第45話 放課後、勉強を教えるだけのはずだった
翌朝も、透は駅で玲央を待っていた。
もう、そのことにいちいち言い訳を作るのはやめた。
同じ時間に行く。
柱の前に立つ。
改札から出てくる人の流れの中に、玲央の姿を探す。
それが、最近の朝になっていた。
玲央は、いつもより少し早く改札を抜けてきた。
透を見つけると、表情がやわらかくなる。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
名前で呼ぶことにも、少し慣れてきた。
慣れてきたはずなのに、玲央がそのたびにわずかに嬉しそうな顔をするから、完全には慣れきれない。
「今日は早いな」
「透が待ってるから」
「……そういうの、朝から言うな」
「朝だから言いたかった」
「意味が分からない」
玲央は少し笑った。
その笑い方も、もう見慣れてきている。
見慣れてきているのに、まだ胸の奥が落ち着かなくなる。
二人で学校へ向かう。
道はいつも通りだった。
けれど、いつも通りの中に玲央がいることが、もう少しずつ特別ではなくなり始めている。
特別なのに、普通。
昨日の帰り道で、自分がそう感じたことを、透はまだ覚えていた。
◇
教室に入ると、高城が机に突っ伏していた。
「……終わった」
「朝から何がだよ」
透が鞄を置きながら聞くと、高城は顔だけこちらに向けた。
「小テスト」
「まだ始まってもないだろ」
「始まる前から終わってる時ってあるだろ」
「ない」
直が冷静に言った。
「いや、ある。俺の中ではもう赤点の未来が見えてる」
「小テストに赤点って概念あるのか?」
「心の赤点」
「便利な言葉だな」
高城は机に額をつけたまま、うめくように言った。
「誰か助けてくれ……」
透は自分の席に座りながら、教科書を出す。
「普通に勉強すればいいだろ」
「それができるやつの台詞なんだよ、白石」
「できないならやれ」
「正論で殴るな」
直が小さく笑った。
「白石と榊原は、普通に点取るだろうな」
「まあ、範囲狭いし」
透がそう言うと、高城がゆっくり顔を上げた。
「……今、希望の光が見えた」
「何だよ」
「白石と榊原、二人で勉強すれば効率よさそうじゃね?」
「何で俺たちが」
「二人とも真面目だし、説明うまそうだし」
高城はそこで、急ににやっと笑った。
「あと、放課後に二人で勉強会とか、ちょうどいいじゃん」
「何がちょうどいいんだよ」
「勉強会って名前の放課後デート」
「違う」
透は即答した。
すると、玲央が隣で静かに言った。
「透となら勉強したい」
教室の空気が一拍遅れて動いた。
高城が「はい来た」と言うように手を叩く。
「榊原、強い」
「強くない」
透が低く言う。
「今のは強いだろ。白石が逃げられないやつ」
「逃げるとかじゃない」
直が前の席から振り返った。
「でも実際、白石と榊原で確認すれば、小テスト対策にはなるんじゃないか?」
「直まで何を」
「勉強の話だぞ」
「高城が変な言い方するからだろ」
「俺のせい?」
「おまえのせいだ」
高城は悪びれずに笑った。
「じゃあ俺も混ぜてくれよ」
「最初からそれが目的か」
「そりゃそうだろ。俺は生き残りたい」
直が淡々と言う。
「高城はまず教科書を開くところからだな」
「先生、そこからお願いします」
「俺は先生じゃない」
そんな会話の流れで、放課後に少しだけ勉強することが決まってしまった。
高城と直も来ると言っていたが、高城は部活の先輩に呼ばれているらしい。直も用事があるかもしれないと言っていた。
つまり、最終的にどうなるかは分からない。
けれど、透は何となく分かっていた。
たぶん、自分と玲央の二人になる。
そして、そう思った時点で少しだけ心臓が落ち着かなくなった。
◇
昼休み。
玲央はいつものように透の隣へ来た。
「ここ、いい?」
「……うん」
「ありがとう」
その確認にも、透はだいぶ慣れてきていた。
高城は購買で買ったパンを食べながら、さっそく話を戻してくる。
「で、今日の放課後の勉強会さ」
「おまえ、来られるのか?」
