第46話 図書室で褒めるな。声が小さい分、近く聞こえる
翌朝、透は駅の柱の前で玲央を待ちながら、昨日の図書室のことを思い出していた。
小テスト対策。
放課後の勉強会。
ただそれだけだったはずだ。
実際、勉強は進んだ。玲央の説明は分かりやすかったし、透も問題集をそれなりに解けるようになった。小テストの範囲に関しては、昨日の時点でかなり不安が減っている。
だから、思い出すべきなのは公式とか、間違えた問題とか、玲央が教えてくれた解き方のはずだった。
なのに。
――透の字も、やっぱり好き。
あの一言だけが、妙に残っていた。
「……字だろ、字」
小さく呟く。
ただ字を褒められただけだ。
ノートの字が見やすいとか、綺麗だとか、そういう話だ。
それ以上の意味はない。
ないはずなのに、玲央の声が小さかったせいで、図書室の静けさの中でやけに近く聞こえた。
好き。
たった二文字が、昨日からずっと透の中で妙に引っかかっている。
改札の向こうに玲央が見えた。
今日はマスクなし。声も戻っている。
喉の調子はもう大丈夫そうだ。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
自然に名前で返す。
玲央は今日も少しだけ嬉しそうにした。
以前ほど大げさではない。けれど、分かる。
「喉は」
「大丈夫」
「咳」
「してない」
「水」
「飲んだ」
「……よし」
「今日も確認あるんだ」
「まだ完全に信用してない」
「厳しい」
「おまえが無理するからだろ」
「透が見てくれるなら、少し安心」
「そういう言い方するな」
いつものように返したつもりだった。
けれど、玲央は少しだけ透の顔を見た。
「何」
「昨日のこと、気にしてる?」
「……何を」
「字が好きって言ったこと」
朝から来た。
透は一瞬だけ返事に詰まった。
「……気にしてない」
「今の間」
「気にしてない」
「そっか」
「納得してないだろ」
「少し」
「するな」
玲央は小さく笑った。
「今日も勉強する?」
「……小テスト終わるまではって言っただろ」
「うん」
「だから、する」
玲央の表情がやわらぐ。
「嬉しい」
「勉強だぞ」
「透とだから」
「だから朝からそういうのを言うな」
「昨日よりは控えめ」
「どこが」
透は顔を逸らし、歩き出した。
玲央は隣に並ぶ。
昨日と同じ朝。
でも、昨日の図書室の続きが、まだ二人の間に残っている気がした。
◇
教室に入ると、高城が珍しく教科書を開いていた。
「……高城が勉強してる」
透が思わず言うと、高城は顔を上げた。
「俺だってやる時はやる男だぞ」
「昨日まで終わったって言ってたのに」
「終わったからこそ、蘇生を試みてる」
「言い方」
直が隣で淡々とノートを広げている。
「高城の場合、まず用語の意味から危ない」
「水城先生、そこは言わない約束でしょ」
「約束してない」
高城はそこで透と玲央を見た。
「で、昨日の勉強会どうだった?」
「普通に進んだ」
透が答える。
「本当に?」
「本当に」
「勉強会という名の何かじゃなくて?」
「勉強会だ」
即答した。
高城は少し疑わしそうな目を向ける。
「榊原は?」
「勉強した」
「お、真面目な答え」
玲央は少し考えてから続けた。
「でも、楽しかった」
「玲央」
透が低い声で名前を呼ぶ。
「何?」
「余計な一言を足すな」
「本当だから」
「便利に使うな」
高城が笑った。
「昨日も字がどうこう言って白石を黙らせたって聞いたぞ」
「誰から聞いた」
「榊原の顔から」
「顔で情報を読むな」
直が少しだけ口元を緩める。
「白石、昨日から少し字を書く時だけ慎重になってる気がする」
「なってない」
「今朝、黒板写す前に一回ノート見てた」
「見てない」
「見てた」
見ていた。
昨日、玲央に字を褒められたせいで、今朝ノートを開いた時に自分の字が少し気になったのは事実だった。
もちろん、言わない。
「……小テスト前なんだから、無駄話してないで勉強しろ」
「白石が先生みたいなこと言った」
高城が肩を落とす。
「じゃあ白石先生、ここの範囲を人間の言葉で説明してください」
「直に聞け」
「白石も教えてよ」
「昨日、玲央に教わったところなら」
自然に名前が出た。
一瞬、教室の空気が少しだけ動いた。
玲央がこちらを見る。
高城がにやっとする。
直も目だけで笑っている。
「……何だよ」
「いや、もう普通だなって」
高城が言う。
「何が」
「玲央呼び」
「今さらだろ」
言ってから、透はまた少し固まった。
今さら。
自分でそう言った。
玲央は隣で、静かに嬉しそうにしていた。
「……そこで嬉しそうにするな」
「無理」
「知ってる」
「出た」
高城が笑う。
「そのやり取りも今さらだな」
「うるさい」
透は教科書を開いた。
もう、名前呼びも「知ってる」も、周囲にとっても日常になりつつある。
