒くさい。
玲央が、透の顔を見て少しだけ笑った。
「何」
「何でもない」
「今、分かってる顔しただろ」
「透、突っ込まれないのも少し変な感じ?」
「……違う」
「そっか」
「絶対納得してない」
「少し」
高城がノートを抱えたまま言う。
「おまえら、朝から会話に余裕あるな。こっちは崖の端なんだけど」
「おまえが崖に近づいただけだろ」
「助けて、白石先生」
「先生じゃない」
それでも透は、高城のノートを見て説明を始めた。
玲央も隣から補足する。
高城は真剣に聞いていた。
直も時々、間違えやすい部分を指摘した。
勉強会の成果は、どうやら高城にも少しは届いているらしい。
◇
午前中は、小テスト前らしい空気だった。
休み時間ごとに、あちこちで教科書を開く生徒がいる。普段はあまり勉強の話をしない男子たちも、「ここ出るかな」とか「先生ここ強調してたよな」と言い合っている。
透も最後の確認をしていた。
昨日の空き教室で玲央に教わったところは、かなり頭に入っている。
ただ、ひとつだけ問題があった。
玲央が近くを通るたびに、昨日の「安心してる顔だった」がよみがえる。
集中が一瞬だけ切れる。
かなり迷惑だ。
「透」
玲央が席の近くへ来る。
「何」
「ここ、もう一回確認する?」
「そこは大丈夫」
「じゃあこっち?」
「……それも大丈夫」
「本当に?」
「本当に」
玲央は少しだけ透の顔を見る。
「何」
「今日は、昨日より眠そうじゃない」
「昨日は疲れてただけだ」
「うん」
「その話を思い出すな」
「思い出してない」
「嘘だろ」
「少し」
「だから思い出すな」
玲央は小さく笑った。
「でも、今日も無理しないで」
「おまえに言われると変な感じだな」
「昨日まで言われてたから?」
「そう」
「心配し返す」
「し返すな」
「透も無理するタイプだと思う」
「おまえほどじゃない」
「俺ほどじゃなくても」
玲央はそこで少し声を落とした。
「昨日みたいに、疲れてるのに寝ないって言うから」
まただ。
また空き教室の話に戻ってくる。
透は額を押さえた。
「……分かった。無理はしない」
「うん」
「でも、寝顔の話はするな」
「努力する」
「約束しろ」
「……努力する」
「できないやつだな」
玲央は少しだけ目を逸らした。
「安心してたって思うと、嬉しいから」
「だから、それを言うな」
言っても無駄だと分かっている。
でも、言わずにはいられない。
◇
昼休み、玲央はいつものように透の隣へ来た。
「ここ、いい?」
「うん」
透は短く答えた。
玲央が隣に座る。
最近、この流れは完全に日常になりかけている。
高城が購買パンを持って戻ってきた。
「今日の昼休み、最後の追い込みお願いします」
「飯食え」
直が即座に言う。
「食べながら学ぶ」
「消化に悪い」
「点数にも悪そう」
透は弁当を開けながら、高城のプリントを見る。
「ここ、朝やっただろ」
「朝やった記憶はある。理解は旅に出た」
「連れ戻せ」
玲央が横からプリントを指さした。
「ここ、式を一段飛ばしてる」
「え、そこ?」
「うん。ここを飛ばすと、次で分からなくなる」
玲央の説明はやはり分かりやすい。
高城も真剣に聞いて、少しずつ頷く。
「なるほど……榊原先生、分かりやすい」
「先生じゃない」
玲央が言う。
透は横から付け足した。
「そこ、昨日もやったところだろ。条件を分けて、前の式とつなげる」
「白石先生も分かりやすい」
「先生じゃないって言ってるだろ」
直が笑った。
「でも二人、教える時の相性いいな」
「何だその言い方」
「片方が構造を整理して、片方がつまずくところを拾ってる」
「分析が具体的すぎる」
「実際そう見える」
高城がパンをかじりながら頷く。
「もう二人で塾開けるな。白石・榊原学習塾」
「やめろ」
玲央が少しだけ笑う。
「透となら、悪くないかも」
「玲央」
「何?」
「乗るな」
「でも、透と一緒なら」
「その先を言うな」
「言わない」
「本当に?」
「少し我慢する」
「少しなのかよ」
いつものやり取りに戻る。
高城はそれを見て、少しだけ安心したような顔をした。
「白石、榊原の隣だと最近ほんと警戒心薄いな」
「猫みたいに言うな」
透は即座に返した。
高城が指を鳴らす。
「それだ」
「何が」
「警戒心強い猫が、榊原の隣だとちょっと丸くなる感じ」
「最悪なたとえだな」
直が淡々と言う。
「でも、わりと合ってる」
「合ってない」
「白石、今もあまり本気で怒ってないだろ」
「怒ってる」
「猫がしっぽだけ振ってるくらい」
「おまえまで乗るな」
玲央は隣で、少しだけ黙っていた。
透はそれに気づく。
「何」
「いや」
「言えよ」
「透が俺の隣で警戒心薄いなら、嬉しい」
「……猫扱いの流れで真面目に受け取るな」
「でも、嬉しい」
透は言い返せなくなった。
高城が小さく「強い」と呟き、直が笑った。