「そこなんだよ。部活の先輩に呼ばれてる。ちょっと顔出してから行くかも」
「来ないやつの言い方だな」
「いや、行く気はある。心は行ってる」
「身体も来い」
直が弁当箱を閉じながら言った。
「俺も先生に資料整理頼まれてるから、最初は無理かもしれない」
「おい」
透は思わず二人を見る。
「おまえらが言い出したんだろ」
「言い出したのは高城」
「俺?」
「俺は現実的に提案しただけだ」
高城がすまなそうな顔を作る。
「白石、榊原、俺の分まで頑張ってくれ」
「何を頑張るんだよ」
「勉強会」
「おまえのための勉強会だっただろ」
「そうだった。じゃあ俺がいない間に、分かりやすいノート作っといて」
「図々しいな」
玲央が隣で少しだけ笑っている。
透はそれに気づき、低く言った。
「笑うな」
「いや」
「何」
「透と勉強するの、少し楽しみ」
「小テスト対策だぞ」
「うん」
「楽しい要素あるか?」
「透がいる」
高城がパンを落としかけた。
「榊原、昼休みにそれ言えるのすごいな」
直も苦笑している。
透は完全に顔を逸らした。
「……本当にそういうのを人前で言うな」
「ごめん」
「謝る気ないだろ」
「少しある」
「いつものやつだな」
高城がしみじみ言う。
「もう、おまえらのやり取り定食みたいになってる」
「定食にするな」
「白石の照れ隠し、榊原の直球、最後に『知ってる』」
「分析するな」
透は箸を置きかけて、やめた。
高城の言う通りになってたまるかと思ったからだ。
しかし玲央は隣で、少しだけ嬉しそうにしている。
その顔を見ると、結局何も言えなくなる。
◇
放課後、予想通りになった。
高城は部活の先輩に連れていかれ、直は先生に資料整理を頼まれた。
教室に残った透と玲央は、しばらく無言で顔を見合わせた。
「……どうする」
透が聞く。
「勉強する?」
「まあ、小テスト近いし」
「図書室?」
「そうだな。ここだと高城が戻ってきた時うるさい」
「それ、言ったら怒られる」
「事実だろ」
玲央は少しだけ笑った。
二人で教室を出る。
廊下は放課後のざわめきに満ちていた。部活へ向かう生徒、帰る生徒、友人同士で立ち話をする生徒。文化祭の時ほどではないが、放課後の学校はそれなりに騒がしい。
図書室に入ると、空気が一段静かになった。
窓際の席が空いていた。
向かい合わせではなく、隣同士に座れる二人用の机。
透は一瞬迷った。
「……向かいの方がよくないか」
「こっちの方が教科書見やすい」
「理屈で距離を詰めるな」
「まだ詰めてない」
「これから詰まるだろ」
玲央は少しだけ笑った。
「嫌なら向かいにする」
「……別に、嫌ではない」
「じゃあ隣で」
「その判断の早さ」
結局、隣に座ることになった。
鞄から教科書とノートを出す。
シャーペンを置く。
小テストの範囲を確認する。
普通の勉強会だ。
普通の、はずだった。
「まず、ここの公式」
玲央が教科書を指さす。
「そこは分かる」
「じゃあ応用の方」
「うん」
玲央の手元が近い。
字が綺麗だった。
ノートの取り方も整っている。余白の使い方がうまく、どこに何が書いてあるのかすぐ分かる。
透は思わず玲央のノートを見てしまった。
「何?」
「……字、綺麗だな」
言ってから、透はしまったと思った。
玲央が少しだけ目を見開く。
「透に言われるの、嬉しい」
「いや、普通に見やすいって意味で」
「うん」
「深い意味じゃない」
「でも嬉しい」
「……分かった」
褒める側なのに、なぜか透の方が照れていた。
おかしい。
勉強しに来たのに、開始数分でおかしい。
◇
しばらくは、ちゃんと勉強した。
玲央は説明が分かりやすかった。
余計なことを言わず、透が分かっているところは飛ばし、引っかかりそうなところだけ丁寧に確認する。
透も真面目に問題を解いた。
解いた、つもりだった。
「透」
「何」
「さっきから同じ問題見てる」
「……考えてる」
「三分くらい」
「難問なんだろ」
「基礎問題」
「うるさい」
玲央が小さく笑う。
図書室なので、声は自然と小さくなる。
