第41話 来ないかもしれない朝に、スマホを見る回数が増えた
翌朝、駅の柱の前に立った透は、いつもより早く時計を見た。
時間は、約束している頃より少し前。
まだ玲央は来ていない。
それ自体は、おかしくない。
昨日だって、一昨日だって、透が先に着いていた。玲央があとから来て、目が合って、おはようと言う。それが最近の朝の流れになっている。
だから今日も、少し待てばいい。
そう思った。
けれど、今日は一つだけ違うことがあった。
昨日、玲央は少し咳をしていた。
保健室へ連れて行って、熱はないと言われて、のど飴ももらっていた。帰り道では普通に歩いていたし、本人も大丈夫だと言っていた。けれど、透は最後に言ったのだ。
無理そうなら、待たなくていい。
来なかったら、体調が悪いんだと思って先に行く。
言った。
確かに言った。
なのに実際、玲央がまだ来ていないだけで、透は落ち着かなかった。
「……まだ時間前だろ」
小さく自分に言う。
スマホを出す。
時間を見る。
まだ一分も経っていない。
しまう。
改札を見る。
玲央はいない。
またスマホを出しそうになって、やめる。
何をしているんだ、と自分でも思った。
待つと言ったのは自分だ。
来なければ先に行くとも言った。
それなのに、いざ来ないかもしれないと思うと、胸の奥が妙にざわつく。
駅の改札からは、いつも通り人が流れてくる。
眠そうな学生。急ぎ足の会社員。イヤホンをつけたまま歩く人。
その中に玲央の姿を探してしまう。
探している。
完全に探している。
もう言い訳のしようがない。
「……連絡くらい、してもいいだろ」
スマホを開き、メッセージ画面を出す。
玲央とのやり取りが表示される。
昨日送られてきた写真も、その少し上に残っていた。
透はそれを見ないようにして、文字を打とうとした。
『体調どうだ』
そこまで打って、手が止まる。
重いか。
いや、昨日あれだけ心配したのだから今さらか。
でも朝からこんなメッセージを送るのは、いかにも気にしているみたいで――
「気にしてるんだろ」
自分で自分に突っ込む。
その時、改札の向こうに黒髪が見えた。
透はスマホを握ったまま顔を上げる。
玲央だった。
マスクをしている。
けれど歩き方は普通で、顔色も悪くはなさそうだった。
玲央は改札を抜け、いつもの場所にいる透を見つける。
そして、少しだけ目を細めた。
「おはよう、透」
マスク越しの声は、いつもより少しだけ低かった。
「……おはよ、玲央」
透はすぐに聞いた。
「喉、大丈夫なのか」
「昨日よりは」
「マスクしてる」
「念のため」
「遅かった」
「ごめん。少し家出るの遅れた」
「体調悪いなら無理するなって言っただろ」
「無理はしてない」
「信用できない」
言ってから、透は自分の声が思ったより強かったことに気づいた。
玲央も少しだけ黙る。
朝の駅前で、雨上がりの湿った空気が流れていた。
昨日の水たまりがまだ道の端に残っている。
「透」
「何」
「心配してくれてた?」
「……してた」
もう、否定する気力がなかった。
玲央が、マスク越しでも分かるくらい表情を和らげる。
「嬉しい」
「喜ぶな」
「でも嬉しい」
「昨日から何回言わせるんだよ。体調の話で嬉しがるな」
「うん」
「本当に分かってるか?」
「分かってる」
透は玲央をじっと見た。
「熱は?」
「ない」
「喉は?」
「少しだけ」
「咳は?」
「朝は出てない」
「水飲んだか?」
「飲んだ」
「のど飴は?」
「持ってる」
玲央が鞄のポケットを軽く叩く。
透はようやく少しだけ息を吐いた。
「……ならいい」
「透」
「何」
「今、かなり心配してくれた」
「だから、そうだって言ってるだろ」
「うん」
「嬉しそうにするな」
「無理」
「知ってる」
いつもの返しが、少し遅れて出た。
それでようやく、朝が始まった気がした。
◇
学校へ向かう道で、透はいつもよりゆっくり歩いた。
玲央が合わせてくれているのではない。
今日は透が、玲央の歩幅を見ていた。
「透」
「何」
「歩くの遅い」
「おまえの喉が本調子じゃないからだろ」
「喉と足は関係ない」
「体調悪い時は全体的に無理するな」
「保護者みたい」
「誰のせいだ」
玲央は小さく笑った。