それが恥ずかしいのに、少しだけ嬉しい。
かなりまずい。
◇
授業中は、それなりに集中できた。
小テストが近いこともあり、先生も要点を繰り返してくれる。透は板書を写しながら、昨日玲央に教えてもらった説明を頭の中で重ねていた。
分かりやすい。
昨日もそう言った。
実際、本当に分かりやすかった。
玲央は余計なことを言う時はとんでもなく直球なのに、勉強を教える時は無駄がない。相手がどこでつまずいているかを見て、必要なところだけ示してくる。
それが少し悔しいくらいだった。
休み時間になると、玲央が透の席へ来た。
「透」
「何」
「さっきの問題、大丈夫だった?」
「大丈夫。昨日やったところだし」
「そっか」
「……説明、分かりやすかったから」
言った瞬間、玲央の表情が変わった。
透はすぐに目を細める。
「嬉しそうにするな」
「無理」
「言うと思った」
「透にそう言われるの、嬉しい」
「勉強の話だろ」
「うん。でも嬉しい」
「……ならいいけど」
玲央は一瞬だけ黙った。
「何」
「今、ならいいけどって言った」
「言ったけど」
「嬉しそうにしてもいいってこと?」
「そこまでは言ってない」
「じゃあ少しだけ」
「許可制にするな」
玲央は小さく笑った。
その時、高城が後ろからプリントを持ってやって来た。
「白石先生、榊原先生、助けてください」
「だから先生じゃない」
「ここ、まったく分からん」
高城が差し出したプリントには、昨日透が玲央に教わった問題と似た形式のものがあった。
透は少し考えて、玲央の説明を思い出しながら言った。
「まず、ここの条件を分けるだろ」
「うん」
「で、ここは前の式とつながってるから」
説明しながら、自分でも理解が整理されていく。
高城は最初こそ眉を寄せていたが、途中で「あ」と声を漏らした。
「分かったかも」
「じゃあ次、自分で解け」
「急に厳しい」
「解かないと意味ないだろ」
直が横から覗き込んで言う。
「白石、説明うまいな」
「昨日、玲央に教わったから」
また自然に出た。
今度は自分でも分かった。
玲央が少しだけ嬉しそうにする。
「……何」
「俺の説明を覚えててくれた」
「勉強だからな」
「うん」
「そこで大事そうに受け取るな」
「大事だから」
「……もういい」
高城がプリントを抱えたまま、しみじみ言った。
「二人で勉強会した成果が俺にも還元されてる。ありがたい」
「本来はそれが目的だっただろ」
「いや、俺はもう半分諦めてた」
「諦めるな」
◇
放課後、高城はまた部活に呼ばれた。
直も先生に頼まれた資料整理の続きがあるらしい。
「つまり今日も二人か」
透が言うと、高城が笑った。
「いやあ、悪いな。小テスト対策という名の放課後デートを邪魔できなくて」
「勉強会だ」
「はいはい」
「その返事やめろ」
直が鞄を持ちながら言った。
「図書室、今日は少し混むかもな。小テスト前だから」
「そうなのか?」
「たぶん。空いてなかったら空き教室でも使えば?」
空き教室。
その言葉に、透は少しだけ昨日の図書室とは別の緊張を覚えた。
文化祭準備の時。
夕方。
二人で残った教室。
あの頃から、ずいぶん距離が変わった。
「……まあ、図書室が空いてればそこにする」
透が言うと、玲央は静かに頷いた。
「うん」
◇
図書室は、直の予想通り少し混んでいた。
小テスト前だからか、普段より生徒の姿が多い。窓際の席も、昨日座った二人用の机も埋まっている。
「どうする?」
玲央が聞く。
「別の席……も空いてないな」
「空き教室?」
「……そうするか」
言いながら、透は少しだけ落ち着かなかった。
空き教室なら、図書室ほど周りに人はいない。
静かすぎる。
逃げ場が少ない。
でも勉強するだけだ。
小テスト対策だ。
それ以外の意味はない。
……と、自分に言い聞かせている時点で怪しい。
二人は図書室を出て、使われていない教室へ向かった。
放課後の空き教室は、夕方の光が斜めに差し込んでいた。
文化祭の飾りはもうない。机も整然と並んでいる。
それなのに、どこか文化祭準備の頃の余韻を思い出させた。
「ここ」
玲央が小さく言った。
「うん」
「文化祭の時も、透と残ってた」
「……思い出させるな」
「嫌?」
「嫌じゃないけど」
玲央が少し笑う。
「じゃあ、思い出してもいい?」
「勝手にしろ」
二人は机を一つ挟んで向かい合う形にした。
図書室のように隣ではない。
それだけで少し落ち着くかと思ったが、今度は玲央の顔が正面にある。
それはそれで落ち着かなかった。
「……勉強するぞ」
「うん」
教科書とノートを広げる。
夕方の教室は、図書室とは違う静けさがあった。
遠くから部活の声が聞こえる。廊下を歩く生徒の足音が時々通り過ぎる。
それ以外は、ほとんど二人のシャーペンの音だけだった。
◇
玲央の説明は、今日も分かりやすかった。
透も昨日より集中できている。
