第44話 名前呼びが普通になると、苗字の方が遠くなる
翌朝、玲央の喉はほとんど元に戻っていた。
駅の柱の前で待っていた透が、改札を抜けてきた玲央の顔を見るなり、まず喉元へ視線を向ける。
それに気づいた玲央は、少しだけ笑った。
「おはよう、透」
「おはよ、玲央」
「今日は確認ある?」
「ある」
「やっぱり」
「喉」
「大丈夫」
「咳」
「してない」
「水」
「飲んだ」
「のど飴」
「持ってるけど、たぶん今日はいらない」
「……ならいい」
透がそう言うと、玲央は目元を柔らかくした。
「信用、少し戻った?」
「少しな」
「少しでも嬉しい」
「それで嬉しがるな」
「でも、透に心配されるのは嬉しい」
「もう治ってきただろ」
「うん。だから、確認が減るの少し寂しい」
「健康管理を寂しがるな」
玲央は小さく笑った。
その声が昨日よりずっと普通に戻っていて、透は内心でかなり安心した。
安心した、とは言わない。
言わないが、玲央にはたぶん少し伝わっている。
最近、自分の顔は思ったより分かりやすいらしい。
それはかなり不本意だった。
「行くぞ」
「うん」
二人で学校へ向かって歩き出す。
もう傘はいらない。
雨の匂いも薄くなり、朝の空気は少し冷たいだけだった。
隣を歩く玲央の声が普通に戻ったせいか、透は昨日より少しだけ肩の力を抜いていた。
◇
教室に入ると、高城が待ってましたとばかりに顔を上げた。
「おはよう、健康管理アプリと元患者」
「その呼び方、昨日より悪化してるぞ」
「進化だろ」
「退化だ」
透が鞄を置くと、直が前の席から玲央を見た。
「榊原、声戻ったな」
「うん。ほとんど平気」
「よかったな。白石も安心しただろ」
「……まあ」
透が短く返すと、高城が目を丸くした。
「おお、否定しない」
「本当に体調の話なんだから、否定する方がおかしいだろ」
「いや、白石が榊原を心配してたことを普通に認めるのが進歩なんだよ」
「進歩って言うな」
玲央は隣で少し嬉しそうにしている。
透はそれを見て、低い声で言った。
「玲央もそこで嬉しそうにするな」
「無理」
「知ってる」
直が小さく笑った。
「そのやり取り、完全に定着したな」
「定着しなくていい」
「もうしてる」
高城がパンの袋を開けながら言う。
「あとさ、白石、最近ほんと自然に玲央って呼ぶようになったな」
透は一瞬だけ手を止めた。
そう言われると、妙に意識する。
「……別に」
「いや、前は事故だ何だって言ってたのに」
「高城、朝からそういうの掘り返すな」
直が軽く止める。
「でも事実じゃん」
「事実でも朝から言うと白石が固まる」
「もう固まってる」
「固まってない」
透は無理やり鞄から教科書を出した。
玲央は何も言わなかった。
けれど、その沈黙が少し嬉しそうで、透は余計に落ち着かない。
名前で呼ぶことには慣れてきた。
それは事実だ。
でも、他人に指摘されると、急にその名前が特別なものに戻ってくる。
玲央。
ただの名前なのに。
もう、ただの名前ではなくなっている。
◇
その日の三時間目、先生が小テストの返却をした。
最近続いていた小さな確認テストで、文化祭後の空気を引き締める目的もあったらしい。
クラス全体から小さなため息が漏れる。
「点数だけで終わらせるなよ。間違えたところをちゃんと確認しろ」
先生はそう言いながら、答案を列ごとに配っていく。
透の答案は悪くなかった。
というより、かなり良かった。
玲央と放課後に確認した範囲が、そのまま出たところもある。
まだ正式な勉強会というほどではないが、授業前や昼休みに少し教え合うことは増えていた。
「白石、これ後ろに回して」
先生がプリントの束を渡してくる。
「はい」
透は後ろへ回そうとして、ふと席の配置を見る。
玲央の席は少し離れている。
まだ大きく離れているわけではないが、以前よりは距離がある。
「榊原、これそっちの列に」
自然にそう言った。
言ってから、ほんの少しだけ自分で違和感を覚えた。
榊原。
学校なら普通だ。
先生の前で、プリントを回す時に名字で呼ぶのは何もおかしくない。
玲央も普通に受け取った。
「うん」
ただ、その返事が少しだけ短かった。
透は顔を上げる。
玲央はプリントを受け取り、後ろへ回している。
表情は変わらない。
変わらないはずなのに、ほんの少しだけ遠く見えた。
いや、気のせいだ。
授業中だし、周りに人もいる。
名字で呼ぶくらい普通だ。
そう思うのに、胸の奥に小さな棘みたいなものが残った。
◇
休み時間になっても、その違和感は消えなかった。
高城は答案を見て悲鳴を上げている。
「終わった。俺の点数、文化祭の飾りと一緒に片付けられてた」
「意味が分からない」
直が冷静に突っ込む。
「いや、分かるだろ。点数が消えたんだよ」
「消えてない。低い点数として存在してる」
「やめろ、現実を言うな」
透はそのやり取りを聞きながら、自分の答案をしまった。
玲央の方を見る。
玲央は答案を見ながら、いつも通り落ち着いている。
点数はたぶんいいのだろう。
声をかけようとして、少し迷った。
玲央、と呼べばいい。
最近はもう普通に呼んでいる。
でも、さっき榊原と呼んだことがまだ残っていて、なぜかタイミングを見失っていた。
「透?」
先に玲央が気づいた。
「……何でもない」
「今、こっち見てた」
「見てた」
否定するのも面倒で、素直に認めた。
玲央が少しだけ目を瞬かせる。
