第42話 卵焼き一つで、翌日まで引きずるとは思わなかった
翌朝、空はようやく晴れていた。
昨日まで残っていた雨の匂いも、今朝はだいぶ薄い。道路の端にはまだ小さな水たまりが残っていたが、空は明るく、駅へ向かう人の足取りも少しだけ軽く見えた。
白石透は、いつもの柱の前で玲央を待っていた。
もう、早く着いただけとは思わない。
待っている。
その言葉を、自分の中で使ってもそこまで苦しくなくなってきた。
それが良いことなのか悪いことなのかは、まだ分からない。
ただ、改札の向こうに玲央の姿を見つけた瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着くのだから、たぶんもう答えは出ている。
「おはよう、透」
玲央は今日はマスクをしていなかった。
昨日より顔色もいい。声も、少しだけ戻っている気がする。
「おはよ、玲央」
透は返してから、すぐに玲央の顔を見た。
「今日は咳してないな」
「うん。だいぶ平気」
「喉は?」
「少し違和感あるくらい」
「水は?」
「飲んできた」
「のど飴は?」
「持ってる」
「ならいい」
透がそう言うと、玲央は少しだけ笑った。
「朝の確認、今日もあるんだ」
「治るまではある」
「透、厳しい」
「おまえが昨日、無理して来るからだろ」
「無理はしてない」
「信用はまだ半分って言った」
「じゃあ、今日はもう少し信用してもらえるようにする」
「何だよそれ」
玲央は、昨日より明らかに元気だった。
それが分かって、透は内心でかなり安心していた。
けれど、それをそのまま言うのは少し悔しい。
だから、代わりにいつもの調子で言った。
「悪化してなくてよかったな」
玲央が一瞬、目を細める。
「うん」
「何」
「今の、透なりの『よかった』だと思った」
「……勝手に翻訳するな」
「違う?」
「違わないけど」
言ってから、透は口を閉じた。
違わない。
言ってしまった。
玲央は嬉しそうにしたが、今日は大げさには言わなかった。ただ、静かに笑った。
その反応の方が、逆に心臓に悪い。
「行くぞ」
「うん」
二人で歩き出す。
晴れた朝の通学路は、昨日の雨の日よりずっと歩きやすかった。
傘がない分、距離を取るのは簡単なはずなのに、気づけばいつもの近すぎず遠すぎない距離で並んでいる。
もう、雨のせいにはできない。
「透」
「何」
「昨日の卵焼き」
「……まだ言うのかよ」
「うまかった」
「普通だろ」
「透からもらったから、余計に」
「そういう感想はいらないって言っただろ」
「でも本当」
「禁止したい、その返し」
玲央は少しだけ笑った。
透は顔を逸らす。
卵焼き一つ。
弁当の隅に入っていた、いつもの卵焼き。
体調が少し悪い玲央がほしがったから、ひとつ分けただけ。
それだけのことを、玲央は翌朝まで覚えている。
嬉しいのか、恥ずかしいのか、もうよく分からなかった。
◇
教室に入ると、高城がすぐにこちらを見た。
「おはよう、待ち合わせ組」
「おはようだけでいい」
「おはよう。で、榊原、喉どう?」
珍しく、高城の声には少しだけ本気の心配が混じっていた。
「だいぶいい」
「お、よかったじゃん」
直も前の席から振り返る。
「マスク外せるくらいなら大丈夫そうだな。でも無理はするなよ」
「うん」
「白石の管理は?」
「朝からされた」
玲央が普通に言った。
「言い方」
透がすぐに睨むと、高城が楽しそうに笑った。
「白石、今日も健康管理アプリ?」
「黙れ」
「通知頻度高そう」
直まで乗る。
「水飲め、のど飴持ったか、喉痛くないか、咳したか」
「細かく再現するな」
「実際、聞いただろ?」
「……聞いたけど」
否定しきれなかった。
高城が机に肘をついて、にやにやする。
「いやあ、榊原いいな。白石にそこまで心配されるの、普通にレアだぞ」
「レアなら、大事にする」
玲央が静かに言った。
「玲央」
透は低い声で名前を呼んだ。
「何?」
「それ以上言うな」
「ごめん」
「謝る気ないだろ」
「少しある」
「少しなのかよ」
高城が笑い、直も肩を揺らした。