向かい合わせになったことで、距離の近さは少し和らいだ。
ただ、油断すると視線が玲央の顔へ行く。
夕方の光の中で、玲央は真剣にノートを見ている。
いつもより少し柔らかい影が落ちていて、教室の静けさと妙に合っていた。
「透」
「何」
「今、問題じゃなくて俺を見てた」
「見てない」
「見てた」
「……少し」
「集中できてない?」
「できてる」
「じゃあ、この次は?」
玲央が問題を指さす。
透は答えようとして、詰まった。
「……」
「透」
「うるさい」
「やっぱり見てた」
「少しって言っただろ」
玲央は小さく笑った。
「俺のせい?」
「またそれ聞くのか」
「昨日も聞いた」
「昨日よりは集中してる」
「じゃあ、少しだけ俺のせい?」
「……少しだけ」
認めると、玲央はまた嬉しそうにする。
「それで喜ぶな」
「透が俺を見てたから」
「勉強の邪魔になる喜び方をするな」
「ごめん」
「謝る気ないだろ」
「少しある」
いつものやり取りだった。
でも空き教室で二人きりだと、いつもより少し響き方が違った。
◇
しばらくして、透は問題を解き終えた。
「できた」
「見る」
玲央がノートを受け取る。
その時、指が少しだけ触れた。
ほんの一瞬だった。
けれど、透は気づいた。
玲央もたぶん気づいた。
何も言わない。
何も言わないのに、その一瞬が妙に残る。
玲央はノートを見ながら、静かに言った。
「合ってる」
「ほんとか?」
「うん。ここも、昨日より整理できてる」
「おまえの説明が分かりやすかったからな」
今度は、意識して言った。
玲央が顔を上げる。
「透」
「何」
「今日、何回も褒めてくれる」
「事実を言ってるだけだ」
「嬉しい」
「知ってる」
透はシャーペンを指で回した。
「ただ」
「うん」
「図書室で褒めるな」
「え?」
「昨日の字のやつ。声が小さい分、近く聞こえる」
言った。
言ってから、思ったより恥ずかしくなった。
玲央は一瞬だけ黙り、それから目を伏せた。
「……それは」
「何」
「透が気にしてくれてたってこと?」
「そういう解釈をするな」
「でも、昨日から気にしてた?」
「……少し」
玲央がゆっくり笑う。
「嬉しい」
「言うと思った」
「うん」
「でも、ああいうのを図書室で言うな」
「じゃあ、ここなら?」
「場所の問題じゃない」
「でも、昨日より声は出せる」
「出すな」
玲央が小さく笑った。
その笑い方が、昨日より近く見えた。
◇
気づくと、かなり時間が過ぎていた。
小テストの範囲はほぼ確認できた。
透の苦手だった問題も、何とか解けるようになっている。
「今日はここまでにするか」
透が言うと、玲央も頷いた。
「うん。かなり進んだ」
「小テストは何とかなりそうだな」
「透なら大丈夫」
「おまえ、それ昨日も言ってた気がする」
「思ってるから」
「……そうかよ」
教科書をしまう。
空き教室の夕方の光は、さっきより少し濃くなっていた。
机の影が長く伸びている。
帰り支度をしながら、玲央が言った。
「また一緒に勉強したい」
「小テスト終わるまではな」
昨日と同じような返事。
けれど、玲央は少しだけ首を傾げた。
「終わった後は?」
「終わった後は、理由がないだろ」
「理由、探す」
「何でそこまでして」
「透と勉強するの、好きだから」
また、好き。
今度は字ではなく、勉強する時間の話。
透は鞄を持つ手を止めた。
「……そういうの」
「うん」
「普通に言うな」
「でも本当」
「知ってる」
自然に返す。
玲央は嬉しそうにした。
「じゃあ、小テストが終わった後も理由を探す」
「探すな」
「透が嫌なら探さない」
「……嫌とは言ってない」
「じゃあ、探す」
「判断が早い」
透はため息をついた。
でも、そのため息に本気の拒否は入っていなかった。
◇
校舎を出ると、外は夕方だった。
空気は少し冷たい。
部活帰りの生徒たちが校門の方へ歩いている。
二人はいつものように並んで駅へ向かった。
「今日」
玲央が言う。
「うん」
「空き教室、文化祭の時みたいだった」
「……少しな」
「透と残ってた時を思い出した」
「言うと思った」
「思い出した?」
「少し」
玲央が横を見る。
「どのあたり?」
「……夕方の光とか」
「うん」
「机の感じとか」
「うん」
「あと、おまえが近いところ」
言ってから、透は慌てて付け足した。
「いや、今日は向かいだったけど」
「でも、近かった?」
「……近く感じた」
玲央はしばらく黙った。
「何か言えよ」
「嬉しいって言うと怒られそうで」
「もう遅い」
「嬉しい」
「知ってる」
二人で歩く。
放課後、勉強を教えるだけのはずだった。
昨日も今日も、ちゃんと勉強はした。
でも図書室でも空き教室でも、玲央の声や距離や言葉が、問題集より強く残ってしまう。
それが困る。
けれど、明日も勉強すると言われたら、きっと断らない。
透はもう、そのことを分かっていた。