ただ、その笑いのあとで咳が出ないか、透は少しだけ身構えた。
出なかった。
それだけで安心している自分がいる。
「……今日、体育とかないよな」
「ない」
「放課後も寄り道なし」
「昨日も言われた」
「今日も言う」
「厳しい」
「今日は厳しくするって昨日言っただろ」
「昨日だけじゃなかった?」
「延長」
玲央が少しだけ楽しそうに目を細める。
「透に管理されてる」
「嫌ならちゃんと治せ」
「嫌じゃない」
「おまえが言うと、そうなると思った」
「知ってた?」
「知ってる」
言ってから、透は少しだけ笑いそうになった。
いつの間にか、知っていることが増えている。
玲央が嬉しい時の顔。
無理している時の沈黙。
こっちを見て何か言いたそうにする間。
そして、自分が心配すると本気で嬉しがること。
知りたくて知ったわけではない。
でも、知ってしまった。
それが嫌ではない。
◇
教室に入ると、高城がすぐに顔を上げた。
「おはよう、待ち合わせ……って、榊原マスク?」
高城の声に、直も振り返る。
「喉、まだ痛いのか?」
玲央が鞄を置きながら答える。
「少しだけ」
「昨日の雨か」
「たぶん」
高城が透を見る。
「白石、めっちゃ心配してそう」
「してる」
透は短く答えた。
言ってから、教室の空気が少し止まった。
高城が目を丸くする。
「……おお。否定しない」
「体調悪い相手を心配するのは普通だろ」
「いや、それはそうだけど、白石が即答したのが」
「何だよ」
「なんか、普通に言うようになったなって」
直が静かに頷いた。
「榊原、今日はちゃんと大人しくしてろよ。白石が授業中ずっと気にするから」
「気にしない」
透が反射的に言うと、直がじっと見た。
「本当に?」
「……少しは」
「だろうな」
高城が笑う。
「白石、もう隠す気ないじゃん」
「隠すようなことじゃないだろ」
「いや、その台詞がもうかなり」
そこまで言って、高城は直に肩を叩かれた。
「高城、体調話の時は少し抑えろ」
「お、おう。そうだな」
高城は少しだけ真面目な顔になって、玲央へ言った。
「榊原、無理すんなよ」
「うん」
「白石も見張ってるし」
「それはいらない」
透が言うと、玲央が隣で少し笑った。
「いる」
「いるな」
直も頷く。
「何でおまえらが決めるんだよ」
そんなふうに言い合えるくらいには、玲央の調子は悪くなさそうだった。
透は少しだけ安心した。
◇
一時間目の間、透は結局玲央を何度も見た。
玲央は普通に授業を受けていた。
ノートも取っている。姿勢も崩れていない。咳も出ていない。
それでも気になるものは気になる。
休み時間になると、透はすぐ玲央のところへ行った。
「喉」
「大丈夫」
「水」
「飲んだ」
「のど飴」
「今から」
玲央は鞄からのど飴を取り出した。
透はそれを見届けてから頷く。
「よし」
「透」
「何」
「完全に管理されてる」
「嫌なら早く治せって言っただろ」
「嫌じゃない」
「またそれ」
「透に心配されるのは、嫌じゃない」
「……おまえ、本当に」
玲央はマスクを少しずらして、のど飴を口に入れた。
その仕草を見て、透はようやく少し落ち着いた。
直が横から声をかける。
「白石、医療班?」
「違う」
「でもかなり適任」
「やめろ」
高城が後ろから言う。
「榊原、いいな。白石にこんな心配されるの、レアだぞ」
「うん」
「そこで頷くな」
透が言うと、玲央は少しだけ目元を緩めた。
「レアなら、大事にする」
「体調不良を大事にするな」
「透の心配を」
言い直されて、透は固まった。
高城が机に突っ伏した。
「うわ、朝から強い」
「うるさい」
「今のは榊原が強い」
直も苦笑していた。
透は顔を逸らすしかなかった。
◇
昼休み、玲央はいつも通り透の隣へ来た。
「ここ、いい?」
「……体調悪いやつが聞くな。座れ」
言った瞬間、玲央が止まった。
高城も止まった。
直も弁当箱を開ける手を止めた。
「……何だよ」
透が睨むと、高城がゆっくり言った。
「白石、今、かなり自然に座れって言ったな」
「体調悪いからだろ」
「いや、それ込みでもかなり」
直が小さく笑う。
「榊原、聞かなくていい日が近いかもな」
「……そういう話じゃない」
透は弁当を開けながら言った。
玲央は、少しだけ嬉しそうに透の隣へ座る。