いつもの教室。
いつもの朝。
けれど、玲央の体調を心配していた昨日からの流れが、まだ少しだけ残っている。
そのせいか、透は玲央が席に向かう後ろ姿までつい目で追ってしまった。
直がそれを見逃すはずもなかった。
「白石」
「何」
「見守りモード、継続中?」
「してない」
「してる顔」
「顔で判断するな」
「最近、顔でだいたい分かる」
「最悪だな」
直は笑っただけで、それ以上は言わなかった。
◇
午前中、玲央は本当にほとんど咳をしなかった。
一度だけ、小さく喉を鳴らすような仕草をした時、透は反射的に振り向いてしまった。
玲央もそれに気づいたらしく、すぐに手元の水筒を持ち上げて見せる。
飲むから大丈夫、という合図らしい。
透は無言で前を向いた。
何だそれ。
通じているのが、余計に腹立たしい。
休み時間、玲央の方から透の席へ来た。
「透」
「何」
「水、飲んだ」
「……報告しなくていい」
「した方が安心すると思って」
「そこまでじゃない」
「でも、さっき見てた」
「見てない」
「見てた」
「……見たけど」
認めると、玲央は少しだけ嬉しそうにした。
「透に見られてると、ちゃんとしようと思う」
「小学生か」
「透が言うなら聞く」
「そういうの、いちいち言うな」
「言いたかった」
「知ってる」
返したあと、透は少しだけ口元を押さえた。
自然すぎた。
もうこの「知ってる」が、完全に癖になっている。
玲央もそれに気づいているのか、ほんの少し目元を緩めた。
◇
昼休みになった。
透が弁当を開けると、いつものように玲央が近づいてきた。
「透、ここいい?」
「……うん」
「ありがとう」
玲央は隣へ座る。
高城が購買の袋を持って戻ってきて、その様子を見た瞬間に笑った。
「今日も定位置」
「毎回言うな」
「だって毎回そうなんだもん」
直が弁当箱を開けながら、静かに言う。
「もう周囲も慣れてきたな」
「慣れなくていい」
「白石は慣れてきただろ」
「……」
「黙った」
高城がすかさず言う。
「黙ってない」
「いや、今のは認めた間だった」
「違う」
玲央は何も言わず、弁当を開けていた。
透は自分の弁当を見下ろす。
今日も卵焼きが入っている。
よりによって、だ。
玲央も気づいたらしい。
視線がそこへ落ちた。
「……見るな」
「見えた」
「見えなくていい」
「今日もある」
「あるけど、昨日みたいにはやらないからな」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってる」
「顔で分かる?」
「最近少しな」
言い返してから、透は自分で気づいた。
今のは、玲央の口癖みたいだった。
玲央が嬉しそうに笑う。
「何」
「透も、俺の顔が分かるようになってる」
「……うるさい」
高城が二人を見比べて、大げさに肩をすくめた。
「何かもう、会話の距離が近いんだよな」
「席は普通だろ」
「席じゃなくて会話」
直が頷く。
「白石が榊原の表情を読むようになってきた」
「分析するな」
「でも合ってるだろ」
合っているから困る。
玲央は隣で、まだ卵焼きを見ている。
透は箸を持ったまま、少しだけ迷った。
昨日は体調が悪かった。
今日はだいぶ良くなっている。
だから、あげる理由はない。
理由はない。
でも。
「……一個だけな」
透は卵焼きを一つ、玲央の弁当箱の端へ置いた。
教室の空気が止まった。
高城が口を開ける。
直が目を細める。
玲央は、卵焼きと透の顔を交互に見た。
「……透」
「何」
「今日、体調悪くない」
「知ってる」
「でも、くれるの?」
「昨日、うまかったって朝からうるさかったから」
「うん」
「……それだけ」
玲央はしばらく黙った。
それから、かなり大事そうに卵焼きを見た。
「重い。卵焼き一個にそんな顔するな」
「嬉しい」
「知ってる」
「本当に嬉しい」
「二回言うな」
高城がようやく息を吹き返した。
「白石が自主的に弁当を分けた……」
「実況するな」
「いや、これは実況するだろ」
直も少し笑っている。