それがまた距離を近く感じさせた。
「分からない?」
「分からないわけじゃない」
「じゃあ、集中できてない?」
「……」
言い返せなかった。
玲央が隣にいる。
ノートが近い。
声が近い。
それだけで、妙に意識が散る。
こんなの、勉強会として失格ではないか。
「透」
「何」
「俺のせい?」
「聞くな」
「じゃあ、俺のせいか」
「勝手に決めるな」
「違う?」
「……少し」
認めた瞬間、玲央が黙った。
透は顔を上げない。
「今のは違う」
「何が?」
「いや、違わないけど」
「うん」
「……近いと、ちょっと気になるだけだ」
言った。
言ってしまった。
玲央はすぐには返事をしなかった。
図書室の中で、ページをめくる音だけが聞こえる。
「玲央」
「……何?」
「黙るな」
「今、嬉しいって言ったら怒られそうで」
「怒る」
「でも嬉しい」
「言ったな」
「我慢できなかった」
透はシャーペンを握り直した。
「……勉強するぞ」
「うん」
「絶対に変なこと言うなよ」
「努力する」
「そこは約束しろ」
「難しい」
「何でだよ」
玲央は笑いをこらえるように目を伏せた。
◇
その後も、勉強は続いた。
意外にも、玲央はちゃんと集中していた。
透が分からないところを聞くと、すぐに説明してくれる。透も少しずつ頭が切り替わり、問題が解けるようになっていった。
「ここ、そういうことか」
「うん。だから前の式とつながってる」
「分かりやすい」
自然に言った。
玲央の手が止まる。
「……何だよ」
「今、分かりやすいって」
「説明の話だろ」
「うん」
「そこで嬉しそうにするな」
「無理」
「知ってる」
いつもの流れ。
けれど、図書室で小声になると、そのやり取りまで少し違って聞こえる。
距離が近い。
声も近い。
逃げ場がない。
透は問題集へ視線を戻した。
その時、玲央が透のノートを覗き込んだ。
「透の字も、やっぱり好き」
シャーペンが、指から落ちた。
小さな音が机に響く。
透は固まった。
「……玲央」
「何?」
「図書室で、そういうこと言うな」
「字の話」
「字の話でも言い方があるだろ」
「好きって言っただけ」
「その“だけ”が問題なんだよ」
玲央は少しだけ首を傾げる。
「でも、本当に好きだから」
「追い打ちをかけるな」
透は落としたシャーペンを拾った。
拾うふりをして、少しだけ顔を隠した。
たぶん赤い。
かなり。
玲央はそれ以上言わなかった。
でも隣で、静かに嬉しそうにしている気配があった。
それがまた、どうしようもなく落ち着かない。
◇
図書室を出る頃には、外が少し暗くなり始めていた。
勉強は思ったより進んだ。
小テストの範囲も、一通り確認できた。
つまり、勉強会としてはちゃんと成立していた。
それなのに、透の中に残っているのは公式や問題よりも、玲央の声の近さと、「字が好き」という言葉だった。
「透」
廊下に出てすぐ、玲央が呼ぶ。
「何」
「今日、ありがとう」
「小テスト対策だからな」
「うん。でも、一緒に勉強できてよかった」
「……それはまあ」
透は少しだけ間を置いた。
「効率はよかった」
「効率」
「実際、進んだだろ」
「うん」
「だから、勉強会としては正しい」
「じゃあ、またやる?」
玲央の声は静かだった。
透はすぐには答えなかった。
また図書室で隣に座る。
玲央の声が近い。
ノートを覗き込まれる。
字を褒められる。
心臓には悪い。
でも、嫌ではない。
「……小テスト終わるまではな」
玲央の表情がやわらぐ。
「うん」
「嬉しそうにするな」
「嬉しい」
「知ってる」
二人で廊下を歩き出す。
放課後、勉強を教えるだけのはずだった。
実際、勉強はした。
ちゃんと進んだ。
でも、それだけでは終わらなかった。
隣に座る距離。
小さな声。
綺麗な字。
好き、という言葉。
そんなものが、勉強よりもずっと強く残っている。
透はそれを、まだ誰にも言えない。
けれど、明日もまた一緒に勉強することを拒まなかった自分が、答えの半分くらいを出している気がした。