「ありがとう」
「礼を言うな。水飲め」
「うん」
玲央は素直に水を飲んだ。
その様子を見て、透は少しだけ満足する。
「透」
「何」
「今日の弁当、卵焼きある?」
「あるけど」
「一個ほしい」
「は?」
玲央がそんなことを言うのは珍しかった。
透は目を瞬かせる。
「喉痛いのに卵焼き?」
「柔らかいし」
「いや、そうだけど」
「だめ?」
その聞き方はずるい。
透は弁当の端に入っていた卵焼きを一つ箸で取った。
「……一個だけな」
玲央の弁当箱の端に置く。
高城が目を見開いた。
「白石が、卵焼きを、分けた」
「実況するな」
「いや、これ事件だろ」
「事件じゃない」
直が笑いをこらえながら言う。
「榊原、風邪気味特権だな」
「うん」
「頷くな」
玲央は卵焼きを食べた。
「うまい」
「普通だろ」
「透からもらったから」
「……そういう感想はいらない」
「本当にうまい」
「二段構えで来るな」
透は顔を逸らして、自分の弁当を食べ始めた。
だが、胸の奥は少しだけ温かかった。
卵焼き一つ。
それだけなのに、玲央が嬉しそうにするから。
自分まで、少し嬉しくなってしまう。
◇
午後になると、玲央の声は少しずつ戻ってきた。
咳もほとんど出ない。
本人も「だいぶ楽」と言っていた。
それでも、透は放課後になるまで何度も確認した。
「喉」
「大丈夫」
「水」
「飲んだ」
「のど飴」
「もう一個ある」
「帰ったら早く寝ろ」
「うん」
「寄り道なし」
「分かってる」
このやり取りも何度目かになると、玲央は少し楽しそうに返すようになっていた。
「……おまえ、楽しんでるだろ」
「少し」
「体調管理をイベントにするな」
「透がしてくれるから」
「だからそういうのを言うな」
「ごめん」
「謝る気ないだろ」
「少しある」
いつもの調子が戻ってきている。
それに気づいて、透は安心する。
放課後、二人で教室を出る時、高城が手を振った。
「榊原、お大事にー」
「うん」
「白石、看病頑張れー」
「看病じゃない」
「今日一日ずっと看病だっただろ」
「管理だな」
直が言う。
「管理でもない」
透が言い返すと、高城と直は笑った。
玲央は隣で、やっぱり少し嬉しそうだった。
◇
帰り道、空は少し晴れていた。
昨日の雨が嘘みたいに、夕方の光が道に落ちている。
水たまりはまだ少し残っていたが、朝よりずっと歩きやすい。
「今日はまっすぐ帰るぞ」
透が言う。
「うん」
「コンビニもなし」
「水は学校で飲んだ」
「よし」
「透、今日ずっとそれ言ってる」
「おまえが心配させるからだろ」
「うん」
「そこで嬉しそうにするな」
「無理」
「知ってる」
二人で歩く。
いつもの道。
いつもの帰り道。
でも今日は、透の視線が何度も玲央の喉元や表情へ向かってしまう。
「透」
「何」
「もう大丈夫」
「信用はまだ半分」
「半分?」
「今日一日見て、明日の朝悪化してなかったら信用する」
「じゃあ、明日の朝も来る」
「無理なら休めって言ってるだろ」
「行ける範囲で」
「……それならいい」
玲央は少しだけ黙った。
「透」
「何」
「今日、来てよかった」
「学校に?」
「うん。透に会えたから」
「……体調悪い時にそういうこと言うな」
「悪くなくても言う」
「もっと駄目だろ」
透は顔を逸らした。
けれど、少しだけ嬉しかった。
いや、少しではないかもしれない。
玲央が来なかったら、自分はきっと一日中落ち着かなかった。
朝、駅で待って、来ないかもしれないと思っただけで、あれだけスマホを見そうになったのだから。
「……俺も」
透は小さく言った。
「うん?」
「今日、おまえが来て少し安心した」
玲央が足を止めかけた。
「止まるな」
「今の」
「聞こえたなら聞き返すな」
「かなり嬉しい」
「知ってる」
「うん」
玲央の声が少しだけ揺れていた。
透は前を向いたまま歩く。
心配し返されると、思ったより逃げられない。
いつも心配してくる玲央を、今日は自分が心配した。
保健室へ連れて行き、水を飲めと言い、のど飴を確認し、卵焼きまで分けた。
それはもう、ただのクラスメイトの距離ではない。
たぶん、透はそれを分かっている。
分かっていて、それでも明日の朝も待つのだと思った。