◇
放課後、最後の勉強会をすることになった。
小テストは明日。
今日で最終確認だ。
高城は「今日は絶対行く」と宣言していたが、直に「その宣言は信用できない」と言われていた。実際、放課後になると高城は部活の顧問に呼ばれ、直は委員会の確認へ行った。
「また二人になったな」
透が言うと、玲央は静かに頷く。
「うん」
「わざとじゃないよな」
「俺は何もしてない」
「それは分かってる」
「残念?」
「……何が」
「二人で」
「小テスト前だからな」
便利な言葉だった。
小テスト前だから。
勉強会だから。
そう言えば、理由になる。
でも、それだけではないことも、透はもう少し分かっていた。
「図書室行くか」
「うん」
今日は図書室に少し空きがあった。
昨日座れなかった窓際の二人用の机が空いている。
隣同士の席。
透は少し迷い、結局そこへ座った。
「……近いって言ったら離すからな」
「うん」
「図書室だから、小声で変なこと言うな」
「変なこと?」
「褒め言葉全般」
「厳しい」
「昨日の反省だ」
「字が好きって言ったこと?」
「蒸し返すな」
「じゃあ、今日は言わない」
「本当に?」
「努力する」
「約束しろ」
「……努力する」
「できないやつだな、やっぱり」
玲央は静かに笑った。
その声が小さい。
図書室だから当然だ。
でも、やっぱり近い。
◇
勉強は順調だった。
最終確認ということもあり、二人とも集中していた。透が問題を解き、玲央が確認する。玲央が別の解き方を示し、透が自分のノートに整理する。
昨日より、さらに分かる。
「ここ、これでいい?」
「うん。合ってる」
「じゃあ次」
「透、だいぶ早くなった」
「おまえの説明のおかげだろ」
玲央の手が止まる。
「……何だよ」
「また褒めてくれた」
「事実だって」
「嬉しい」
「図書室で嬉しそうにするな」
「声に出してない」
「顔に出てる」
「それは難しい」
透はため息をついた。
でも、以前ほど困ってはいなかった。
玲央が嬉しそうにすることに、少し慣れてきている。
それもまた、まずい。
しばらくして、透が一問間違えた。
玲央がノートを指さす。
「ここ、符号」
「あ、本当だ」
「惜しい」
「これ、小テストでやったら最悪だな」
「今気づいたから大丈夫」
「……頼りになるな」
また自然に出た。
玲央がこちらを見る。
透はすぐに言った。
「今のは勉強の話だ」
「うん」
「嬉しそうにするな」
「それは無理」
「知ってる」
小声で交わすいつもの会話。
図書室では、それがやけに近く聞こえる。
透は問題集に視線を戻した。
◇
閉館時間が近づき、二人は荷物をまとめた。
小テストの範囲はほぼ仕上がった。
透としても、かなり手応えがある。
「これなら何とかなるな」
「うん。透なら大丈夫」
「おまえ、最近それよく言うな」
「本当に思ってるから」
「そうかよ」
図書室を出ると、廊下は薄暗かった。
部活の声も少し遠く、校舎全体が夕方から夜へ移っていく時間だった。
「玲央」
「何?」
「今日、ありがとな」
玲央は足を止めた。
「勉強、助かった」
「うん」
「説明、分かりやすかった」
「うん」
「……頼ってよかった」
言った。
思ったより素直に出た。
玲央は、すぐには何も言わなかった。
「何か言えよ」
「今、すごく嬉しい」
「言うと思った」
「でも、ちゃんと言いたい」
「……うん」
玲央の声は静かだった。
「透に頼られるの、好き」
胸の奥が、また変な音を立てた。
「……そういう言い方するな」
「でも本当」
「知ってる」
自然に返す。
でも、それだけでは足りない気がした。
透は少しだけ視線を落とし、それから小さく言った。
「……俺も」
「うん」
「おまえに聞くのは、嫌じゃない」
玲央の表情がやわらぐ。
「嫌じゃない」
「便利な言葉だろ」
「うん。でも、透のそれは嬉しい」
「何でも嬉しがるな」
「透の言葉だから」
「……本当にずるい」
玲央は否定しなかった。
◇
帰り道、二人はいつものように並んで歩いた。
小テスト前日の勉強会は終わった。
明日はテスト本番。
けれど透の中には、勉強の内容だけでなく、玲央に頼った時間が残っていた。
誰かに教えてもらうのは、嫌いではない。
でも、自分が気を許して聞ける相手は多くない。
玲央は、そこに入り始めている。
それが少し怖い。
でも、嫌ではない。
「明日の朝」
玲央が言う。
「うん」
「いつもの時間?」
「いつもの時間」
「待ってる?」
「待ってる」
もう迷わなかった。
玲央が静かに笑う。
「俺も行く」
「知ってる」
小テスト前だから。
勉強会だから。
そういう理由で始まった放課後の時間。
けれど、理由があってもなくても、玲央といる時間を断る理由が少しずつなくなっている。
透はそのことを、もう完全には否定できなかった。