「昨日は体調不良特権だったけど、今日は違うな」
「違わない」
「違うだろ」
透は反論しようとして、やめた。
確かに、違う。
今日は、ただ玲央が嬉しそうにするのを少し見たかった。
そんなこと、絶対に言えないが。
玲央は卵焼きを食べた。
「うまい」
「普通だろ」
「昨日よりうまい」
「同じだろ」
「今日もらえたから」
「……そういう感想はいらないって言った」
「でも本当」
「もうそれ禁止」
玲央は小さく笑った。
透は顔を逸らしながら、自分の弁当を食べた。
卵焼き一つで、翌日まで引きずるとは思わなかった。
しかも、その翌日にもまた分けるとは思わなかった。
自分が一番、予想外だった。
◇
放課後、玲央の喉はほとんど元に戻っていた。
それでも透は最後に確認した。
「喉」
「大丈夫」
「水」
「飲んだ」
「のど飴」
「まだ一個ある」
「帰ったら早めに寝ろ」
「うん」
「今日はもう寄り道なし」
「昨日も言われた」
「今日も言う」
玲央は少しだけ笑った。
「透の確認、明日もある?」
「治ったら減る」
「減るのか」
「何で少し残念そうなんだよ」
「透に確認されるの、嫌じゃなかった」
「……おまえ、本当に」
透は言葉に詰まり、結局ため息だけ吐いた。
教室の後ろから高城が声をかける。
「白石、榊原が元気になったら健康管理アプリ終了?」
「だからアプリじゃない」
「でも榊原、終了したら寂しそう」
「うん」
「頷くな」
直が苦笑する。
「まあ、白石は何だかんだ確認し続けそうだけどな」
「しない」
「するだろ」
「しないって」
言いながら、透は玲央をちらっと見た。
玲央は少しだけ喉元を押さえている。
癖なのか、本当に違和感があるのか。
「……明日の朝、まだ喉変だったら言えよ」
言ってしまった。
高城が吹き出しそうになり、直が静かに笑った。
「ほら」
「今のは別」
「別が多いな」
透はもう返すのを諦めた。
◇
帰り道、夕方の空は昨日より澄んでいた。
雨の名残はほとんど消え、道路も乾き始めている。
風は少し冷たいが、歩きにくいほどではない。
二人で並んで歩く。
いつもの帰り道。
いつもの距離。
でも今日は、弁当の卵焼きのことが妙に残っていた。
「透」
「何」
「今日の卵焼き」
「またその話か」
「ありがとう」
「……礼を言うほどのものじゃない」
「俺にはある」
「大げさ」
「大げさじゃない」
玲央の声は静かだった。
「昨日は、体調悪かったからくれたのかと思った」
「まあ、それもある」
「今日は?」
「……」
透は言葉に詰まった。
玲央が隣で待っている。
また、待っている。
この待ち方に本当に弱くなった。
「……朝、うまかったって言ってたから」
「うん」
「嬉しそうだったから」
言ってから、透は顔を逸らした。
かなり正直だった。
玲央は何も言わなかった。
「何か言えよ」
「言ったら、透が逃げそうで」
「もう遅いだろ」
「嬉しい」
「知ってる」
「今日、何回も言ってる」
「本当だよ」
透は小さく息を吐いた。
「でも、毎回思うから」
「……そういうの、ずるい」
「ごめん」
「謝るな」
二人はしばらく黙って歩いた。
沈黙は、もう苦しくなかった。
駅に近づく頃、玲央がふいに言った。
「またいつか、透の弁当のもの、少しだけもらいたい」
「……体調悪い時だけな」
「じゃあ、少しだけ体調悪いふりしようかな」
透は即座に玲央を睨んだ。
「やったら本気で怒る」
「冗談」
「冗談でもやめろ」
「うん。ごめん」
「体調悪いふりとか、絶対するな」
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
玲央は少しだけ笑った。
「でも、透が本気で怒ってくれるのは嬉しい」
「そこは喜ぶな」
「無理」
「……知ってる」
また同じ言葉で終わる。
けれど今日は、その言葉が少しだけ柔らかく出た。
卵焼き一つ。
たったそれだけのことが、昨日から今日まで二人の間に残っていた。
きっと明日には別の何かが残る。
そう思うと、少し怖くて、でも少し楽しみだった。