「点数どうだった?」
「悪くない」
「そっか」
「おまえは?」
「まあまあ」
「おまえのまあまあは信用できない」
「透より少し上」
「ほらな」
いつもの会話だ。
それなのに、透はまだ少し落ち着かなかった。
玲央もそれを感じたのか、静かに聞く。
「透、何か気にしてる?」
「……別に」
「別に、じゃない顔」
「最近そればっかりだな」
「分かるから」
透は少しだけ黙った。
教室にはまだ人がいる。
高城も直もすぐ近くにいる。
ここで変に話すことでもない。
「あとで」
小さく言うと、玲央は少しだけ目を細めた。
「うん」
それだけで伝わった。
そのことに、透はまた少し胸が落ち着かなくなった。
◇
放課後、透はいつものように帰り支度をした。
玲央が近づいてくる。
「帰る?」
「帰る」
「一緒に?」
「うん」
そこまでは、いつも通りだった。
教室にはまだ何人か残っている。
高城は直に小テストの解説を頼み込んでいた。
「頼む、水城。俺に人間の言葉で説明してくれ」
「先生も人間の言葉で説明してただろ」
「俺の脳が受信拒否した」
「まずそこからか」
透はその会話を横目に見ながら、玲央と一緒に廊下へ出た。
夕方の廊下は、少しだけ静かだった。
部活に向かう生徒の足音が遠くから聞こえる。
玲央は透の隣を歩きながら、静かに聞いた。
「さっきの、あとでって言ってたこと?」
「……うん」
「何?」
透は少しだけ歩く速度を落とした。
玲央も合わせる。
「授業中」
「うん」
「プリント回す時、おまえのこと榊原って呼んだだろ」
「うん」
「……普通だろ、学校なんだから」
言い訳みたいになった。
玲央は少し黙ってから頷く。
「うん。普通」
「先生もいたし、プリント回してるだけだし」
「分かってる」
「ならいいだろ」
「うん」
そこで会話は終わるはずだった。
でも、玲央は少しだけ目を伏せた。
「分かってるけど、少し遠く感じた」
透は言葉を失った。
遠く感じた。
その言葉は、思っていたよりもまっすぐ胸に刺さった。
「……名字で呼んだだけだろ」
「うん」
「前はずっとそうだった」
「うん」
「なのに?」
「今は、透が名前で呼んでくれるから」
静かな声だった。
責めているわけではない。
ただ、事実を言っているだけ。
それが余計に透を困らせた。
「……おまえ、本当にそういうの正直に言うよな」
「言わない方がよかった?」
「いや」
透はすぐに首を振った。
「言われない方が、たぶん気になった」
玲央がこちらを見る。
透は視線を逸らした。
「俺も、少し引っかかったから」
「透も?」
「だからあとでって言ったんだろ」
「うん」
「……名字で呼んだだけなのに、何か、変だった」
言ってしまうと、少し楽になった。
玲央は静かに聞いている。
廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
文化祭の時とは違う、普通の放課後の光。
「名前で呼ぶのに慣れると、名字の方が遠くなるんだな」
透は小さく言った。
玲央は少しだけ息を飲んだようだった。
「透」
「何」
「今の、すごく嬉しい」
「言うと思った」
「でも、本当に」
「知ってる」
いつもの返し。
でも今日は、その言葉が少しだけ深く響いた。
◇
校舎を出ると、空は淡い橙色だった。
雨の気配はもうない。
空気は少し冷たいが、歩くにはちょうどいい。
二人はいつもの道を並んで歩いた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
沈黙は苦しくない。
ただ、さっきの会話が静かに残っている。
「……玲央」
透はふいに呼んだ。
「何?」
玲央がすぐに返事をする。
その反応が自然で、透は少しだけ胸が温かくなった。
「別に」
「呼んだだけ?」
「そう」
「そっか」
玲央は柔らかく笑った。
透は前を向いたまま言う。
「距離、戻しただけ」
言ってから、かなり恥ずかしくなった。
けれど、撤回はしなかった。
玲央も、からかわなかった。
「ありがとう」
「礼はいらない」
「でも言いたい」
「知ってる」
玲央が笑う。
その笑い方が、今はとても近く感じた。
「……学校では名字で呼ぶ時もあるからな」
「うん」
「先生の前とか、周りの流れとか」
「分かってる」
「そのたびに寂しそうにするなよ」
「頑張る」
「頑張るのか」
「少しはするかも」
「するな」
玲央はまた小さく笑った。
「でも、透があとで戻してくれるなら大丈夫」
「戻すって何だよ」
「玲央って呼んでくれること」
「……調子に乗るな」
「乗った」
「認めるな」
二人で歩きながら、透は思った。
名前で呼ぶことが特別だった。
でも今は、その特別が普通になり始めている。
そして普通になったからこそ、名字に戻ると少し遠く感じる。
そんな面倒な変化が、自分の中にも起きている。
「明日の朝」
玲央が言う。
「うん」
「待ってる?」
「待ってる」
透はもう、あまり迷わなかった。
「玲央が来るなら」
言ってから、少しだけしまったと思った。
玲央が隣で黙る。
「何」
「今、名前込みで言った」
「……うるさい」
「嬉しい」
「知ってる」
夕方の道に、二人の足音が重なる。
苗字で呼んだだけで遠く感じるなら、名前で呼ぶことはもうかなり近い。
その近さを、透はまだ完全には認めきれない。
けれど、遠くなるよりはずっといいと思っている自分がいた。




